2011年8月14日日曜日

「笹踊り」と朝鮮通信使との関係について。

愛知県豊川市の牛久保町に住む郷土史家柴田晴廣さんから,この地方に伝わる「笹踊り」を収録したDVDとUSBが送られてきた。この「笹踊り」はわたしの育った愛知県豊橋市の大村町にも伝承されていて,子どものころの祭りの楽しみのひとつだった。

「笹踊り」は,大太鼓ひとつ,小太鼓ふたつ,計3人が太鼓を打ちながら舞い踊るのが基本となっている。太鼓をからだの前にくくりつけ,両手にもったバチで叩きながら,さまざまな所作をしながら,村の各地を練り歩く。神社の本殿から舞いでてきて,本殿前の広場でひとしきり踊ったあと,村の集落をへ巡っていき,それぞれの重要なボイントにくると「笹踊り」をみせる。

わたしの育った大村町では,八所(はっしょ)神社を中心にした,住吉,柴屋,沖木,為金の四つの集落が氏子集団を形成していた。八所神社という名からすると,かつては八つの集落があったのか,と推測される。しかし,いまはそれを確認することはできない。この四つの集落から,毎年,3人の踊り手が選ばれ,一カ月ほど稽古を重ねて本番を迎える。自分の集落のところに「笹踊り」がやってくると,みんな集まってそれをみて楽しんだ。踊り手さんたちも真剣に舞い,踊り,ときに拍手ももらったりしていた。

この「笹踊り」の大太鼓はからだの大きい人が選ばれ,小太鼓は小柄な人が選ばれていた。わたしは,ちびだったので,大きくなったら小太鼓に選ばれることを夢見ていた。大太鼓は大きな踊りだったが,小太鼓は重心を低くして後ろに反り返る,越後獅子のような所作があって,そこを大太鼓が飛び越えていく(跨ぎ越していく)ところが強く印象に残っている。村中の子どもたちが,いつかはおれも,と憧れていたと思う。

話は一足飛びにとぶが,この「笹踊り」の起源は,朝鮮通信使にあるという。この話は,冒頭の郷土史家の柴田晴廣さんから聞いた。これには驚いた。少なくとも,わたしの育った大村町にはそのような伝承はすでに忘れられていたように思う。あるいは,わたしが耳にしなかっただけのことかも知れないが・・・。この風変わりな「笹踊り」の起源が朝鮮文化にあったとは・・・・?

朝鮮通信使といえば,江戸時代の将軍職が交代したときに,その慶賀のために朝鮮から派遣された使節だったはず。その朝鮮通信使たちの中に,この「笹踊り」の起源になる踊りをする人たちがいて,東海道の主だったところで舞い踊りをみせたらしい。それが話題になって,大勢の人が集まって観賞した。ここまではいい。問題は,なにゆえに,その「踊り」に「笹踊り」という名前をつけて,このあたりのひとたちが伝承してきたか,ということだ。

朝鮮通信使は,東海道をとおって江戸まで行ったはず。だとすれば,この踊りが東海道筋の各地に伝承されていてもおかしくはない。なのに,なにゆえに,この地域にだけ集中して伝承されているのか,というテーマが浮かび上がってくる。

そこで思い出されるのが,金達寿の書いた『日本のなかの朝鮮文化』(全6巻?)という本である。もう,かなり前のことだが,ある必要があって,この本をかなり熱心に読んだことがある。この本によると,日本のあちこちに朝鮮文化が,かなり集中的に伝承されている,というのである。そして,いまの市政でいえば,豊橋市,豊川市,田原市には,相当に多くの朝鮮文化が伝承されている,という。しかし,この本のなかには「笹踊り」のことはなにも記述されていなかった。

だから,子どものころに馴染み,憧れていた「笹踊り」が朝鮮通信使にそのはじまりがあると聞いて,ビックリ仰天したほどだ。なぜなら,それが村祭りのひとつの呼び物となるパフォーマンスとして伝承しているからだ。村祭りといえば,少なくとも氏子集団の結束を確認するための,ひとつの重要な年中行事だ。その中に「笹踊り」が組み込まれているということ。しかも,日本の祭りの多くは,江戸時代の後期に入って盛んになったという。

大村町は,わたしの育った時代には,豊川が氾濫すると,すぐに水浸しになってしまう。大雨が降ると学校は自動的に休みになった。集落ごとに大水に囲まれて孤立してしまうからだ。こういう地勢学的にみても不思議なところに住みついた人たちが,どういう人たちであったかは容易に推察ができよう。いまごろになって,こんなことを思い描いている。

その引き金になったものが「笹踊り」である。朝鮮通信使のみせた踊りに惹きつけられるなんらかの心象が共有されていた人びとだったのか,と。なるほど,文化というものは,そういう形で伝承されるものなのか,と。わたしもまた,そういう心象をどこかに分けもっていることに違いはない。いまもなお,なつかしく「笹踊り」を思い出しているのだから。

それにしても,「笹踊り」のDVDとUSBを送ってくださった郷土史家の柴田晴廣さんに感謝である。柴田さんは,ご自分で,「笹踊り」が伝承されている村祭りを尋ね歩いて,ビデオで収録されているのだ。その成果を,わたしに分けてくださったという次第。ありがたいことである。

3 件のコメント:

柴田晴廣 さんのコメント...

 「八つの集落」という件
 八所神社昇格記念奉賛会発行八所神社昇格記念誌発行委員会編『大村八所神社と松原用水』に、松原用水(大村井水)開鑿で人柱になった八人(今八王子社の祭神)は、住吉、柴屋、沖木、為金に畑ヶ中、大磯、大蚊里、長瀬の庄屋と出ていました。

まゆのほっぺ さんのコメント...

父は牛久保の出身ですが、今回の笹踊りの話は初耳でした。私が父から聞き知っているのは「うなごうじ祭り」ぐらいなものでした。

柴田晴廣 さんのコメント...

まゆのほっぺさん
 はじめまして
 私は中学生のとき、上若組の「隠れ太鼓」を踊り、上若の総長をやり、若い衆を抜けた後、二十年近く上若組の隠れ太鼓の笛を吹いていました。
 長年牛久保の若葉祭に携わり、私自身が疑問に思ったことを、通説に惑わされることなく、調べ、現在『牛久保の若葉祭』のタイトルでまとめています(推敲途中ですが、下記URLに目次が掲載してあります)。
 http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/newpage8.htm
 上述のように推敲中ですが、縦書きA5判で九百ページあまりになっています。
 この『牛久保の若葉祭』の拾遺2が「笹踊」についてです。
 目次を見ればわかるように、現在二十箇所で笹踊が行われています(旧額田町の石原は後述する笹踊の定義には当てはまりませんが、東三河の笹踊の影響を受けて始めたことは確かです)。この二十箇所すべてみた人は、私のほかに、昨年石原でも東三河の影響を受けた笹踊が行われていると教えてあげた人以外にいないと思います。
 東三河在住でも、石原を除いた十九箇所で笹踊が行われている事を知っているひとは、パーセントでいっても、おそらく一桁以下でしょう。
 おそらく、お父様も、知らないと思います。
 さて、笹踊の定義ですが、稲垣さんが書かれているように、大太鼓一人、小太鼓二人の三人が、胸に太鼓を付けて踊るという点が石原を除く十九箇所の共通点です。
 そしてその三人は、笠を被り、唐子衣装を纏っているということも十九箇所の共通点になります。
 加えておけば、笹踊といっても笹を持って踊る踊りではないことです。
 このように考えた場合、なぜ「笹踊」という名称になったのかという疑問が生じます。
 笹踊が最初に始められるのは吉田天王社(現吉田神社/豊橋市関屋町)で、十七世紀後半のことです。
 この吉田天王社の踊りが元になり、他に伝播したのであれば、踊りの共通点も笹踊の定義に欠かせないものとなるわけですが、昭和に入ってから吉田から伝えられた大村、はっきりした時期はわからないものの明治以降に三谷から習った伊奈(伊奈の踊りの前半部分は菟足神社の踊)以外、伝系は確認できません。
 話は戻りますが、韓国・朝鮮語で「ses saram nori」で三人の踊りを意味します。
 私は二十年余り前、当時中断されていたものを除き(石原も除くが)、ビデオに収め、何度もビデオでその所作を確認し、その所作から一所で始まったものが伝播したものではない、すなわち、それぞれ別個に始められたものであり、起源や衣装を考えれば、朝鮮通信氏の影響と考えることが合理的。さらには上記三人の踊りを意味する韓国・朝鮮語の「ses saram nori」が笹踊に訛化したのではないか等をまとめ「東愛知新聞」に寄稿しました。
 同じ東三河でも山間部の花祭と異なり、「笹踊」の研究家などいません。上記「東愛知新聞」の寄稿が数少ない笹踊の論考の一つですから、お父様が知らなくても不思議ありません。
 なお、豊川市のHPなどでも「うなごうじ」は「蛆虫」のこと、などと書かれていますが、これなどまったく根拠のない都市伝説です。
 「うなごうじ」は「尾長蛆」の方言で、などともっともらしく書かれているものもありますが、旧宝飯郡(現在の豊川市、蒲郡市及び豊橋市大村町などの豊川(とよがわ)以北)で、「尾長蛆」を「うなごうじ」といった例は方言辞典等にも載っていません。お父様も「うなごうじ」などという方言は知らないと思います。
 この「うなごうじ」=「蛆虫説」は、田原の教育委員会に籍を置いていた伊奈森太郎(1883~1961)が書いた『三河のお祭』により広まるわけですが、伊奈は「ウナゴウジというのはウジムシのことで、これは行列の一組である笹踊の一隊の中にヤンヨウガミというのが有ってウジ虫の如く地上をころころ転びのたづるから付いた名である」(同書69頁)と書いています。若葉祭のヤンヨウ神は、柔道の後ろ受身の要領で寝転がり、「地上をころころ転びのたづる」ことはありません。実際に見学にも来ず、ろくに調べもせずに書いたものが広まってしまったわけです。
 また若葉祭の起源を領主牧野氏が城内に領民を招き、酒に酔った領民が、千鳥足で、転び、起こされながら帰った様子を伝えるものだ、などこれももっともらしく書かれていますが、戦国時代に城内に領民を招けば、スパイが紛れ込み、牧野氏は、戦国の世を生抜くことはできなかったでしょう。若葉祭で笹踊が登場するのが、宝永5(1708)年、前年には、宝永の大地震がありました。吉田宿23町のひとつ呉服町の住人・(1694~1787)が著した『三州吉田記』には、吉田藩主牧野氏から地震見舞いに金品と酒が振舞われ、大日待ちを開いた旨が記されています。当時牛久保は旗本米津領、牛久保にも牧野氏から酒が振舞われても越権行為、米津氏に遠慮して、戦国時代のこととしたのでしょう。
 『牛久保の若葉祭』には、以上のようなことを書いています。
 長くなり申し訳ありません。