2014年5月1日木曜日

『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(多木浩二著,岩波現代文庫,2013年)を読む。

 3月29日(土)に今福龍太さんにお出でいただき,わたしたちは「ISC・21」3月東京例会(第81回)を開催しました。主たるテクストは『多木浩二「映像の歴史哲学」』(今福龍太編,みすず書房,2013年)でした。内容は,レニ・リーフェンシュタールの映画『オリンピア』(1936年のオリンピック・ベルリン大会を撮った二部作)の話題からはじまって,『プロヴォーグ』の時代の話題,そして,ベンヤミンの話題へと展開させながら「映像」というものの「歴史哲学」を,多木浩二さんが語ったものです。

 このテクストを手がかりにして,今福さんは多木浩二さんの生き方,思想,哲学について,じつに愛情の籠もったことばで,わたしたちに語りかけてくださいました。予定していた時間をはるかに延長する,熱弁をふるってくださいました。それは,ある意味で,多木浩二さんに対する今福さん流のレクイエムにも聞こえました。その触手はわたしにも及んでいて,わたしはいたく感動し,同時にたくさんの宿題を胸に秘めることになりました。

 そのひとつが,多木浩二さんとヴァルター・ベンヤミンとの関係でした。とりわけ,多木浩二さんが「歴史の天使」(パウル・クレーの絵をベンヤミンが読み解いた断章を多木浩二さんが引用しながらみずからの写真論を展開。ここにベンヤミンと共振する多木さんの「歴史哲学」を見届けることができる)と「Kunst」(カントのいう意味での「生活のなかの技芸」)との関係をどのように考えておられたのか,この点にいたく惹きつけられるものがありました。なぜなら,これを明らかにすることが,たとえば「スポーツの歴史哲学とはなにか」「スポーツにとってKunstとはなにか」を考えていく上できわめて重要であると気づいたからでした。

 そこでやおら取り出してきたテクストが,この多木浩二さんが書かれた『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』でした。この種の本は,いつか読まなければならないという本として,かなりの量の買い込みがしてあります。ですから,まずは,このテクストを読むことから作業にとりかかろうと,ピンとくるものがありました。

 わたしたちにとって必要なことは,レニ・リーフェンシュタールの記録映画『オリンピア』(二部作)をどのように受け止めるか,そして,それをどのように「批評」するのか,という大きな課題に応えることです。そのためには「映像」というものを読み解くための「歴史哲学」が必要です。となると,多木さんがみずからの「歴史哲学」を構築する上で大きな位置を占めてきたと仰るベンヤミンの「歴史哲学」を見届けることが不可欠となります。

 そのテクストのひとつがベンヤミンの書いた論文「複製技術時代の芸術作品」であります。しかも,この論文を多木さんが「精読」する,というとてもありがたいテクストまであるのですから,これを手始めに読むのは常道というものでしょう。しかも,当たり前といえば当たり前の話ですが,「複製技術時代」に当面した芸術作品の問題は,そっくりそのままスポーツ文化に当てはめて考えることができます。

 たとえば,ベンヤミンが提示した芸術作品が「礼拝的価値」から「展示的価値」へと移行するという概念装置は,そっくりそのままスポーツ文化を分析する手法として応用できるのではないか,と考えるからです。ベンヤミンは,絵画というものが前近代までは(とりわけ,「複製技術時代」が到来するまでは),たったひとつの作品として,ある特定個人の所有になっていて,その所有者の承認がなければ鑑賞することができない,そういう「礼拝的価値」をもっていた(つまり,アウラがあった)のに対して,近代の,それも「複製技術時代」(写真から映画へと移行する時代)にあっては美術館に公開「展示」されるものへと絵画のあり方そのものが大きく変化することに注目しています。なぜなら,この変化によってそれを享受する人間の生き方(あり方)そのものも大きく変化していくことになるからです。この問題は,そっくりそのまま,わたしが提示してきました「ヴァナキュラー・スポーツ」から「セントラル・スポーツ」へという概念装置と二重写しになってみえてきます。これが一つです。ですから,このことを知ったことだけでも,多木さんの「精読」は,わたしにとっては大きな転機になりそうです。ほんとうにありがたいかぎりです。

 問題は,この概念装置を用いて,では,そこからなにを導き出すのか,そのための方法はなにか,ということになります。すなわち,複製技術時代(写真,映画,など)を通過するときに,スポーツ文化と人間との関係はどのように変容したのか,そこに分け入っていくための方法,すなわち「歴史哲学」が問われることになります。さらには,その時代になって新たに生まれたものはなにか(新たな可能性はなにか),そして,それによって失ったものはなにか,を腑分けしていく作業が必要になってきます。わたしちの作業(スポーツ史,スポーツ文化論)は,大きな概念装置を設定したところまでで,止まってしまっています。なぜなら,スポーツ史研究のための「歴史哲学」を欠いていたからです。

 このような問題意識で,このテクスト『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』を読み進めていきますと,目からウロコが落ちるような新しい発見の連続です。そこはまさに,新しいスポーツ史研究のための発想の宝庫だと言っても過言ではないでしょう。

 このことに勇気づけられましたので,次回の「ISC・21」5月大阪例会では,「『歴史の天使』と『Kunst』について」というテーマで問題提起をさせていただこうと考えています。これまでのスポーツ史研究の大きな壁を,この際,ひとつ突き破ってやろうではないか,と意欲満々です。きっと多くの人がなんらかの反応を示してくれ,さらに面白い議論が展開できるのではないか,と期待しているところです。そして,そのさきに新たに見えてくる地平がどのようなものか,いまから楽しみにしているところです。

 ということで,今日のところはこのテクストに触発された,そのほんの一部を紹介させていただきました。
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