2014年5月2日金曜日

山中六さんから詩集『指先に意志をもつとき』(南方新社)がとどく。

 一昨年(2012年)の奄美自由大学(今福龍太主宰)でお会いした詩人の山中六さんから新しい詩集『指先に意志をもつとき』(南方新社)が送られてきました。二泊三日の奄美自由大学の全日程が終了し,これで解散という間際になって山中六さんと,あわただしくことばを交わし,メール・アドレスを教えていただいてお別れしました。が,わたしが聞き間違えたのか,このメール・アドレスでの交信はできませんでした。ああ,ご縁がなかったんだ,と諦めていました。

 そこへ,つい先日,鷺沼の事務所の方に山中六さんの新しい詩集がとどきました。文庫本サイズのとてもおしゃれな詩集です。書名の「指先に意志をもつとき」というのは,「私が書き続けていくこと。感謝の意」である,とあとがきにあります。この書名からも推測ができますように,六さん(奄美では「六さん」でとおしていましたので)は肉体派の詩人だと,わたしは受け止めています。

 奄美でお会いして最初に話がはずんだきっかけは,六さんが若いころに土方巽が立ち上げた暗黒舞踏に触発されて舞踏をめざしたことがあった,と聞いたときです。そうか,この人は奄美で生まれた人なのに,どうしてまた舞踏なのか,とそれはまた新鮮な驚きでした。舞踏に反応するそういう感性の持ち主であり,また,そういう肉体を持ち合わせている人なのだ,と。

 ひところ,わたしも大野一雄や土方巽の「舞踏」に惹かれたことがあり,舞台公演を追いかけたことがありました。そして,この人たちの書いたものも,かなりまじめに読み込みました。そこには確たる思想があって,そこから舞踏が立ち上がってくるのだ,ということも知りました。それは土俗的な,あるいは土着的な,大地から突き上げてくるようなエネルギーを,生身の肉体を剥き出しにして表出させる,そんな生の躍動なのだ,ということも知りました。

 こういう舞踏に反応して,若き日の情熱を注ぎ込んだ六さんという人の生き方に興味がありました。そうして,お話を伺っているうちに,舞踏のつぎは焼き物の世界に飛び込み,ゼロからの修業をした,とも伺い,これまたどういう人なのだろうか,びっくり仰天です。それからまた紆余曲折を経て,こんどは詩人になります。もう書かずにはいられない,そういう強い衝動が沸き上がってきて,その衝動のままに書いた詩集『見えてくる』(1992年)を刊行。この詩集で翌年,第16回山之口貘賞を受賞。以後,詩人として創作に励むかたわら,出版社のお仕事をなさっています。(※これらはわたしの記憶と略歴をたよりに書いていますので,あるいは間違っているかもしれません。その場合にはお許しください。)

 気がつけば,わたしの指先が勝手にキー・ボードを叩いています。六さんの情念のような,それに似たなにかに突き動かされてでもいるかのように。こころをまっさらにしてパソコンに向かうとき,時折,こういうことが起こります。これってなんだろうなぁ,と思うことがあります。が,考えてもしかたがありません。指は動くのです。もちろん,脳からの指令で動くのですが,その自覚がありません。そして,目の前に現れる文字をみて,わたしの脳がわれに返ります。そんな時は,かけがえのないわたしの至福のとき。

 六さんが詩のことばを書きつけるときというのは,どんな具合なんだろうなぁ,と想像しながら詩集を繰り返し読んでいます。しかし,詩を論評する力はありませんので,最後に,書名となった詩「指先に意志をもつとき」を紹介しておきたいと思います。


指先に意志をもつとき


反論などない
生かされている
闘争のなかに
一瞬の合間
見えてくるのは 愛

日常と非日常
醸し出す文字
その愛 闘争
反映することは
あるのだろうか

雨が降る
今日という日常
変えようとしている
友といる
勘違いをしてしまう

ゆ る ぎ な き こ と

親指の先
人指し指の先
中指の先
脈々と流れている
薬指の先
小指の先
たしかな水脈

そこに船を 浮かべよ!

掲げる拳
この
指の
先に

意志を も つ と き
 

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