2014年5月24日土曜日

野口雨情・覚書。「橘」─「楠」姓から「野口」姓へ。三河・加茂郡野口村に縁故。

 北茨城市に旅にでる機会があって,野口雨情の生家を尋ねました。この生家の屋敷内に「野口雨情生家資料館」を建てて,雨情の直系の孫にあたる野口不二子さんが管理されています。わたしが尋ねたときには不二子さんはご不在で,その婿養子になられた旦那さんがガイドをしてくださいました。

 驚いたのは,野口雨情の祖先はたどっていくと,楠正季(正成の弟)にゆきつくということ,しかも,楠一族の祖は橘諸兄だというのです。その家系図が掛け軸になって掛けてあって,たしかにそのように書いてありました。橘諸兄といえば,母は橘三千代。その夫は藤原不比等。橘諸兄の父は敏達天皇の子孫である大宰師美努王。光明皇后(夫は聖武天皇)の異父兄。本命からは少しはずれるものの藤原一族の末端に位置づく人物です。のちに,藤原不比等の4人の息子がことごとく病死してしまったので,急遽,その穴埋めとして朝廷の左大臣として取り立てられます。そして,ついには聖武天皇を支える重鎮として大きな業績を残すことになります。

 この橘諸兄の末裔が楠一族だそうで(これには異説も多い),その頂点に立つ楠正成の弟の正季が野口雨情の祖だというのです。が,この楠一族は南北朝時代の南朝・後醍醐天皇に味方し,湊川の合戦で敗れて,逃げ落ちていきます。そして,ついには身分を隠して,三河・加茂郡野口村(現・豊田市野口町,いまも飯田街道沿いの小さな町)に逃げ込みます。そこで,追手の目をくらますために楠の姓を捨てて,野口姓を名乗ります。このときから野口家がはじまります。

 それからさらに時代がくだって,江戸時代に入り,楠一族の残党が北茨城に隠れ住んでいるという話を頼りに移住し,こんにちの磯原に定住することになります。そして,初代水戸藩主徳川頼房(家康の第11男)に取り立てられ,郷士として仕えることになります。水戸黄門さんも野口雨情の祖先を可愛がり(水戸学によって楠正成は「悪党」から一気に「勤皇の志士」に引き上げられます),しばしば磯原の野口家を訪れ,海を眺めて楽しみ,とうとう「観海亭」と命名したといいます。それが,こんにちの雨情生家のもとだというのです。

 そして,以後,野口家からは数々の名士が誕生し,各界で活躍をし,その名を残しているといいます。その最後に登場したのが野口雨情というわけです。

 こんなことがわかってきますと,三河出身のわたしとしては,とても他人事とは思えなくなってしまいました。ので,帰り際に,野口不二子著『野口雨情伝──郷愁と童心の詩人』を買ってきました。これから中を読んでみようと思っています。

 そして,ふと気づくのは,童謡はいろいろの人がつくった歌もふくめて,ずいぶん馴染んできたはずですが,いまも記憶していて歌えるのは野口雨情の童謡ばかりです。そして,その歌詞をよくよく考えてみますと,ふつうの日本語とはいささか趣を異にしていることがわかります。ちょっと変な日本語という感じなのですが,なぜか,すんなりとからだの中にしみ込んできます。そして,そのままこころの奥深くに定着し,記憶されてしまいます。野口雨情の「童心」のままに作詩された歌詞がそのままわたしのこころを捉えて離さない,そんな感覚です。

 伝記には「CD」がついていますので,あとで歌詞を堪能しながら,ゆっくり聞いてみようと思います。ちらりと本の中を覗いてみましたら,野口雨情のヒット曲のほとんどは中山晋平が作曲していることがわかります。なるほど,この名コンビが,あの数々のヒット曲を生んだのだ,と納得してしまいます。

 北茨城市の旅で,思いがけない発見をすることになり,とても満足しています。北茨城市といえば,岡倉天心の六角堂があります。ここも尋ねました。こちらについては,また,いずれ書いてみたいと思います。

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