2014年5月10日土曜日

「ボクサー崩れ」という偏見に抗して──袴田事件 もう一つの闘い(落合博)を読む。

 雑誌『世界』6月号が「冤罪はなぜ繰り返すのか」──刑事司法改革の行方,という特集を組んでいます。冤罪にかかわる諸問題を取り扱っていてじつに読みごたえがありました。この特集の引き金となったのが「袴田事件」であったことはだれの目にも明らかなところでしょう。

 この特集と連動して,とても興味深いエッセイが掲載されています。「ボクサー崩れ」という偏見に抗して──袴田事件 もう一つの闘い,と題した落合博さん(毎日新聞記者)が書いたものです。しっかりとした取材に裏付けられたみごとなエッセイで,なかなか読みごたえがありました。記者でなければ書けない内容になっていて,すっかり感心してしまいました。わたしのような立場とはまったく違った視点からの分析で,半ば羨ましくも感じました。

 落合さんのエッセイの書き出しは以下のようにはじまります。
 最高裁で上告が棄却され,死刑が確定していた約30年前,元プロボクサー袴田巌さん(78)が死刑執行の恐怖にさらされながら,拘置所で書いた手紙がある。
 「リングの中で応援してくださっているとのこと,誠に誠にありがとうさまでございます。リングの中は前も後ろも右も左もみなお客様が見ておられます。その中で拳ひとつだけで闘ってきたことが私の唯一の誇りなのです。リングの中において応援してくださることが何よりの真実であり,本当に本当にうれしいです。リングの中においてもリングを降りてからも反則行為は一度たりともしておりません・・・・」

 ここまで読んだだけで,わたしはもう胸が詰まってしまって,あとが読めませんでした。涙があふれ出てきて文字が読めません。それどころか,もう,読む必要はない,と感じました。これだけでもう十分。袴田巌さんという人がどういう人であるかは,もはや疑う余地がない,と確信したからです。こんなにも純で,まっすぐなこころの持ち主が,どうしてまた死刑囚の汚名を注がれなくてはならなかったのか,わたしには信じられません。

 落合さんはここから書き起こして,ボクシング界がいかにして袴田さんを支え,いかにして再審決定にこぎ着けたかを丹念に描き出しています。そこには,いかにも落合さんらしい「愛」が通っている,と感じました。ボクシングを愛するこころ,あるいは,広くスポーツを愛するこころが,このエッセイを生き生きとさせている,と。

 そして,最後にちくりと蜂の一刺しをすることも忘れてはいません。「モノ言わぬスポーツ界」にあって,ボクシング界のこの快挙は異例のことであるとし,「この事実をスポーツの歴史に書き留め,袴田事件を語る時に思い出したい」と結んでいます。この落合さんの指摘はまことに当をえた,わたしにとっては「痛い」ひとことでした。

 つまり,このところ世情を騒がせている「特定秘密保護法」や「集団的自衛権の行使」,あるいはまた沖縄の「基地移転問題」や「尖閣諸島の問題」などに関して,映画監督や俳優たちが名前を連ねて自分たちの主張を明らかにしているのに,スポーツ界は沈黙を守ったままだ,と。それでいて,オリンピック招致が決まったときのあの熱狂はいったいなんなのか,と。さらには,東日本大震災以後,声高に言われるようになった「スポーツの力」とはいったいなんなのか,と。

 ここに籠められた落合さんのメッセージをわたしは重く受け止めたいと思いました。できることなら,このつづきの話を落合さんと個人的にでもいいので,してみたいと願っているところです。落合さんが,みずから提起された「モノ言わぬスポーツ界」のことをどのように考えていらっしゃるのか,とくとご意見を伺ってみたいのです。もちろん,わたしにも考えがありますので,それを落合さんに聞いてもらいたいのです。その目指すところは「スポーツとはなにか」という根源的な問いです。もっと言ってしまえば,いま,この時代を生きているわたしたちにとって「スポーツとはなにか」という問いです。

 いま,わたしのようなスポーツ史・スポーツ文化論に身を寄せている者も,そして,メディアでスポーツを取り扱っているジャーナリストも,決定的に欠落しているのは,この根源的な「問い」だ,とわたしは考えているからです。こういう議論を,できることなら公開の「場」でとことん尽くすことが喫緊の課題だと考えるからです。いつか,落合さんとそういう機会をもちたいと切に願っているところです。

 その意味で,この落合さんのエッセイはわたしにとってはきわめて重要なメッセージを伝えてくれるものとなりました。

 というところで今日のブログはおしまい。
 
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