冒頭からお断り。「うい」の「い」は「有為」の「為」です。為をくずしてできたひらがなです。このひらがなをワープロで呼び出すことができません(わたしの技術の低さ)。ので,最初のタイトルからして「誤字」です。お許しください。いずれ,だれかに教えてもらって書けるようにしたいと思います。
玄侑宗久さんの連載エッセイ「ういの奥山」(『東京新聞』)が,いよいよはじまりました。かねて予告されていましたので,わたしは楽しみにこの日を待っていました。今日(4月7日)の朝刊の19面を飾っています。どうせなら4月8日にすればよかったのに,と玄侑さんと同じ禅宗の坊主の息子としては,少しだけ残念。ただし,玄侑さんは臨済宗,わたしは曹洞宗。でも,ほとんど同じようなものです。
その第一回目のタイトルは「みんな同い年」。老いも若きもみんな横一線。年齢に関係なく,みんな「老少不定」だというわけです。「昨年起きた東日本大震災では2万人ちかくもの人びとがいっぺんにいなくなってしまった」「みんな同い年」と玄侑さんは書きます。ここでもわたしの眼は止まってしまいました。
今回は第一回目ということもあって,連載エッセイの総論のようなお話になっています。まずは,「ういの奥山」というタイトルの由来から書きはじめます。この「ういの奥山」が有名な「いろは歌」から引いたものであることはだれでもわかることなのですが,それを説く玄侑さんのことばはまた別格です。思わず唸ってしまって,何回も何回も立ち往生しながら,熟読玩味しないと前に進めません。それも,きわめて平易な文章でありながら,その含意するところが底無しに深いのです。
僧侶としての思念の深さを,作家の文章が,わかりやすくもののみごとに解きほぐしてくれます。わたしは,いつしか3回,くり返して読んでいました。それほどに味わい深いエッセイなのです。これはどう説明しても不可能でしかありません。いっそのこと,全文を引き写して,ここに書いてしまった方が早いのですが,そうもいきません。ので,ほんの少しだけ引用にします。
「色は匂へと散りぬるを我が世誰そ常ならむ有為の奥山けふ越えて浅き夢見し酔ひもせす」
ここで「有為の奥山」は,人生といった意味合いで使われている。歌の後半は死にゆく本人にとっての死の描写で,山を登るように有為の世界を生きてきたけれど,とうとう頂上を越えてしまい,「無為自然」の状態に突入したというのである。
いろは歌が,こういう含意の歌であるとは知りませんでした。玄侑さんは,ここからはじめて,さらに深い読解を,さらりと披瀝してくれます。そして,読めば読むほどに味わいが深くなってくるのです。しかも,一つひとつのことばに深い意味が込められているということも,次第しだいに,わたしのからだのなかに浸透してきます。
もう少しだけ引用させていただきます。
当時の人々,いや少なくともこの訳者は,老荘的な価値観をもち,有為よりも無為のほうがいいのだと思っているのは間違いない。そしてあらたに突入したその世界から顧みれば,この世での時間は「浅き夢」や「酔」った状態のようにも思える。しかし今や「無為自然」になり,世界は明らかに見えているのだから,今後は浅い夢も見ません,酔っぱらいもしませんと,死に行く本人が宣言しているのである。
ここで「死ぬ」とは,命が尽きるということではありません。世俗の生き方を捨てて,仏道に身を投ずることを意味します。つまり,出家するということ。そこが「無為自然」の世界。「有為」とは世俗に生きる人間があれもしたい,これもしたいと「為す」ことが「有る」ということ。バタイユ的に言えば,有用性の世界を生きるということ。それに引き換え,出家して「無為自然」を生きるとは,「無為」,すなわち「為すことが無い」,ありのままの生を自然に委ねて生きるということ。バタイユ的に言えば,「消尽」あるのみ。この世界は老荘の説いた「無為自然」(むいじねん)とほとんど変わらない,とわたしは考えています。
玄侑宗久さんの,この短いエッセイを読んでいると,なにもかも忘れて忘我没入の状態に入ってしまいます。ひとつのことばからつぎのことばへと連鎖が起きて,わたしの頭のなかはめくるめくように引っかき回され,陶酔し,恍惚の世界に突入し,ついには「エクスターズ」してしまいます。それは,もはや,快感以外のなにものでもありません。
そして,いつしか玄侑宗久さんの書いた小説のクライマックス・シーンが彷彿としてきます。困ったものです。またまた,玄侑宗久さんの小説やエッセイ集を引っ張りだしてきて,読まずにはいられなくなってしまいます。なんという恐ろしい人ぞ。
次回は5月5日に掲載されるとのこと。もう,いまから待ち遠しい。題字・イラストを担当する川口澄子さんの作品も楽しみ。
玄侑宗久さんの連載エッセイ「ういの奥山」(『東京新聞』)が,いよいよはじまりました。かねて予告されていましたので,わたしは楽しみにこの日を待っていました。今日(4月7日)の朝刊の19面を飾っています。どうせなら4月8日にすればよかったのに,と玄侑さんと同じ禅宗の坊主の息子としては,少しだけ残念。ただし,玄侑さんは臨済宗,わたしは曹洞宗。でも,ほとんど同じようなものです。
その第一回目のタイトルは「みんな同い年」。老いも若きもみんな横一線。年齢に関係なく,みんな「老少不定」だというわけです。「昨年起きた東日本大震災では2万人ちかくもの人びとがいっぺんにいなくなってしまった」「みんな同い年」と玄侑さんは書きます。ここでもわたしの眼は止まってしまいました。
今回は第一回目ということもあって,連載エッセイの総論のようなお話になっています。まずは,「ういの奥山」というタイトルの由来から書きはじめます。この「ういの奥山」が有名な「いろは歌」から引いたものであることはだれでもわかることなのですが,それを説く玄侑さんのことばはまた別格です。思わず唸ってしまって,何回も何回も立ち往生しながら,熟読玩味しないと前に進めません。それも,きわめて平易な文章でありながら,その含意するところが底無しに深いのです。
僧侶としての思念の深さを,作家の文章が,わかりやすくもののみごとに解きほぐしてくれます。わたしは,いつしか3回,くり返して読んでいました。それほどに味わい深いエッセイなのです。これはどう説明しても不可能でしかありません。いっそのこと,全文を引き写して,ここに書いてしまった方が早いのですが,そうもいきません。ので,ほんの少しだけ引用にします。
「色は匂へと散りぬるを我が世誰そ常ならむ有為の奥山けふ越えて浅き夢見し酔ひもせす」
ここで「有為の奥山」は,人生といった意味合いで使われている。歌の後半は死にゆく本人にとっての死の描写で,山を登るように有為の世界を生きてきたけれど,とうとう頂上を越えてしまい,「無為自然」の状態に突入したというのである。
いろは歌が,こういう含意の歌であるとは知りませんでした。玄侑さんは,ここからはじめて,さらに深い読解を,さらりと披瀝してくれます。そして,読めば読むほどに味わいが深くなってくるのです。しかも,一つひとつのことばに深い意味が込められているということも,次第しだいに,わたしのからだのなかに浸透してきます。
もう少しだけ引用させていただきます。
当時の人々,いや少なくともこの訳者は,老荘的な価値観をもち,有為よりも無為のほうがいいのだと思っているのは間違いない。そしてあらたに突入したその世界から顧みれば,この世での時間は「浅き夢」や「酔」った状態のようにも思える。しかし今や「無為自然」になり,世界は明らかに見えているのだから,今後は浅い夢も見ません,酔っぱらいもしませんと,死に行く本人が宣言しているのである。
ここで「死ぬ」とは,命が尽きるということではありません。世俗の生き方を捨てて,仏道に身を投ずることを意味します。つまり,出家するということ。そこが「無為自然」の世界。「有為」とは世俗に生きる人間があれもしたい,これもしたいと「為す」ことが「有る」ということ。バタイユ的に言えば,有用性の世界を生きるということ。それに引き換え,出家して「無為自然」を生きるとは,「無為」,すなわち「為すことが無い」,ありのままの生を自然に委ねて生きるということ。バタイユ的に言えば,「消尽」あるのみ。この世界は老荘の説いた「無為自然」(むいじねん)とほとんど変わらない,とわたしは考えています。
玄侑宗久さんの,この短いエッセイを読んでいると,なにもかも忘れて忘我没入の状態に入ってしまいます。ひとつのことばからつぎのことばへと連鎖が起きて,わたしの頭のなかはめくるめくように引っかき回され,陶酔し,恍惚の世界に突入し,ついには「エクスターズ」してしまいます。それは,もはや,快感以外のなにものでもありません。
そして,いつしか玄侑宗久さんの書いた小説のクライマックス・シーンが彷彿としてきます。困ったものです。またまた,玄侑宗久さんの小説やエッセイ集を引っ張りだしてきて,読まずにはいられなくなってしまいます。なんという恐ろしい人ぞ。
次回は5月5日に掲載されるとのこと。もう,いまから待ち遠しい。題字・イラストを担当する川口澄子さんの作品も楽しみ。
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