あの『指紋論』を書いた橋本一径さんから訳書『同一性の謎──知ることと主体の闇』(P.ルジャンドル著,以文社)を送っていただいた。奥付をみると5月10日発行となっているので,まだ書店にも並んではいない。そんなできたばかりの,ほやほやの湯気が立ちのぼっているような訳書だ。嬉しいかぎりである。
もう,いまから考えれば,ずいぶんと前の話になるが,橋本さんとこんどの本の著者のP.ルジャンドルとは,劇的な出会いがあった。その現場に,わたしはたまたま聴講者のひとりとして坐っていた。それは,P.ルジャンドルが来日した折にさまざまな催し物が日本の各戸で開かれた,その一つのプログラムの場面だった。もともとは,西谷修さんの研究プロジェクトの一環としてP.ルジャンドルが日本に招聘されていた。そして,そのなかのプログラムの一つとして,P.ルジャンドル氏によるワークショップが行われ,4人ほどの,当時はまだ大学院生だった新進気鋭の若手研究者たちが,それぞれの専門のテーマによる研究発表を行なった。その中の1人がこの本の訳者である橋本一径さんだった。
もちろん,そのときのプレゼンテーションのテーマは「指紋」。人間の同一性を確認するための近代的手法の一つである「指紋」とは,いったいいかなるもので,いかなる意味と危険性とを併せ持つものであるのか,というようなことを(わたしの古い記憶なので危ない。間違っていたらお許しを)橋本さんはプレゼンテーションで問題提起された(と記憶する)。それを聞いていたP.ルジャンドル氏のスイッチが入ったかのように,一気に生気をありありと顔面全体に浮ばせて,眼を輝かせ,驚くほどの饒舌ぶりを発揮したのである。このときの司会は,もちろん,西谷修さん。そのP.ルジャンドルの状態を西谷さんは余裕で見届けた上で,ますます,P.ルジャンドル氏のテンションを上げていく。その結果,そのワークショップは橋本さんのプレゼンを軸にして大いに盛り上がったのだ。ほかの人たちのプレゼンもきわめて魅力的なテーマだったので,P.ルジャンドルは一人ひとり丁寧にコメントをしていた。だが,なぜか,P.ルジャンドルは橋本さんのプレゼンにだけは,聴講者の側からみていても,まるでわがごとのように痛く興奮してしまったのである。顔まで紅潮させて。とても幸せそうな笑顔を満面に浮かべて・・・・。いまでも,そのときのP.ルジャンドルの顔は鮮明に思い出せるほどだ。わたしは,このとき,橋本一径さんという人の顔と名前を深く脳裏に刻んだ。将来,どういう人になるのだろうか,と。
その後,わたしは追っかけのようにして,P.ルジャンドルが京都に行くといえば,そのあとを追い・・・・,とうとう4回目のシンポジウムが終ったときには,西谷さんがわたしをP.ルジャンドルに紹介してくださった。そうしたら「ああ,覚えているよ」と言ってくれた。「えっ,まさか」とおもったが,あの柔和な笑顔は嘘ではない,と言っているようにみえた。だから,とても嬉しかった。
橋本一径さんとの,二度目の出会いも印象に残るものだった。
日本記号学会(神戸大学)の第二日目(2010年5月9日)の昼休み。学会事務局に頼んでおいた弁当を友人たちと食べようと思ってテーブルを囲んでいるときに,橋本さんはひとりで弁当をもって場所探しをしていた。わたしはすぐに「あの顔は・・・」と思い出し,声をかけ,一緒に弁当を食べることになった。その日の午後の第三部のセッションで,じつは,わたしは「スポーツの判定」について話題を提供することになっていた。だから,とても緊張していた。その緊張から逃げ出したかったが,そうもいかず,そわそわしていた。そこに橋本さんの顔を見つけたので,迷うことなく声をかけた。その方が緊張が軽くなるのでは・・・と信じて。
これはわたしにとっては正解だった。友人たちに橋本さんを紹介して,一緒に食事をしていたら,とても落ち着いてきたのである。あの物静かな橋本さんの発する雰囲気が,わたしにも伝わってきて,わたしの気持を落ち着かせてくれたのである。お蔭で,午後3時からのわたしのプレゼンテーションもなんとか無事に終ることができた。
これがご縁で,橋本さんとは近しくさせていただけるようになり,名古屋でわたしも参加させていただいている研究会にも,橋本さんは参加してくださるようになった。しかも,研究発表までしてくださり,わたしたちとしてはありがたいかぎりである。この4月からは勤務も早稲田大学に移ったので,こんどからは東京例会にも参加していただけるのではないか,と楽しみにしている。東京例会のつぎのチャンスは6月の予定。そろそろ,つぎの発表者を準備しなければ・・・と考えていたところである。
そんなところに,今回の『同一性の謎──知ることと主体の闇』がとどいた。おまけに,こんどの21日(土)は大阪で研究例会が開催される。そこでは,わたしもプレゼンテーションをすることになっている。だから,そのための準備に入っているところだ。でも,そんなことはそっちのけにして,いまは,この本をあちこち眺めまわしている。そうしないではいられない,そういう内容であるということがわたしには直に伝わってくる。
これを眺めていて,すぐに納得したことは,P.ルジャンドルもまた「同一性」ということに強い関心をもっていたからこそ,何年か前の橋本さんの「指紋論」のプレゼンテーションに強い反応を示したのだ,ということだ。こんどは攻守ところを変えて,ルジャンドルの書いたものを橋本さんが翻訳するという,まことに,この仕事は余人をもって代えがたいほどの「はまり役」といっていいだろう。アイデンティティという,わかったようでわからない不思議なものに,ルジャンドルはどのような「解」を導き出そうとしているのだろうか。
いまから,とても楽しみ。なぜなら,トップ・アスリートの多くも,「わたしがわたしであって,わたしではなくなる」経験をしているからだ。自己同一性というテーマは,じつは,とてつもなく深く,広い問題を内包している。スポーツもまた,そういう体験の場なのだ。だから,上手・下手に関係なく,スポーツの醍醐味を一度でも味わったことのある人は,もう,やめられない。その世界には,いったい,なにが広がっているのか・・・・。これは,なにもスポーツだけの問題ではなくて,あらゆる分野の核心部分に到達すると,みんな同じような体験をずくことになるようだ。だから,人生は面白いのだ。とわたしは確信している。
で,このままでは際限がなくなってしまうので,この辺りで終わりにしたいとおもう。いつものように,この本の帯にある「コピー」を紹介してこのブログを閉じることにしよう。
私が私であるのは何故か?
人間自身の未知なる秘密を出発点に,科学や経済を陰で支える<法>のメカニズムを明るみに出し,西洋的制度の核心に迫る。現代思想の要である「ドグマ人類学」の創始者が高校生に向けて語る格好の入門書。
もう,いまから考えれば,ずいぶんと前の話になるが,橋本さんとこんどの本の著者のP.ルジャンドルとは,劇的な出会いがあった。その現場に,わたしはたまたま聴講者のひとりとして坐っていた。それは,P.ルジャンドルが来日した折にさまざまな催し物が日本の各戸で開かれた,その一つのプログラムの場面だった。もともとは,西谷修さんの研究プロジェクトの一環としてP.ルジャンドルが日本に招聘されていた。そして,そのなかのプログラムの一つとして,P.ルジャンドル氏によるワークショップが行われ,4人ほどの,当時はまだ大学院生だった新進気鋭の若手研究者たちが,それぞれの専門のテーマによる研究発表を行なった。その中の1人がこの本の訳者である橋本一径さんだった。
もちろん,そのときのプレゼンテーションのテーマは「指紋」。人間の同一性を確認するための近代的手法の一つである「指紋」とは,いったいいかなるもので,いかなる意味と危険性とを併せ持つものであるのか,というようなことを(わたしの古い記憶なので危ない。間違っていたらお許しを)橋本さんはプレゼンテーションで問題提起された(と記憶する)。それを聞いていたP.ルジャンドル氏のスイッチが入ったかのように,一気に生気をありありと顔面全体に浮ばせて,眼を輝かせ,驚くほどの饒舌ぶりを発揮したのである。このときの司会は,もちろん,西谷修さん。そのP.ルジャンドルの状態を西谷さんは余裕で見届けた上で,ますます,P.ルジャンドル氏のテンションを上げていく。その結果,そのワークショップは橋本さんのプレゼンを軸にして大いに盛り上がったのだ。ほかの人たちのプレゼンもきわめて魅力的なテーマだったので,P.ルジャンドルは一人ひとり丁寧にコメントをしていた。だが,なぜか,P.ルジャンドルは橋本さんのプレゼンにだけは,聴講者の側からみていても,まるでわがごとのように痛く興奮してしまったのである。顔まで紅潮させて。とても幸せそうな笑顔を満面に浮かべて・・・・。いまでも,そのときのP.ルジャンドルの顔は鮮明に思い出せるほどだ。わたしは,このとき,橋本一径さんという人の顔と名前を深く脳裏に刻んだ。将来,どういう人になるのだろうか,と。
その後,わたしは追っかけのようにして,P.ルジャンドルが京都に行くといえば,そのあとを追い・・・・,とうとう4回目のシンポジウムが終ったときには,西谷さんがわたしをP.ルジャンドルに紹介してくださった。そうしたら「ああ,覚えているよ」と言ってくれた。「えっ,まさか」とおもったが,あの柔和な笑顔は嘘ではない,と言っているようにみえた。だから,とても嬉しかった。
橋本一径さんとの,二度目の出会いも印象に残るものだった。
日本記号学会(神戸大学)の第二日目(2010年5月9日)の昼休み。学会事務局に頼んでおいた弁当を友人たちと食べようと思ってテーブルを囲んでいるときに,橋本さんはひとりで弁当をもって場所探しをしていた。わたしはすぐに「あの顔は・・・」と思い出し,声をかけ,一緒に弁当を食べることになった。その日の午後の第三部のセッションで,じつは,わたしは「スポーツの判定」について話題を提供することになっていた。だから,とても緊張していた。その緊張から逃げ出したかったが,そうもいかず,そわそわしていた。そこに橋本さんの顔を見つけたので,迷うことなく声をかけた。その方が緊張が軽くなるのでは・・・と信じて。
これはわたしにとっては正解だった。友人たちに橋本さんを紹介して,一緒に食事をしていたら,とても落ち着いてきたのである。あの物静かな橋本さんの発する雰囲気が,わたしにも伝わってきて,わたしの気持を落ち着かせてくれたのである。お蔭で,午後3時からのわたしのプレゼンテーションもなんとか無事に終ることができた。
これがご縁で,橋本さんとは近しくさせていただけるようになり,名古屋でわたしも参加させていただいている研究会にも,橋本さんは参加してくださるようになった。しかも,研究発表までしてくださり,わたしたちとしてはありがたいかぎりである。この4月からは勤務も早稲田大学に移ったので,こんどからは東京例会にも参加していただけるのではないか,と楽しみにしている。東京例会のつぎのチャンスは6月の予定。そろそろ,つぎの発表者を準備しなければ・・・と考えていたところである。
そんなところに,今回の『同一性の謎──知ることと主体の闇』がとどいた。おまけに,こんどの21日(土)は大阪で研究例会が開催される。そこでは,わたしもプレゼンテーションをすることになっている。だから,そのための準備に入っているところだ。でも,そんなことはそっちのけにして,いまは,この本をあちこち眺めまわしている。そうしないではいられない,そういう内容であるということがわたしには直に伝わってくる。
これを眺めていて,すぐに納得したことは,P.ルジャンドルもまた「同一性」ということに強い関心をもっていたからこそ,何年か前の橋本さんの「指紋論」のプレゼンテーションに強い反応を示したのだ,ということだ。こんどは攻守ところを変えて,ルジャンドルの書いたものを橋本さんが翻訳するという,まことに,この仕事は余人をもって代えがたいほどの「はまり役」といっていいだろう。アイデンティティという,わかったようでわからない不思議なものに,ルジャンドルはどのような「解」を導き出そうとしているのだろうか。
いまから,とても楽しみ。なぜなら,トップ・アスリートの多くも,「わたしがわたしであって,わたしではなくなる」経験をしているからだ。自己同一性というテーマは,じつは,とてつもなく深く,広い問題を内包している。スポーツもまた,そういう体験の場なのだ。だから,上手・下手に関係なく,スポーツの醍醐味を一度でも味わったことのある人は,もう,やめられない。その世界には,いったい,なにが広がっているのか・・・・。これは,なにもスポーツだけの問題ではなくて,あらゆる分野の核心部分に到達すると,みんな同じような体験をずくことになるようだ。だから,人生は面白いのだ。とわたしは確信している。
で,このままでは際限がなくなってしまうので,この辺りで終わりにしたいとおもう。いつものように,この本の帯にある「コピー」を紹介してこのブログを閉じることにしよう。
私が私であるのは何故か?
人間自身の未知なる秘密を出発点に,科学や経済を陰で支える<法>のメカニズムを明るみに出し,西洋的制度の核心に迫る。現代思想の要である「ドグマ人類学」の創始者が高校生に向けて語る格好の入門書。
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