2014年5月5日月曜日

練習量がすべてを決定する柔道(井上靖『北の海』)。柔道の真髄は寝技にあり。

 作家井上靖の自伝的小説三部作といわれている作品群があります。『しろばんば』,『夏草冬濤』(上・下),そして『北の海』(上・下)です。いずれも主人公は「洪作」。すなわち,作家井上靖の少年時代のある側面を代弁する人物。

 父親の職業(軍医)の関係で転勤が多く,幼少時から親元を離れて育てられた「洪作」少年の,こころ暖まる忘れられない日々を描いた作品『しろばんば』,親の監視の目のとどかない旧制中学時代の自由奔放な生活ぶりを描いた『夏草冬濤』,そして,高校受験に失敗して浪人の身でありながら柔道三昧に明け暮れる日々,そんななかで高専柔道の名門・四高(旧制第四高等学校・現金沢大学)受験を決意するまで,を描いた作品『北の海』です。

 時代は大正末期から昭和のはじめにかけての,ある意味では日本の激動期にあって,洪作少年はそんな世の中の動向とはまったく無縁な,天衣無縫な生活を堪能します。金は親元から必要なだけは送られてくる。ふしだらな日頃の生活ぶりを監視する人はいない。まことに自由奔放な生活をこころゆくまで満喫します。その結果は二度にわたる受験の失敗(中学受験,高校受験)となって跳ね返ってきます。が,そんなこともどこふく風とばかりに,生活そのものをエンジョイします。

 洪作少年の特異な生活環境と生来の性格がうまくマッチングして,古きよき時代の少年の「暮らし」ぶりがもののみごとに描かれています。わたしが育った時代はもう少しあとになりますが,それでもかなり多くの部分が共有・共感できるものがあって(バンカラ風を装う立ち居振る舞い,など),その意味では「懐かしさ」でいっぱいになります。

 前置きが長くなってしまいましたが,本題に入りたいと思います。

 「練習量がすべてを決定する柔道」というものの存在を,浪人中の洪作少年は,たまたま沼津中学の柔道部の道場に遊びにきた四高柔道部の蓮実に教えられます。そして,この蓮実の説得力のある話に惹きつけられ,即座に,四高を受験し,柔道部に入ることを決意します。その説得力の一つは,蓮実は背も低く,体格も貧弱,筋力もそれほどでもない,そんな蓮実に洪作少年は,立ち技では勝っていても寝技に入ると手もなく締められてしまいます。この寝技こそが柔道の真髄であり,「練習量がすべてを決定する」と蓮実がいうのです。つまり,寝技は練習すればするほど強くなる,というのです。

 四高柔道部のめざすところは高専柔道大会で優勝することにあります。高専柔道大会の存在はあまり知られていませんが,第二次世界大戦前までは(つまり,1945年までは),講道館が主催する柔道大会など,比べ物にならないほどの,圧倒的な人気がありました。

 高専柔道大会とは,旧制の高等学校・専門学校の柔道大会であって,その主催は京都大学(のちに,東京大学と共催)でした。全国の予選大会を勝ち抜いてきたチームが集まってきて決勝大会を開催します。試合の方法は,10人1チーム(人数は何回も変更されている)で,「勝ち抜き」戦。したがって,戦法・戦略は,最悪でも「負けない」柔道をすること。たとえ弱くても強い相手と引き分ければ互角の勝負。そのための最大の武器は寝技。立ち技は,たとえ強くてもはずみで投げられる,ということが起こりえます。しかし,寝技は「練習量がすべてを決定する」というわけです。勝てないと思ったら逃げて逃げて「引き分け」ればいい。それで立派に一人前の役割をはたすことができるというわけです。

 ご存じのように寝技は「関節技」か「締め技」のいずれかで勝負が決まります。つまり,相手がギブ・アップするまで闘います。しかし,チームの名誉を背負って闘う選手たちは,自分からギブ・アップするのは不名誉なので,関節技は「折れる」まで,締め技は「落ちる」まで,闘うことになります。それでは困りますので,これを「防ぎ切る」ための研究を徹底的にやります。それが「練習量」ということの意味です。

 もともと柔道は素手で闘う格闘技です。格闘技の最終ゴールは「相手を殺す」ことです。殺すためには「締め技」が手っとり早い。関節技で腕をへし折ったとしても相手は死ぬわけではありません。ましてや,立ち技で相手を投げ飛ばしたところで,相手は立ち上がってきてまた闘いを挑んできます。ですから,立ち技はみた目には派手でも実用性という意味では,ほとんど役に立ちません。最終的には寝技にもちこんで「締める」しかありません。

 高専柔道大会はこの精神を保守していたというわけです。ですから,寝技の優劣が高専柔道大会を制することになる,とどこの柔道部も考え,そのための練習をし,新しい「締め技」の研究に取り組みます。そして,新しい「締め技」が毎年のように開発され,そのチームが活躍することになります。ですから,どこの柔道部も必死です。

 かくして,四高柔道部では「練習量がすべてを決定する柔道」を目指すことになります。洪作少年をスカウトにきた蓮実は,その代表的な存在だったというわけです。そして,そのことばに鋭く反応した洪作少年は四高受験をめざすことになります。そして,受験勉強もほったらかしたまま,まずは,四高柔道部の練習とはいかなるものかを知りたくて,四高柔道部の熾烈をきわめる夏合宿に参加します。

 ここでの描写が,この作品の一つのクライマックスを構成しています。このあたりには作家井上靖実体験にもとづく描写がふんだんに盛り込まれているはずです。ですから,迫力満点です。柔道を語らせたら井上靖にまさる作家はほかにいないのではないでしょうか。のちに,みずからも選手として活躍した高専柔道大会がめざしたものはなにか,ということがリアルに描かれています。その意味で,この時代の柔道の実情を知る上で,これ以上の優れたテクストはないと言っていいでしょう。

 さらに付け加えておけば,講道館柔道が戦後になって追求した柔道は「スポーツ」でした。開祖嘉納治五郎は総合格闘技としての柔道を構想していましたが,戦後は,GHQの占領政策に迎合するかたちで「柔道はスポーツである」宣言をします。このあたりから,柔道の形骸化が一気に進展していきます。なぜなら,高専柔道大会も武徳会柔道も姿を消してしまうからです。その結果,講道館柔道の一人勝ちとなります。こうなりますと,もう,歯止めがききません。その醜態ぶりは,近年の不祥事をみれば明らかです。

 時代の風(GHQ占領政策)に吹き飛ばされた高専柔道大会も武徳会柔道も,じつは柔道の真髄を死守しようとした結果です。「歴史の天使」(ベンヤミン,クレー)は必死で「柔道の真髄」を死守すべく振り返るものの,強い風(GHQ,講道館)に吹き飛ばされてしまいました。その結果が,こんにち目の当たりにする「JUDO」の惨状です。

 「根をもつこと」(シモーヌ・ヴェイユ)を忘れてしまった現代人の頽落(ハイデガー)ぶりは目を覆うばかりです。この問題は,なにも柔道に限ったことではありません。現代社会・世界を生きるわたしたち全員が背負わされた宿命のようなものです。そこからの脱却のために,いまこそ智恵を絞り,行動を起こさなくてはならない,きわめて重大な局面を迎えている,とわたしは考えています。

 さらに,もう一点。高専柔道大会と寝技の関係を,わたしは,「歴史の天使」と「Kunst」の関係で捉え直してみたいと考えています。どこまで可能か,5月17日(土)の楽しみです。
 
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