昨日(2日)の太極拳の「稽古のあとのハヤシライス」の時間に,もう一つ,忘れられない話をNさんがしてくださった。精確に要約して,ここに記述する力量はないので,思いっきりわたしの理解に引き寄せて書いてみると,以下のとおり。
「人間」は,むかしは「じんかん」と読んだんですよね,とNさん。それが,いつからか「にんげん」と読まれるようになった。おそらく,明治になって,human being という英語に「人間」という訳語を当てはめて,それを「にんげん」と読ませるようになったらしい。ところが,human being と人間との間にはとてつもなく大きなギャップがある。オーバーにいえば,まったく異質なものだと言ってもいい。似て非なるもの,というべきか。
human being は,断るまでもなく,人間らしく存在すること,に力点があり,そこには明らかに「動物」とは違う存在の仕方が意識されている。だから,英語圏の人が「人間」をイメージし,それを語るときは,human being ということばを用いる,そのたびに「動物ではない存在だぞ」という意識が,無意識のうちに流れている。ここは肝腎なところだ。
それにひきかえ,「人間」という日本語の原義は「じんかん」である。それは文字どおり「人と人の間」という意味である。それを「にんげん」と読むようになっても,文字をみれば,もともとの意味は表出している。つまり,人間は「人と人の間の関係性」として存在している,ということだ。仏教用語はきちんと,ここのところをとらえて「じんかん」ということばを立ち上げたのだ。
もちろん,もともとは漢字を当てはめたものだ。しかし,この漢字がすごい,とあらためて思う。梵語で「にんげん」のことをどのように表記したのかは,わたしにはわからないが,それに「人間」という漢字を当てはめた人は偉いと思う。鳩摩羅什も玄奘さんも,仏教経典の翻訳で大きな仕事をなした人たちであるが,この人たちにも匹敵する訳語の一つが「人間」だと思う。これが,このまま,日本に移入されて「じんかん」として定着し,この蓄積があったからこそ「にんげん」という翻訳が可能となったのだろう,と考える。
人間は,動物とは異なる特別の存在である,と思っている英語圏の人たちと,人間は,人と人の間の関係性として存在するもの,と考えている日本人とは,基本的なところで「人間認識」がまったく異なることになる。だから,あらゆる動物をはじめとする環境世界に君臨する者として人間を位置づける英語圏の人びとと,「間」の関係性と考える日本人は,動物とも環境世界とも,つねに「関係性」として折り合いをつけてきた。わかりやすく言えば,自然を支配して生きようとする人間と,自然のなかに溶け込んで生きていこうとする人間との違いである。
ここからはじまって,やがて,話は「時間」と「空間」のテーマに広がっていく。
時間は,英語では time。 空間は,space。時間は「時と時の間」であり,空間は「空と空の間」である。このように文字にしてみると,英語との違いが歴然としてくる。日本語は,どこまでも「間」に重きがある。時の「間」であり,空の「間」である。しかし,time にも,space にも,日本語の「間」の意識はない。言ってしまえば,time は時の流れであり,space はたんなる広がりでしかない。となると,「時間認識」も「空間認識」も彼我のあいだには,根源的な違いがあることがわかってくる。
この話をはじめると,またまた,エンドレスになってしまう。時間の問題を考えるには,どうしてもハイデガーの『存在と時間』を避けてとおることはできないし,それは,やがては現代思想のテーマに踏み込んでいくことになるからだ。あるいは,アインシュタインの相対性理論にまで踏み込まなくてはならなくなっていくだろう。その上で,わたしの頭のなかでは,仏教の説く「時間」の問題が渦巻いている。しかも,仏教では「時間」と「空間」の区別がつかなくなっていく。なぜなら,同じ「間」の問題となっていくからだ。ということは,「人間」の存在も同じ「間」の問題へと収斂されていく。
たとえば,こうだ。空間は「空と空の間」だ。では,仏教でいう「空」とはなにかという大問題が待ち構えている。『般若心経』を開いてみるだけで,「空」がその中心テーマであることはすぐにわかる。それを説明するために「無」が多用される。「無色」「無受想行識」「無眼耳鼻舌身意」・・・と際限なくくり出されてくる「無」。これらはすべて「是諸法空相」を説明するためのものだ。もっと言ってしまえば,「色即是空」「空即是色」を,具体的に説き明かそうとするものだ。すなわち,「あるようであってない」「ないようであってある」。そのどちらでもないものが「ある」。「空」。
ここまで思考の根をおろして,もう一度,「空間」とはなにか,と考えてみる。それは英語でいう space とはまるで違うものであるということがわかってくる。
こんな,とてつもないお土産をくださったNさんにこころから感謝。当のNさんもまた,「えっ,なんで,いま,こんな話になったんだろう」「自分でもよくわからないですけどね・・・」と笑う。こういう発想が飛びだしてくる「間」の出現を,どうもNさんは楽しみにしているらしい。
だから,太極拳は止められない。
1 件のコメント:
最近、kappa族の、kappacoolazy氏(氏でいいですね?)の音沙汰が無くなったように思うのですが、元気でいらっしゃるのでしょうか?久々にご登場いただけませんか?
「だにぉ」が聞きたいだにぉ・・・。
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