競争の精神はおそらく西欧思想の歩みを最も甚だしく阻害してきたものである。いったなぜ,もっとうまくやろうとするのか? 思いきって,もっとまずくやることだってまったく同じくらい面白いのではないだろうか? いったいなぜ新しさへのあの崇拝,いったいなぜ暖炉に自分で持参した薪をくべようとする,あの趣味か? 世界に始めの真実があったにしても,もうずっと前からそれは屑や廃物や汚物や売れ残りや滓(かす)やスラグや注解や解釈やがらくたや言葉,なおも言葉から成る聚落(しゅうらく)の下に埋められてしまっているにちがいない。これでもかこれでもかと徹底的にそれは為されてきたので,こんにち行うべき仕事はもはや理解することでも学びとることでもなくて,裸になり,断念し,探しだすことなのだ。何世紀も何世紀も前から暗がりが重たく世界にのしかかってきた。どこに神はいるのか? 人間の知性と文明との,どのような堆積の下に,神は隠れているのか? どこに生命はあるのか? まるで真理が足し算の結果であるとでもいうようだ! 哲学者,数学者,文学者,詩人,神学者たちのいったいどれほどの世代をわれわれは殺さねばならぬことだろう! どれほどの体系や理性の数々を血祭りにあげねばならぬことか,・・・・・・・・以下略。
これはル・クレジオの『物質的恍惚』(豊崎光一訳,岩波文庫,2010年)のP.195~196.にかけて書かれている文章である。「未来」と題する小論の終わりの方で,ル・クレジオはこのようなことばを投げかけている。わたしははたと想いあたることがあり,本を閉じて考える。
「競争の精神はおそらく西欧思想の歩みを最も甚だしく阻害してきたものである。」
まずは,この書き出しが衝撃的である。「競争の精神」をこれほどまでに剥き出しにして批判した文言をわたしは知らない。「競争の精神」が,西欧の思想を阻害してきた,とル・クレジオはいう。しかも,「もっとも甚だしく」という。
だとしたら,オリンピックのモットーである「より速く,より高く,より強く」とは,ル・クレジオの観点に立てば,西欧の思想を阻害した最たるものということになる。オリンピック・ムーブメントとは,「競争の精神」を是とし,自由競争を前提とした優勝劣敗主義,勝利至上主義を導き出してきた張本人ではないか。同時に,資本主義経済と表裏一体となって「20世紀」をリードした最大の功労者ではないか。その資本主義経済(ルジャンドルのことばを借りれば,テクノサイエンス経済)が,いまや完全にゆきづまり,破綻をきたしつつあることはだれの目にも明らかだ。
だとしたら,オリンピック・ムーブメントは,西欧の思想のみならず,世界の思想の歩みをも「最も甚だしく阻害」してきた,史上最悪の「思想運動」でもあった,ということになる。のみならず,その思想運動を「平和運動」にすり替えて,西欧の人びとのみならず,世界中の多くの人びとを,そして,わたしたち日本人全員をほぼ間違いなく「洗脳」してきたのだ。
だから,これまでだれひとりとして「より速く,より高く,より強く」というオリンピック・モットーを前面に押し立てて,称賛こそすれ,批判するひとはいなかった。残念ながら,このわたしもそのひとりだ。だから,せいぜいのところオリンピックに「過剰な競争原理」が支配している側面をとらえて,腰の引けた遠吠えをしてきたにすぎない。
「3・11」を通過したいま,すなわち「未来を生きる」(西谷修)ことを余儀なくされてしまったわたしたちは,敢然として目覚めなくてはならない。折しも,ことしはロンドン・オリンピック開催の年でもある。世は挙げて「より速く,より高く,より強く」を礼賛し,メディアを駆け巡っている。少なくとも,「3・11」を通過したわたしたちは,それが無意識になされるメディアの「洗脳運動」である,ということに注意を喚起させなければならない。
オリンピック・ムーブメントの「功罪」について,このさい,「0(ゼロ)」地点に立って,徹底的に洗い直す作業が必要だ。ル・クレジオのことばに従えば,「どこに神はいるのか?」「どこに生命はあるのか?」と問いつつ・・・・。「裸になって」。
さらに注意を喚起しておけば,少なくとも,オリンピック・ムーブメントが原発推進運動と軌を一(いつ)にする「思想運動」である,ということを。それが「平和運動」だとする<すり替え>は,原発の「安全神話」と同根である。そのことを,ル・クレジオはわたしに気づかせてくれた。
「こんにち行うべき仕事はもはや理解することでも学びとることでもなくて,裸になり,断念し,探しだすことなのだ」とル・クレジオは主張する。
このあとの文章は,わたしにはル・クレジオの絶叫のように聞こえる。それどころか,雷のように鳴り響き,頭の中に突き刺さってくる。もう一度,引用して,このブログを閉じることにしたい。
「何世紀も何世紀も前から暗がりが重たく世界にのしかかってきた。どこに神はいるのか? 人間の知性と文明との,どのような堆積の下に,神は隠れているのか? どこに生命はあるのか? まるで真理が足し算の結果であるとでもいうようだ! 哲学者,数学者,文学者,詩人,神学者たちのいったいどれほどの世代をわれわれは殺さねばならぬことだろう! とれほどの体系や理性の数々を血祭りにあげねばならぬことか,・・・・」
これはル・クレジオの『物質的恍惚』(豊崎光一訳,岩波文庫,2010年)のP.195~196.にかけて書かれている文章である。「未来」と題する小論の終わりの方で,ル・クレジオはこのようなことばを投げかけている。わたしははたと想いあたることがあり,本を閉じて考える。
「競争の精神はおそらく西欧思想の歩みを最も甚だしく阻害してきたものである。」
まずは,この書き出しが衝撃的である。「競争の精神」をこれほどまでに剥き出しにして批判した文言をわたしは知らない。「競争の精神」が,西欧の思想を阻害してきた,とル・クレジオはいう。しかも,「もっとも甚だしく」という。
だとしたら,オリンピックのモットーである「より速く,より高く,より強く」とは,ル・クレジオの観点に立てば,西欧の思想を阻害した最たるものということになる。オリンピック・ムーブメントとは,「競争の精神」を是とし,自由競争を前提とした優勝劣敗主義,勝利至上主義を導き出してきた張本人ではないか。同時に,資本主義経済と表裏一体となって「20世紀」をリードした最大の功労者ではないか。その資本主義経済(ルジャンドルのことばを借りれば,テクノサイエンス経済)が,いまや完全にゆきづまり,破綻をきたしつつあることはだれの目にも明らかだ。
だとしたら,オリンピック・ムーブメントは,西欧の思想のみならず,世界の思想の歩みをも「最も甚だしく阻害」してきた,史上最悪の「思想運動」でもあった,ということになる。のみならず,その思想運動を「平和運動」にすり替えて,西欧の人びとのみならず,世界中の多くの人びとを,そして,わたしたち日本人全員をほぼ間違いなく「洗脳」してきたのだ。
だから,これまでだれひとりとして「より速く,より高く,より強く」というオリンピック・モットーを前面に押し立てて,称賛こそすれ,批判するひとはいなかった。残念ながら,このわたしもそのひとりだ。だから,せいぜいのところオリンピックに「過剰な競争原理」が支配している側面をとらえて,腰の引けた遠吠えをしてきたにすぎない。
「3・11」を通過したいま,すなわち「未来を生きる」(西谷修)ことを余儀なくされてしまったわたしたちは,敢然として目覚めなくてはならない。折しも,ことしはロンドン・オリンピック開催の年でもある。世は挙げて「より速く,より高く,より強く」を礼賛し,メディアを駆け巡っている。少なくとも,「3・11」を通過したわたしたちは,それが無意識になされるメディアの「洗脳運動」である,ということに注意を喚起させなければならない。
オリンピック・ムーブメントの「功罪」について,このさい,「0(ゼロ)」地点に立って,徹底的に洗い直す作業が必要だ。ル・クレジオのことばに従えば,「どこに神はいるのか?」「どこに生命はあるのか?」と問いつつ・・・・。「裸になって」。
さらに注意を喚起しておけば,少なくとも,オリンピック・ムーブメントが原発推進運動と軌を一(いつ)にする「思想運動」である,ということを。それが「平和運動」だとする<すり替え>は,原発の「安全神話」と同根である。そのことを,ル・クレジオはわたしに気づかせてくれた。
「こんにち行うべき仕事はもはや理解することでも学びとることでもなくて,裸になり,断念し,探しだすことなのだ」とル・クレジオは主張する。
このあとの文章は,わたしにはル・クレジオの絶叫のように聞こえる。それどころか,雷のように鳴り響き,頭の中に突き刺さってくる。もう一度,引用して,このブログを閉じることにしたい。
「何世紀も何世紀も前から暗がりが重たく世界にのしかかってきた。どこに神はいるのか? 人間の知性と文明との,どのような堆積の下に,神は隠れているのか? どこに生命はあるのか? まるで真理が足し算の結果であるとでもいうようだ! 哲学者,数学者,文学者,詩人,神学者たちのいったいどれほどの世代をわれわれは殺さねばならぬことだろう! とれほどの体系や理性の数々を血祭りにあげねばならぬことか,・・・・」
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