昨日のブログのつづき。その2.
世は挙げて「科学」万能主義の時代が長くつづいた。そして,多くの人びとがそれを信じた。しかし,それが単なる「夢物語」であったことは,フクシマが残念ながら証明してしまった。人間は「科学」のみで生きるにあらず。「科学」で明らかにできないところにも(こそ),人間は生きがいを見出しているのだから。しかも,そこにこそ真の「実在」が隠されているのだから。
スポーツの世界も,いつのまにか「スポーツ科学」が大手を振って歩く時代が,すでに長くつづいている。そのことは昨日のブログですでに触れたとおりである。その影響もあって,大学の教員人事もまた,スポーツ科学を専攻する人間が圧倒的に多くなった。ひとつには,需要と供給のバランスの問題がある。つまり,スポーツ科学を学びたい学生が増えていること,そして,それに呼応するかのようにスポーツ科学を専攻する若き研究者に学位取得者(博士号取得者)が激増していること,がある。だから,これはある意味で自然な流れではある。
しかし,ここには大きな問題がある。なぜなら,スポーツ哲学やスポーツ史を専攻するよりも,スポーツ科学を専攻する方が,より少ない時間で,効率的に博士号を取得することが可能である,という実態がある。たとえば,博士課程の3年間をまじめに頑張れば,スポーツ科学の分野であれば,まず,間違いなく博士号を取得することは可能である。しかし,スポーツ哲学やスポーツ史で3年間で博士号を取得することはほとんど困難である。
これは一般論で考えてみても明らかだ。最近はかなり是正され,情況は変化してきてはいるが,それでも,理科系や実験系の研究者に比べ,哲学や歴史学を専攻して博士号を取得するには,かなりの時間を要し,困難を究める。そのなによりの証拠に,思想・哲学の分野で,ある年齢に達していま活躍している研究者の多くはほとんど博士の学位を取得してはいない。その時代に博士号を取得するのはきわめて困難だったのだ。それに引き換え,理科系や実験系では博士号の取得者は圧倒的に多い。それは,学問の性格にもよるのだが・・・。
これを,別の言い方に置き換えれば,実験系の学問の方が「有用性」という点で,その研究成果の評価がしやすいという現実がある。思想・哲学などは,難解な論文を書いたところで,「だから,なんの役に立つのか」と実験系の人たちから逆襲されることがある。そして,最後には「投票」によって,博士号の審査・判定がなされる。つまり,多数決なのだ。つまり,多数を説得するロジックは,実験系の研究の方がはるかに有利であって,思想・哲学や歴史学の論文は難解であればあるほど(つまり,レベルが高いほど),支持は得られない,というアカデミズムの世界にはありえない不可解なことが,平然と行われているのが実情だ。この矛盾について,ほとんどの人はみてみぬふりをしている。つまり,すでに,実験系の審査員の方が多いということだ。断っておくが,この話は,「体育学」,あるいは「体育科学」と呼ばれる領域に顕著である,という特殊事情がある。
このことは,日本だけの現象かと思っていたら,じつは,世界的な現象であるということが,管見ながら,わかってきた。たとえば,ウィーン大学スポーツ科学研究所では,長く,哲学と歴史学を重視してきた伝統がある。そして,多くの実績を挙げてきた。しかし,ここにきて,哲学や歴史学の教授ポストの後任人事はスポーツ科学を専攻する人によって奪われてしまった。これは,直接,その当事者から聞いた話である(2003年)。
同じように,ドイツ・スポーツ大学ケルンでも,実験系(つまり,スポーツ科学)の教授ポストが増えつづけ,人文・社会科学系の教授のポストは痩せ衰えるばかりである,という嘆きを,わたしが客員教授をしていた当時の学長(社会学専攻)から直接,聞いた。しかも,ここでは,この傾向についてお前はどう思うか,と聞かれた。わたしは,即座に「哲学と歴史学を軽視するサイエンスに危機感を感じている」と応答。学長が立ち上がって「わたしもそう考えている」と言って,握手を求めてきたことを,いまも,鮮烈に思い出す。
こういう話を書き出すと際限がなくなるほどだ。
これと同じことが,いま,日本の体育系の大学で起きている。博士号を持っていない人間は大学では不要である,とまで言われた人も少なくない。だから,新しい,若い人の採用人事では学位取得が大前提になっている。となると,スポーツ科学を専攻している人間が圧倒的に有利になる。そうして,すでに,多数が「有用性」の論理を前面に押し出す実験系の教員で占められるという,わたしからすれば摩訶不思議な事態が,着々と進展している。
その結果,なにが起きているのか。トレーニング科学やコーチング科学の知識は豊富だが,哲学や歴史の教養にとぼしい体育教師やスポーツ指導者が圧倒的多数を占めるという現象が起きている。つまり,勝利至上主義を実現することが善であり,正義であると信じて疑わないスポーツ指導者が激増する,という奇態な現象が加速しつつあるということだ。勝つためには手段を選ばず,まずはなにをしなければならないか,いかに効率よく練習して,より多くの成果を挙げるか,つまり,数量的効率主義がスポーツの現場を支配することになる。しかも,このことが思想・哲学や歴史学の教養を徹底して排除する力学を構築していることにはほとんど見向きもしないで・・・。つまり,このロジックは,原発を推進してきたロジックと瓜二つなのだ。しかも,このことを,いまも気づかないで猛進しているスポーツ指導者が圧倒的に多いのだ。
こういう考え方がスポーツの世界では,ごく当たり前のこととして,支配している。そして,この考え方は近代スポーツ競技の世界的な普及とともに「グローバル化」している。しかも,注意すべきは,こうした考え方が「正義」としてまかりとおると信じてきた「つけ」が,平和の祭典であるべきオリンピック競技会が「軍隊」の力を借りなければ開催できない,という事態を引き起こしているのだ。そのことに,ほとんどの人は気づいていない。
「3・11」を通過したわたしたちは,そういう矛盾の原点まで立ち返って,根源的な問い直しをしなければならない,という貴重な教訓を身につけることになった。そうして,いたりついたわたしの結論は,「スポーツ科学」の「グローバル化」に抗して,もっと人間そのものの生き方からスポーツの存在理由を問う「スポートロジイ」という新たな「学」を立ち上げ,検証することに全力を傾けるべきだ,というものだ。
このテーマについては,これからも繰り返し,事例を変えて,議論の素材を提供していきたいと考えている。今回は「その2.」ということで,ひとまず,ここまで。
世は挙げて「科学」万能主義の時代が長くつづいた。そして,多くの人びとがそれを信じた。しかし,それが単なる「夢物語」であったことは,フクシマが残念ながら証明してしまった。人間は「科学」のみで生きるにあらず。「科学」で明らかにできないところにも(こそ),人間は生きがいを見出しているのだから。しかも,そこにこそ真の「実在」が隠されているのだから。
スポーツの世界も,いつのまにか「スポーツ科学」が大手を振って歩く時代が,すでに長くつづいている。そのことは昨日のブログですでに触れたとおりである。その影響もあって,大学の教員人事もまた,スポーツ科学を専攻する人間が圧倒的に多くなった。ひとつには,需要と供給のバランスの問題がある。つまり,スポーツ科学を学びたい学生が増えていること,そして,それに呼応するかのようにスポーツ科学を専攻する若き研究者に学位取得者(博士号取得者)が激増していること,がある。だから,これはある意味で自然な流れではある。
しかし,ここには大きな問題がある。なぜなら,スポーツ哲学やスポーツ史を専攻するよりも,スポーツ科学を専攻する方が,より少ない時間で,効率的に博士号を取得することが可能である,という実態がある。たとえば,博士課程の3年間をまじめに頑張れば,スポーツ科学の分野であれば,まず,間違いなく博士号を取得することは可能である。しかし,スポーツ哲学やスポーツ史で3年間で博士号を取得することはほとんど困難である。
これは一般論で考えてみても明らかだ。最近はかなり是正され,情況は変化してきてはいるが,それでも,理科系や実験系の研究者に比べ,哲学や歴史学を専攻して博士号を取得するには,かなりの時間を要し,困難を究める。そのなによりの証拠に,思想・哲学の分野で,ある年齢に達していま活躍している研究者の多くはほとんど博士の学位を取得してはいない。その時代に博士号を取得するのはきわめて困難だったのだ。それに引き換え,理科系や実験系では博士号の取得者は圧倒的に多い。それは,学問の性格にもよるのだが・・・。
これを,別の言い方に置き換えれば,実験系の学問の方が「有用性」という点で,その研究成果の評価がしやすいという現実がある。思想・哲学などは,難解な論文を書いたところで,「だから,なんの役に立つのか」と実験系の人たちから逆襲されることがある。そして,最後には「投票」によって,博士号の審査・判定がなされる。つまり,多数決なのだ。つまり,多数を説得するロジックは,実験系の研究の方がはるかに有利であって,思想・哲学や歴史学の論文は難解であればあるほど(つまり,レベルが高いほど),支持は得られない,というアカデミズムの世界にはありえない不可解なことが,平然と行われているのが実情だ。この矛盾について,ほとんどの人はみてみぬふりをしている。つまり,すでに,実験系の審査員の方が多いということだ。断っておくが,この話は,「体育学」,あるいは「体育科学」と呼ばれる領域に顕著である,という特殊事情がある。
このことは,日本だけの現象かと思っていたら,じつは,世界的な現象であるということが,管見ながら,わかってきた。たとえば,ウィーン大学スポーツ科学研究所では,長く,哲学と歴史学を重視してきた伝統がある。そして,多くの実績を挙げてきた。しかし,ここにきて,哲学や歴史学の教授ポストの後任人事はスポーツ科学を専攻する人によって奪われてしまった。これは,直接,その当事者から聞いた話である(2003年)。
同じように,ドイツ・スポーツ大学ケルンでも,実験系(つまり,スポーツ科学)の教授ポストが増えつづけ,人文・社会科学系の教授のポストは痩せ衰えるばかりである,という嘆きを,わたしが客員教授をしていた当時の学長(社会学専攻)から直接,聞いた。しかも,ここでは,この傾向についてお前はどう思うか,と聞かれた。わたしは,即座に「哲学と歴史学を軽視するサイエンスに危機感を感じている」と応答。学長が立ち上がって「わたしもそう考えている」と言って,握手を求めてきたことを,いまも,鮮烈に思い出す。
こういう話を書き出すと際限がなくなるほどだ。
これと同じことが,いま,日本の体育系の大学で起きている。博士号を持っていない人間は大学では不要である,とまで言われた人も少なくない。だから,新しい,若い人の採用人事では学位取得が大前提になっている。となると,スポーツ科学を専攻している人間が圧倒的に有利になる。そうして,すでに,多数が「有用性」の論理を前面に押し出す実験系の教員で占められるという,わたしからすれば摩訶不思議な事態が,着々と進展している。
その結果,なにが起きているのか。トレーニング科学やコーチング科学の知識は豊富だが,哲学や歴史の教養にとぼしい体育教師やスポーツ指導者が圧倒的多数を占めるという現象が起きている。つまり,勝利至上主義を実現することが善であり,正義であると信じて疑わないスポーツ指導者が激増する,という奇態な現象が加速しつつあるということだ。勝つためには手段を選ばず,まずはなにをしなければならないか,いかに効率よく練習して,より多くの成果を挙げるか,つまり,数量的効率主義がスポーツの現場を支配することになる。しかも,このことが思想・哲学や歴史学の教養を徹底して排除する力学を構築していることにはほとんど見向きもしないで・・・。つまり,このロジックは,原発を推進してきたロジックと瓜二つなのだ。しかも,このことを,いまも気づかないで猛進しているスポーツ指導者が圧倒的に多いのだ。
こういう考え方がスポーツの世界では,ごく当たり前のこととして,支配している。そして,この考え方は近代スポーツ競技の世界的な普及とともに「グローバル化」している。しかも,注意すべきは,こうした考え方が「正義」としてまかりとおると信じてきた「つけ」が,平和の祭典であるべきオリンピック競技会が「軍隊」の力を借りなければ開催できない,という事態を引き起こしているのだ。そのことに,ほとんどの人は気づいていない。
「3・11」を通過したわたしたちは,そういう矛盾の原点まで立ち返って,根源的な問い直しをしなければならない,という貴重な教訓を身につけることになった。そうして,いたりついたわたしの結論は,「スポーツ科学」の「グローバル化」に抗して,もっと人間そのものの生き方からスポーツの存在理由を問う「スポートロジイ」という新たな「学」を立ち上げ,検証することに全力を傾けるべきだ,というものだ。
このテーマについては,これからも繰り返し,事例を変えて,議論の素材を提供していきたいと考えている。今回は「その2.」ということで,ひとまず,ここまで。
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