昨夜遅く,親しい友人から「猫ひろしについてネットで検索して応答せよ」というメールが入りました。あちこちで話題になっていることは,ちらちら眼にしていました。が,まともに問われたので,まじめにネットを検索してみました。
案の定,言いたい放題の暴言,罵詈雑言がほとんど。ときおり,まともな意見もちらほら。でも,問題の本質を突いた意見は,「ネットで検索」したかぎりでは,管見ながら,わたしの眼には入りませんでした。これから,きちんとした活字メディアには登場するかも知れませんが,それもあまり期待はできません。せいぜい,玉木君のような評論家が,さも,まともらしさを装う程度でしょう。スポンサーに迎合して売文・コメントすることを恥としない,今風の典型的な評論家が跋扈している時代ですから,当然でしょう。そして,多くの人が「なるほどなぁ」と納得することでしょう。
ネットを飛び交っているご意見のほとんどは「感情論」。それも全部「匿名」。有森裕子さんだけは,やや控えめに「いかがなものか」と疑問を呈していますが・・・・。
事実関係を確認しておきましょう。
猫ひろしは,カンボジア国籍を取得して,指定されたマラソン・レースに出場,しかるべき成績を収め,カンボジアの陸連がオリンピック代表選手として認めた,これだけです。
この行為がなぜ問題になるのか。その声の背景にあるものを探ってみますと,アンフェアだ,スポーツマンシップに悖る,カンボジアの選手が可哀相,など。
わたしの答えは以下のとおり。
問題の根源にあるのは,スポーツの「金融化」。つまり,スポーツが単なる金儲けの手段となってしまった,ということ。ただ,それだけ。あとは法のもとでの自由。言ってしまえば,フリードマン流の新自由主義が近代スポーツ競技の世界にも浸透してきた,ということ。この話はとてつもなく大きな問題ですので,いずれ,何回にも分けて書いてみたいと思います。
で,猫ひろし。
かれの職業は「お笑い芸人」。世間の人は誤解している人が多いようですが,お笑い芸人で生きていかれる人たちの多くは,根はまじめで我慢づよい,ということ。猫ひろしも,素顔はまじめで,礼儀正しく,我慢づよく,意思の強い人だとわたしは想像しています。でなければ,たったひとつの「ネコ芸」というネタだけでお笑いの世界を生きていくことはできないはず。そして,こよなくマラソンというスポーツを愛している人だと思います。でなければ,2時間30分前後で走ることなどできません。そのために,どれだけの努力を積み重ねてきていることか。
その点では,村上春樹がフルマラソンを走り,トライアスロンに出場するのも,まったく違いはありません。そして,できることならオリンピック代表選手になりたい,という夢をいだくのは,ごく自然の流れ。そういうランナーはゴマンといます。川内君もそのなかのひとり。かれこそオリンピック代表選手として送り出してあげたかった。
猫ひろしも同じ。なんとかしてオリンピックに出たい,と夢見たはず。そうして,思いついたのがカンボジア枠(オリンピック標準記録に達しなくても参加できる特別枠)を利用すること。そこで,まずは,カンボジアの国籍を取得。だから,かれはカンボジア人としてカンボジアの国旗を背負ってオリンピックに出場するわけです。そして,カンボジアのために貢献したいと本気で考えている,とわたしは想像しています。
しかし,こころのどこかにお笑い芸人として「笑い」がとれればそれでいい,という気持もあったと思います。つまり,猫ひろしにとってのマラソンは,お笑いのネタでもあったということです。そして,すでに,そういう企画もいくつかありました。しかも,それがかれのお笑い芸人としての存在理由のひとつにもなっていました。
瓢箪からコマ(駒),という俚諺があります。とうとう,カンボジアを代表するオリンピック選手としての切符を手に入れたのです。これで,またまた,大きな話題を呼び,かれの芸人としての「お値段」は上がることでしょう。一説によれば,一億円は固い,とか。いやいや,騒ぎが大きくなってきたので,もっと稼げるでしょう,という人もいる。猫ひろしにとっては,両手に花。言うことはなにもありません。あとは,生活人としては謙虚に振る舞い,芸人としては堂々と,思いっきり「こけて」いればいいのですから。
結論。猫ひろしにとっては,もはや,マラソンは立派な「芸」のひとつ。ネタであり,ギャグなのです。その「芸」で金儲けができる,芸人冥利につきる,という次第。話題になり,騒がれるほどありがたい。気分が悪いのは,スポーツは神聖なるもの,と信じて疑わない人びと。
アマチュアリズムを排除したときから,近代スポーツ競技は「自由化」されたのです。プロも,アマも,渾然一体となって,みんな「金儲け」に走ったのです。有森裕子さんだって,現役中にプロ宣言をして,正々堂々と「金儲け」をします,と記者会見までして,いまも,その延長線上で生きているのです。「控えめ」にしか発言できない「理由」があるのです。
と,いまのところ,こんなことを考えています。
これでは足りないところは,あなたの想像力で補ってください。
取り急ぎ,応答まで。
案の定,言いたい放題の暴言,罵詈雑言がほとんど。ときおり,まともな意見もちらほら。でも,問題の本質を突いた意見は,「ネットで検索」したかぎりでは,管見ながら,わたしの眼には入りませんでした。これから,きちんとした活字メディアには登場するかも知れませんが,それもあまり期待はできません。せいぜい,玉木君のような評論家が,さも,まともらしさを装う程度でしょう。スポンサーに迎合して売文・コメントすることを恥としない,今風の典型的な評論家が跋扈している時代ですから,当然でしょう。そして,多くの人が「なるほどなぁ」と納得することでしょう。
ネットを飛び交っているご意見のほとんどは「感情論」。それも全部「匿名」。有森裕子さんだけは,やや控えめに「いかがなものか」と疑問を呈していますが・・・・。
事実関係を確認しておきましょう。
猫ひろしは,カンボジア国籍を取得して,指定されたマラソン・レースに出場,しかるべき成績を収め,カンボジアの陸連がオリンピック代表選手として認めた,これだけです。
この行為がなぜ問題になるのか。その声の背景にあるものを探ってみますと,アンフェアだ,スポーツマンシップに悖る,カンボジアの選手が可哀相,など。
わたしの答えは以下のとおり。
問題の根源にあるのは,スポーツの「金融化」。つまり,スポーツが単なる金儲けの手段となってしまった,ということ。ただ,それだけ。あとは法のもとでの自由。言ってしまえば,フリードマン流の新自由主義が近代スポーツ競技の世界にも浸透してきた,ということ。この話はとてつもなく大きな問題ですので,いずれ,何回にも分けて書いてみたいと思います。
で,猫ひろし。
かれの職業は「お笑い芸人」。世間の人は誤解している人が多いようですが,お笑い芸人で生きていかれる人たちの多くは,根はまじめで我慢づよい,ということ。猫ひろしも,素顔はまじめで,礼儀正しく,我慢づよく,意思の強い人だとわたしは想像しています。でなければ,たったひとつの「ネコ芸」というネタだけでお笑いの世界を生きていくことはできないはず。そして,こよなくマラソンというスポーツを愛している人だと思います。でなければ,2時間30分前後で走ることなどできません。そのために,どれだけの努力を積み重ねてきていることか。
その点では,村上春樹がフルマラソンを走り,トライアスロンに出場するのも,まったく違いはありません。そして,できることならオリンピック代表選手になりたい,という夢をいだくのは,ごく自然の流れ。そういうランナーはゴマンといます。川内君もそのなかのひとり。かれこそオリンピック代表選手として送り出してあげたかった。
猫ひろしも同じ。なんとかしてオリンピックに出たい,と夢見たはず。そうして,思いついたのがカンボジア枠(オリンピック標準記録に達しなくても参加できる特別枠)を利用すること。そこで,まずは,カンボジアの国籍を取得。だから,かれはカンボジア人としてカンボジアの国旗を背負ってオリンピックに出場するわけです。そして,カンボジアのために貢献したいと本気で考えている,とわたしは想像しています。
しかし,こころのどこかにお笑い芸人として「笑い」がとれればそれでいい,という気持もあったと思います。つまり,猫ひろしにとってのマラソンは,お笑いのネタでもあったということです。そして,すでに,そういう企画もいくつかありました。しかも,それがかれのお笑い芸人としての存在理由のひとつにもなっていました。
瓢箪からコマ(駒),という俚諺があります。とうとう,カンボジアを代表するオリンピック選手としての切符を手に入れたのです。これで,またまた,大きな話題を呼び,かれの芸人としての「お値段」は上がることでしょう。一説によれば,一億円は固い,とか。いやいや,騒ぎが大きくなってきたので,もっと稼げるでしょう,という人もいる。猫ひろしにとっては,両手に花。言うことはなにもありません。あとは,生活人としては謙虚に振る舞い,芸人としては堂々と,思いっきり「こけて」いればいいのですから。
結論。猫ひろしにとっては,もはや,マラソンは立派な「芸」のひとつ。ネタであり,ギャグなのです。その「芸」で金儲けができる,芸人冥利につきる,という次第。話題になり,騒がれるほどありがたい。気分が悪いのは,スポーツは神聖なるもの,と信じて疑わない人びと。
アマチュアリズムを排除したときから,近代スポーツ競技は「自由化」されたのです。プロも,アマも,渾然一体となって,みんな「金儲け」に走ったのです。有森裕子さんだって,現役中にプロ宣言をして,正々堂々と「金儲け」をします,と記者会見までして,いまも,その延長線上で生きているのです。「控えめ」にしか発言できない「理由」があるのです。
と,いまのところ,こんなことを考えています。
これでは足りないところは,あなたの想像力で補ってください。
取り急ぎ,応答まで。
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