2012年4月23日月曜日

今福龍太編『むかしの山旅』(河出文庫)がとどく。恩寵の来訪。嬉しい。

まずは,表紙カバーのコピーから。
「まだ山が山であった頃の,むかしの山登りの話。日本アルプス黎明期の開拓,初縦走,初登攀から,憧れの山,久恋の山への想いを綴る名随筆集。北海道から九州までの名峰二十余座の山岳紀行文集成。芥川龍之介,大町桂月,木暮理太郎,小島烏水・・・24人の,純粋な山へ寄せる愛情がみずみずしく溢れる,すべての岳人に贈る一冊。」

いつもの伝で,まずは,帯のコピーを読み,表紙カバーのデザインを堪能し,目次を眺め,そして,最後のページの「解説 薄墨色の恩寵」を読む。さらには,途中ではらりと落ちてきた「謹呈」のしおりに「百年前の山々へ,いそいそと・・・・今福龍太」と添え書きがあり,これがまた格別嬉しい。そして,昨夏,奄美大島に招いていただいた「奄美自由大学」(今福龍太主宰)での記憶が蘇ってくる。至福のひととき。

わたしが若いころ,山歩きに熱中していたことがあるということを,今福さんは覚えていてくださったようだ。だからこそ,この本を贈ってくださったとおもう。それがまた格別に嬉しい。

今福さんの「あとがき」は,いつものとおりの今福節が満開。山の大自然を表現するためのありとあらゆることばを探し出してきて,みごとに当てはめていく。だから,山を歩いたことのある人間には,そのときの感覚がそのまま蘇ってくる。おそらく,山にあまり親しみのない人たちにも,山って魅力的なところらしい,という気分にさせてくれるだろう,それが今福さんのいう「薄墨色の恩寵」である。いわゆる暗闇と日当たりの境界領域。その両方にまたがったあたりの恩寵。いわゆる二項対立の考え方からは生まれえない恩寵。

たまたま偶然なのだろう。「あとがき」には,甲斐駒ヶ岳の話と北沢長衛小屋の話が登場する。わたしの愛した山々は南アルプス。だから,この話は全部,手にとるようにわたしのからだが反応する。そして,わたしのからだの奥底に沈殿していた記憶が鮮烈に浮かび上がってくる。まるで,魔術にかかったかのように。わけても,北沢長衛小屋の長衛さんとは,直ににらみ合った,忘れられない記憶がある。いまから考えるといささか恥ずかしい記憶なのだが・・・・。それでいて無性に懐かしい。もう,じっとしていられないような,強烈な懐かしさだ。

南アルプス全山縦走計画を立てて,静岡(光岳)から入って山梨(鳳凰三山)に抜ける,という野望を実行に移したことがある。大学の3年生の夏。ようやく山屋のからだができあがりつつあるときだった。言ってみれば絶好調のとき。しかし,前半は苦労の連続だった。最初の頂上である光岳(テカリダケと呼びならわしていた)から,塩見岳の手前までは,総勢6名のパーティで歩いていた。しかし,体力的に限界を感じたらしい仲間のうち4名が,ここで下山していった。南アルプスの後半はたった二人。しかし,ここからは呼吸も足もぴったり合っていたので,じつに快適な山歩きを楽しむことができた。毎日,6名で歩くことを前提にした予定時間よりも,はるかに早い時間に目的地に到着してしまうのである。だから,夕食の準備まで,たっぷり時間がある。この時間を利用して,テントの周辺を探索する,おまけ付きの山旅だった。そうして,快適に歩きつづけて(すでに2週間が経過していた)最後のフィナーレを飾るべく,北沢長衛小屋にたどりついた。そして,千丈岳に一日,甲斐駒ヶ岳に一日という予定を,一日で両方登ってしまおうと,二人で地図を広げて念入りにチェックをし,いまのわれわれなら大丈夫だ,と判断した。

そこに長衛さんがやってきて,「明日はどういう予定だ?」と聞く。「朝4時に出発します」とわれわれ。千丈にしろ甲斐駒にしろ,そんなに朝早く出発しなくてもいいだろう,と長衛さん。いや,両方やりますから,とわたしたち。なにっ!と声を発したあと,厳しい口調で「山を舐めるんじゃあないっ!」と。そして,じっと睨み付けてきた。わたしは,なぜ,この人に叱られなくてはいけないのか,とじっと眼をみる。あっ,この人は真剣だ,と感じたが,同時に,「絶対にできる」と確信していた。その自信も一歩も譲らないという相当なものだった。だから,目線をはずさず,わたしもじっと見つめたままだ。どのくらい睨み合っていたのだろうか。わたしが目線をさずさないので,とうとう「勝手にしろ」と言って,長衛さんは立ち去った。

怖いもの知らずとはこのことだ。若さというものは恐ろしい。いまでは考えられないことだ。しかし,この長衛さんの「にらみ」がわたしたちのこころに火を点けた。絶対にやり遂げてみせる,と。

翌朝4時までに自分たちて朝食をつくって済ませ,「行ってきます」と挨拶に行った。長衛さんは,無言で,じっとわたしたち二人の姿を眺めていた。重い荷物は預かってもらったので,軽装である。午前4時に出発して,快調に飛ばし,頂上に立ち,記念撮影をして,景色を堪能して,小屋に戻ってきたのは午前8時前だった。

大きな声で「ただいまっ!」と小屋のなかに向かって挨拶。小屋の奥の方で長衛さんが「おう」と応答。荷物をまとめて,「お世話になりました」とわたしたち。「今夜はどこだ?」「すぐそこのガレ場です」「雨はしのげるか」「はい,大丈夫です」「まあ,お茶でも一杯飲んでいけ」「いえ,時間がもったいないので」「お前らなら大丈夫だ。ひといき入れていけ」。そのときの眼差しの優しかったこと。昨夜の睨みとはまったくの別人だった。「では,いただきます」ということになった。「お前らはどこから登ってきた?」「静岡県の千頭川を詰めて,光岳から赤石岳,塩見岳,間ノ岳,北岳を経由して・・・・」と話した。長衛さんはニコニコして聞いている。でも,最後にひとこと。「山を舐めたらいかんぞ。細心の注意と備えを忘れるな」と言って,二人の肩を叩いてくれた。

嬉しかった。「ありがとうございます」と帽子をとって頭を下げたら,思わず涙がにじんできた。これはいけない,と反射的に帽子をかぶる振りをして顔を隠し,くるりと背を向けて歩きはじめた。二人とも,ゆっくりとした歩き方(2尺4寸のザック─当時最大─を背負ったときの鉄則だ)でかなりきたところで,小屋の方をふり返った。長衛さんが立ってじっと見送ってくれていた。これもまた嬉しかった。頭だけ下げて,甲斐駒ヶ岳に向かった。ガレ場に荷物を置いて,軽装で甲斐駒に向かう。足は絶好調。どんどん高度を稼ぎ,あっという間に尾根にとりついた。頂上からガレ場に戻ってきたときは,午前11時30分。

いつもと同じ,夕食までの時間はたっぷりある。ガレ場の見晴らしのいいところに寝ころがって,摩利支天の勇壮なバットレスを仰ぎみていた。相当に長い時間,ふたりとも,ひとこともことばを発することなく,じっと摩利支天を舐めるようにして眺めていた。そして,「おい,いつか,あそこをやろう」「うん,おれもそう思っていたところだ」と二人。「でも,あれをやるには相当の訓練が必要だなぁ」ということになり,その後,しばらくは奥多摩での沢登りに二人で取り組んだ。というより,熱中した。毎週末のようにでかけては,地図で瀧のありそうなところを探して歩いた。そして,滝壺にも何回も落ちた(というより,進退極まって飛び込んだ)。

という具合に,今福さんの「あとがき」に触発されて,まっさきに長衛さんの思い出がひらめき,つぎからつぎへと際限なく,芋ずる式に南アルプス全山縦走のときの記憶が蘇ってくる。今夜は,あの南アルプスの夢をみるかもしれない。

この『むかしの山旅』には,全部で24名の方たちの随想が収録されている。幸いなことに,それぞれ20ページに満たない短文が多い。ちょっとした気分転換に,一編ずつ,「百年前の山々へ,いそいそと・・・・」でかけることにしよう。

今福さん,ありがとうございました。まだ,お礼状も書かないで,こんなブログを書いています。失礼の段,平にご容赦のほどを。この場をお借りしてお礼を申しあげます。いつかまた,山の話などお伺いできれば・・・と楽しみにしています。「延命庵」で。

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