2012年4月23日月曜日

「ISC・21」4月大阪例会,無事に終了。「グローバル化」について考える。

かねて予定されていた「ISC・21」4月大阪例会が無事に終了。いつもとは少しだけ違う感触がわたしのなかにはあった。わたしのなかに起きつつあるほんのわずかな思考の変化を,ありのまま投げ出して,参加してくださったみなさんに考えてもらおうという試みが,予想以上にうまく受け止めてもらえたのではないか,というものだ。大阪まででかけていって,話を聞いてもらってよかった,という充足感があった。

4月21日(土)13:00~18:00,場所は大阪学院大学。世話人は松本芳明さん。
しばらく前までは参加者が少ないと聞いていたのだが,当日には多くの人が集まってくれて,それもまた嬉しかった。そんなこともあって,わたしはいつもに増して気合が入った。それが研究会という場の力である。ありがたいことである。

わたしに与えられたテーマは「グローバリゼーションをどのように考えればいいのか」──スポーツ史研究の新たな地平を切り開くために。このあとにつづいて,竹谷和之さんの「バスク伝統スポーツとグローバリゼーション」,松本芳明さんの「ヨーガのグローバル化」が行われる予定であった。しかし,わたしの話が長くなってしまい,竹谷さんの発表が終ったところで時間切れになってしまい,松本さんの発表は予告編だけで終ってしまった。みなさんにご迷惑をかけてしまった,と反省。

したがって,松本さんの発表は,次回の名古屋例会に繰り越すこととなった。ちなみに,名古屋例会は5月26日(土)13:00~。詳細は後日,世話人の船井廣則さんから連絡が入ることになっている。ついでに,「ISC・21」の月例会の予定は以下のように決まった。
6月16日(土)13:00~,東京例会。
7月7日(土)13:00~,神戸例会。
そして,第2回日本・バスク国際セミナーが8月6日(月)~9日(木)とつづく。

その第2回日本・バスク国際セミナーのテーマが「伝統スポーツとグローバリゼーション」。そのための助走の意味もあって,「ISC・21」の月例研究会では,このところずっと「グローバリゼーション」をキー・ワードにして議論を積み重ねてきている。その一環として,今回はわたしからの話題提供ということになっていた。

3月の月例会では,ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』を取り上げ,西谷修さんにお出でいただいて,このテクストをどのように読み取るか,というお話をしていただいた。西谷さんは,その背景にあるフリードマンの新自由主義にもとづく経済学がどのようにして立ち上がってきたのか,という問題を取り上げ,西洋的な合理主義の考え方が近年になってますます「狂気」と化してくるいくつかの事例を紹介しながら,そのポイントを指摘して,問題の所在を明らかにしてくださった(くわしくは,このプログの3月20日以後のどこかで書いた記憶があるので,そちらで確認のこと)。

わたしは,西谷さんが提起してくださった問題を引き受け,スポーツ史やスポーツ文化論を考える上でのヒントを整理して,こんごの議論のペースを固めようと考えていた。が,その直前に(2日前),橋本一径さんから新しい訳書『同一性の謎 知ることと主体の闇』(P.ルジャンドル著,以文社)が贈られてきた。なるほど,いかにも橋本さんの研究テーマにぴったりの訳書だなぁ,と感心しながらぺらぺらとめくりながら拾い読みをしていたら,どっこい,この本の提起している問題はそんな単純な問題ではない,ということがわかってきた。

とりわけ,橋本さんの20ページにわたる「訳者あとがき」が秀逸で,そこを読んだら,本文を読まずにはいられなくなってしまった。大急ぎで通読(全体が120ページで,そのうちの20ページが訳者あとがき)してみたら,西洋論理によるグローバル化の根源にある「ローマ法」の話が,いつもよりもわかりやすく語られていることがわかった(もちろん,橋本さんのあとがきに導かれるようにして,ようやく理解が可能となるのだが)。

これまでに語られてきたグローバリゼーションに関する論議のなかでは,P.ルジャンドルが強調するローマ法が,西洋近代のものの見方・考え方に決定的な影響をおよぼしたのだ,という視点は完全に欠落していた(と記憶する)。そこで,早速,このルジャンドルの主張を視野のなかに入れて,これまでのスポーツ史・スポーツ文化論を再検討してみると,そこには恐るべき事実が浮かび上がってくるではないか。

このほやほやの本(まだ,書店には並んでいないはず)に触発されて,わたしのなかに立ち上がった,これまたほやほやの発想を,なにがなんでも聞いてもらわなくてはなるまい,と考えた。が,すでに,レジュメを作成する時間もない。仕方がないので,新幹線のなかで,メモ書きをして,それに話の順番の番号を付して,それで本番に臨んだ。だから,まさに,泥縄式もいいところだ。が,ぶっつけ本番というライブが,ふだんとは違う緊張感を引き出し,その効果に助けられてなんとかお役目を果たせたかな,とほんの少しだけ満足(たんなる自己満足?)。

スポーツのルールが,あれほどまでに「無色透明」な性格を帯びているのは(つまり,土着的な宗教性・呪術性,魔術性を徹底的に排除している,という意味で),ユダヤ教をキリスト教が差異化するための道具として「ローマ法」を持ち込んだところに,その起源をみとどけることができる,とわたしは感受した。西洋近代は,このようにしてローマ法に支えられたキリスト教の教義解釈(カテキスムス・教義問答書)の「合理性」が原動力になっている,と。しかし,これが主因となって「神は死んだ」(ニーチェ)時代に西洋が突入していく。そして,キリスト教もまた「解釈」が優先する宗教となり,ユダヤ教のような「信」に決別し,合理性が教えの中心に座することとなる。しかし,それは,ローマ法によるキリスト教の換骨奪胎を意味し,純粋な信仰の世界からは遠のいていく。

しかし,そこから生まれてくる近代合理主義の考え方こそが,近代の「科学」を生み出す原動力となり,さらには,その「科学」が一人歩きをはじめ,人間の存在を無視して「狂気」と化していくことになる,と。その到達点が,こんにちの「テクノサイエンス経済」だ,とルジャンドルは指摘する。

数日前のブログにも書いたように,「スポーツ科学」に抗して,「スポートロジイ」(Sportology=「スポーツ学」)を提唱する,その根拠のひとつが「科学」の「狂気化」というものだった。この根源がどこからくるのか,じつは,さまざまな仮説を立てて調べていたところでった。それらは,もっぱら,バタイユの『宗教の理論』のなかからの推論に頼るものだった。その眼前に,橋本さんはこの訳書を贈り届けてくださった。わたしには「眼から鱗」が落ちる想いだった。

わたしの見晴らしは一度によくなる。ならば,オリンピック・ムーブメントは,無色透明のローマ法(つまり,ルール)という隠れ蓑を身にまとい,西洋論理による世界制覇を果たすための,野望に満ちた,まことによくできた文化装置以外のなにものでもない,ということになる。ことは穏便には済まされなくなってくる。なにか,とてつもない予感に襲われる。いよいよ来るべきものがやってきた,と。ひとまず,その覚悟だけはしておこう。

昨日(22日)のブログは,大阪からの帰路,新幹線のなかで読んでいた『物質的恍惚』(ル・クレジオ著,豊崎光一訳,岩波文庫)から啓示を受けたものである。優れた知性をもった人たちは,みんな同じところに集まってくる。できることなら,わたしもその末席をけがすことをお許しいただきたいと願うのみ。

ことしはザ・オリンピック・イヤー。オリンピック・ムーブメントとはなにか。「3・11」を通過したいま,わたしたちはそれ以前と同じような発想でオリンピック・ムーブメントの表層に流されていてはならない。21世紀のこんにちにあって,しかも,「3・11」を通過したわたしたちにとって,オリンピックとはなにか。考えなくてはならないことは多い。

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