2012年4月16日月曜日

「スポートロジイ」のすすめ。「スポーツ科学」のグローバル化に抗して。

「スポーツ科学」がいま世界を席巻している。ロンドン・オリンピックの年を迎えてますます元気がいい。まるで,スポーツ科学がスポーツの競技力を向上させる最大の功労者であるかのように,メディアを賑わしている。しかし,なにか勘違いをしていませんか。

選手たちの競技力を高めていく上での最大の功労者は,コーチであり,監督です。つまり,現場の最先端で指導に当たっている当事者たちです。にもかかわらず,この選手たちと日々,直接指導に当たっている監督・コーチを差し置いて,スポーツ科学者なる人たちが,なにかといえば,テレビの画面にすぐに顔を出す。だから,一般の人たちは「科学」は凄いと短絡的に受け止めてしまう。しかし,それは大いなる間違いなのである。

競技をするのは選手自身です。選手が「その気」になるかならないかは,科学の力ではありません。監督・コーチはもとより,それ以外の家族や友人やご近所の人びとも含め,精神的・物質的にさまざまな支援をしてくれている人びとの熱い思いが,選手自身の志と結びついたとき,選手は「その気」になります。しかも,選手の志を支える「信念」がしっかりしていなくてはなりません。この「信念」とは,思想・心情であり,広い意味での人生哲学です。もっと踏み込んでおけば,信仰であり,哲学です。ここが選手の強い意思を構成する「核」となる,とわたしは考えています。

こういうメンタルな,数量化も合理化もできない,非合理な側面からのサポートが選手たちにとっては大きな支えとなります。これが立派なアスリートを育成していく上で,もっとも重要な要素であるとわたしが考えています。しかし,このもっとも重要な要素はスポーツ科学の研究対象からは消去されてしまいます。なぜなら,科学的に計測したり,数量化して,客観的な因果関係を明らかにすることは不可能だからです。つまり,スポーツ科学は,こうした非合理的な要素をすべて排除・隠蔽している,といっても過言ではありません。

にもかかわらず,スポーツ科学は素晴らしいという。わたしからすれば「想定外」の,あまりに高い評価を受けています。これはいったいどういうことなのでしょうか。答えは簡単です。だれの眼にもみえるもの,数量化できるものを抽出して,その因果関係を説明してみせるからです。それはとてもわかりやすいからです。しかし,眼にみえない,計測できないもっと重要な要素はすべて消去されているという事実については,ほとんどの人が気づいていない,ということです。この問題については,一度,とことん問題を洗いざらい明らかにする必要があると考えています。が,ここでは,ひとまず,ここまでとしておきましょう。

このような書き出しをしたということには,じつは,わたしなりの思い入れがあります。スポーツが勝利至上主義にからめ捕られていくことに対する許しがたい憤りがわたしのなかにあるということ。そして,生身のからだを生きる人間にとって「スポーツとはなにか」という根源的な問いも答えもなしに,ただ,勝てばいい,というところに収斂されていくこんにちのスポーツ観に対する徹底したアゲインストがわたしのなかにはある。

勝てばいい,というスポーツ観が圧倒的多数を占めているために,では,勝つためにはどうすればいいのか,ということが一番のテーマとなる。そして,勝つための部分的要素をとりだしてきて,その要因をもっともわかりやすい数量的合理主義のもとに明らかにするスポーツ科学が熱烈歓迎されることになる。しかし,それが「部分」の証明であって,全体の証明にはなっていない,ということが忘れられている。のみならず,その「部分」が,いつのまにやら「普遍」へと短絡していく。

ここに大きな落とし穴がある。が,ほとんどの人はそれに気づかずに,スポーツ科学がこう言っているということに絶大なる「信」をおく。近代社会を生きる人間は科学的合理主義に弱い。みんな「丸飲み」にして,それを信じてしまう。だから,部分的証明がいつのまにか全体的真実へと転化していく。そのことに気づかない人間が圧倒的多数を占める。それが,こんにちの現実そのものを写し出している。(じつは,「原発安全神話」もまったく同じ手法のもとで意図的・計画的に形成されてきたものである,ということに注意を喚起しておこう。)

それではいけない。この隘路からなんとかして抜け出さなくてはならない。そのためにはどうしたらいいのか。考える。もう,ずいぶん前から考えつづけている。なんとかしてここから脱出することが肝要だと信じて。そのためには,スポーツ科学に代わるべき受け皿を用意しなくてはならない,と。そうしてわたしの頭のなかからでてきたアイディアのひとつが「スポーツ学」である。それを,あえて,「スポートロジイ」(Sportology)と置き換えて,あらゆる過去のしがらみから解放された,まったく白紙の,自由な発想の,自然科学に偏らない、思想・哲学はもとより,人類学や歴史も含めたトータルな学問領域を想定している。このスタンスこそが,21世紀のスポーツ文化を考えていく上で,しかも,「3・11」後を生きるわたしたちのスポーツ文化を考えていく上で,必要不可欠である,とわたしは確信している。

かくして,「スポートロジイ」(Sportololgy)の構想やその可能性については,すでに10年以上も考えつづけている。日本語にすれば「スポーツ学」。まだ,広く認知されているわけではない。しかし,こころある一部の人びとは,そこはかとない予感に導かれるようにして,「スポーツ学」という新しい学問の可能性を探りはじめているのも事実だ。が,だれもその具体的なイメージを語ろうとはしない。そろそろ,だれかがやらねばならない。もっとも切実感をもった人間がとりかかることになるのだろう。

それが,どうやら,わたしの使命となりつつある。そんな予感が次第に強くなる。そうした思いに突き動かされるようにして,わたしは,いま,『スポートロジイ』と銘打った研究紀要を発行しようとしている。題して「スポーツ学」事始め。

この稿はエンドレスになってしまった。際限がない。しかも,時間切れ。ひとまず,ここで終わりにしておく。このつづきは,また日を改めて書くことにしよう。

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