2014年5月6日火曜日

コンピューター(ロボット)が脳(人間)を超えるとき。「2045年問題」。ほんとうだろうか。

 2045年といえば,わたしは106歳。こんなことはありえないので,ちょっとだけ安心。
 でも,このときにはコンピューター(ロボット)が脳(人間)を超えていく,と聞くといささか不安。
 というよりは,いったい,どういうことが起きるのか,いまのわたしの脳では理解不能である。
 その理解不能なことが起きるということが不安なのである。

 4月21日(月)の東京新聞に「20XX年の人類」という記事があって,「機械進歩 脳を超える」という大きな見出しが躍っている。そのつぎの見出しは,「2045年問題」技術予測困難に,とある。なあんだ,専門家でも予測困難だというのであれば,わたしごときが理解不能であってもなんの不思議もない。が,それにしてもいったい,なにが,どういうことになってしまうのか,不安ではある。なにせ,予測不可能な時代に突入していくというのだから。

 新聞によると,ムーアの法則というものがあって,大雑把に言ってしまえば,コンピューターに積み込まれたトランジスタの数が一年半ごとに倍になる,というものだ。その法則にしたがえば,5年で10倍,10年で100倍,20年で一万倍になる。こんなことは起こりえない,集積回路には限界があると何回も言われてきたが,そのつど,その難題を克服して,法則どおりにいまもその数を増やし続けている,というのである。

 その結果が,新聞でも取り上げられたように「コンピューターソフトに敗れ,頭を下げるプロ棋士」である。新聞記事によれば,すでに優れた人工知能が一部のスマートフォンには搭載されていて,単に博学なだけではなく,「愛している」と呼びかけると「ごめんなさい」と応答するという。これに豊かな表情をする顔が加われば完璧だという。そうかなぁ・・・とわたしは疑心暗鬼。

 さらに新聞記事はつづく。引用してみる。
 コンピューターは人間的になってきた。特定の機能に優れているだけでなく,感情を持ったコンピューターの登場もありうる。コンピューターの能力が全人類を超えてしまう今世紀半ばのある時期は,技術的特異点とも呼ばれる。こそれから先は,どのように技術が進歩していくか,見当がつかなくなるからだ。

 そして,さらに,
 特異点を超えて進歩した人口知能は,人類には理解できない文化を築き,その動向を予測できなくなる可能性もある。一方,人間が脳を直接コンピューターに接続し,生物としての限界を超えることもできるとみる。

 こんな記事を読んでいると,そういえば,どこかで不思議な話(講演)を聞いたことがあるなぁ,と思い出す。詳しいデータは省略するが,そこでの話は以下のようである。イギリスとアメリカの研究者が共同で研究プロジェクトを立ち上げ,人間の身体を遠隔操作で動かす実験をやっている,と。ある特定の筋肉細胞にチップを埋め込んだアメリカにいる人間を,イギリスからコンピューターで操作して動かす,というのである。しかも,すでに原理的には成功している,という。あとは実用段階で,チップを埋め込まれた人間の意志と,それを操作する人間の思惑とをいかにして同調させるか,だという。

 ここでパッとわたしの脳にひらめいたことは,ドーピング・チェックをかいくぐるスポーツ選手の登場である。たとえば,100mランナーの脚部に必要なチップを埋め込んでおいて,遠隔操作をして,早く走らせることが可能となるのでは・・・というようなこと。あるいはこんなことは極秘裏に,すでに行われていて,だれも気づかないでいるのかもしれない・・・ということ。

 でもまあ,スポーツの領域でのことは小さな問題だ。それより,「人類には理解できない文化を築」いたり,人間が「生物としての限界を超える」ような事態が生まれてくることの方がはるかにことは重大である。そうなると,もはや「人間の歴史」は終焉を迎え,新しい「ロボット人間の歴史」がはじまることになるのだろう。ということは,「人間が生きる」という根源的な問いをどのように克服していくのか,という新たな難題がそこには生まれてくることになる。

 しかし,ここにはさらに考えるべき重大な問題が横たわっている。特異点に立ったときに,人間はいったいなにを考えるのだろうか。あるいは,その前にどれだけのことを考えておかなくてはならないのか。コンピューターの急速な進展と人間の「思考停止」は無縁ではない,と考えているのでなおのこと,そこはかとない恐怖感が襲ってくる。

 20XX年にならないと,だれも,なにも予測もできないのだろうか。それにしても「2045年」がその年に相当するとすれば,そんなに遠い先のことではない。下手をすると,わたしは106歳で生きていたりして・・・・。あな恐ろしや。

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