2011年11月29日火曜日

「3・11」以後を生きるわたしたちの身体について考える。

「3・11」以後を生きるわたしたちの身体について考える
──「ものの豊かさ」から「こころの豊かさ」へ

これは明日に迫った特別講義のテーマです。場所は,名古屋の椙山女学園大学(日進キャンパス)。時間は16:40~18:10。前のブログでも書きましたように,学生さん対象ですが,一般にも開かれていて,聴講自由です。時間のある方はお運びください。

いよいよ明日という段階になって,さて,どのような話をしようか,と少しずつ気になってきました。今回は,フリーハンドででかけていって,その場の力を借りて,「いま,ここ」での,ギリギリいっぱいの話ができればなぁ,と夢見ています。わたしにとっては一種の賭けであり,挑戦です。これこそが「正義」と信じて。

それにしても,ある程度は,話題のポイントは抑えておかなくてはなりません。そのための整理を少しだけ試みておこうと思います。

テーマのポイントのひとつは,「3・11」をどのように受け止めるのか,というところにあります。
もうひとつは「生きる」とはどういうことなのか,ということ。
三つめは,身体とはなにか,ということ。
四つめは,「ものの豊かさ」とはどういうことなのか,ということ。
五つめは,「こころの豊かさ」とはどういうことなのか,ということ。
最後は,もう一度,出発点にもどって,「3・11」以後,すなわち「後近代」を生きるわたしたちの身体とはなにか,と問い直すこと。

これらの一つひとつが,断わるまでもなく,とてつもなく大きなテーマになっています。ですから,それほど立ち入った議論を展開することは,ほとんど不可能です。それでも,大きな問題の所在はどこにあるのか,という提示はしなければ・・・と考えています。そのためのポイントをさらりと触れておけば,以下のようになりましょうか。

「3・11」は,わたしにとっては,「後近代」のはじまりです。ずいぶん前から,核エネルギーの開発は近代論理の破綻をもたらした,つまり,「自由競争」原理の枠組みの一角がくずれはじめた,と主張してきました。そして,このときから,「後近代」への移行期に入った,と考えてきました。しかし,今回の「3・11」は,近代論理の限界をみごとに露呈させることになりました。ですから,「3・11」以後は,近代論理を超克する新たな論理を構築しないかぎり,もはや,わたしたちの「生」は成り立たない,と考えています。

つまり,「3・11」は,世界史的な転回点になる,ということです。そういう認識に立つこと,そして,そこからわたしたちの「生」を考えなくてはならないこと,それがいまや強く求められている,と考えています。

つづいて「生きる」とはどういうことなのか。動物が生きることと人間が生きることの共通点と差異はなにか。それはそのまま,本能と理性。このふたつの「折り合い」のつけ方をどこに求めていくのか。近代のように「理性」中心主義に大きく舵を切り,「本能」を抑圧・隠蔽する制度や組織では,もはや,立ち行かなくなっていることは明らかです。そこを,どのように超克して,生き生きとした「生」の躍動をとりもどすか,ここがポイントとなります。すなわち,ニーチェのいう「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」との「折り合い」のつけ方です。これ以上の「悲劇」を誕生させないために。すなわち,「生身の身体」を可能なかぎりありのまま「生きる」こと。

つぎの「身体」は,存在しつつ存在しない,ということの再確認。すなわち,「わたしの身体がわたしの身体であってわたしの身体ではない」そういう存在である,ということ。つまり,平穏無事であるときにはわたしたちの身体はほとんど忘れ去られているけれども,危機に立ち会うと身体はにわかにその存在を主張しはじめる。すなわち,「身の安全」を主張しはじめる。つまり,「3・11」以後を生きるわたしたちの身体とは,「身の安全」を強く意識させられる存在だ,ととりあえず位置づけておくことにしましょう。つまり,危機に立ち向かう身体である,と。もっと言ってしまえば,放射性物質と向き合う身体。

「ものの豊かさ」と「こころの豊かさ」のヒントは,大塚久雄の著作『ものの豊かさとこころの貧しさ』(みすず書房)からのものです。そして,最近では,ブータン国王のいうGNH(国民総幸福)。つまり,まずは物質的欲望の充足という呪縛から解き放つこと。そして,「こころの豊かさ」の実現に向けて舵を切ること。そのためには,貧乏になってもいい,という覚悟をもつこと。むしろ,そうすることによって,人と人との関係性はより豊かになっていく,とわたしは考えています。

まあ,ざっと,こんな話が展開できれば・・・と,あとは祈るのみ。
それでは,明日の,特別講義を楽しみに。

2011年11月27日日曜日

稀勢の里の大関昇進に疑問。

なにかちぐはぐなものを感ずる。もう少し上手にできなかったのだろうか。急いてはことをし損じる,とむかしから言う。

日本相撲協会が二人めの日本人大関誕生を喉から手がでるほど待ち望んだことはよくわかる。多くの日本人も同感だっただろう。かく申すわたしも同じだ。そして,過剰に稀勢の里に期待をかけた。今場所は12勝は挙げてくれるだろう,と。でも,緊張するだろうから,少なくとも大関合格ラインの11勝は挙げてほしい,と。

しかし,10勝を挙げた段階で,つまり,千秋楽を残した段階で,大関推挙を日本相撲協会の審判部会議で決めてしまった。部長は貴乃花。なにを企んだのか,と勘繰りたくなってくる。

どういう裏工作があったかは知らないが,10勝を挙げた段階で,新聞もまた大関確実と報じた。こうして,マスコミを含めて稀勢の里を大関にするお膳立ては整っていた。そのタイミングをはかるようにして,審判部部長の貴乃花親方は,緊急に会議を招集して,稀勢の里の大関推挙を決めてしまった。いま,このブログを書いている段階では,目立った異論はなさそうだ。

しかし,3場所で33勝をクリアすること,という大関推挙の基準(申し合わせ)がある。このところずっとそれは遵守されてきた。にもかかわらず,稀勢の里は例外扱いにされた。その理由は,横綱に勝つ力量があるし,げんに,勝った実績をもつ,というもの。要するに,実力がある,というのだ。ならば,33勝するまで待てばいいではないか。

大相撲は興業だ。今場所のお客さんの入りは悪かった。となれば,なんとしても集客のための手を打たなくてはならない。それが,二場所つづけて日本人大関誕生という手だったのか。だとしたら,それは拙速というものではないか。力士の出世については,大関にしろ,横綱にしろ,よほど慎重に運ばなくてはならない。

かつての双羽黒のような例もある。不世出の大器と期待された,わがまま大関双羽黒は,規定よりも甘い基準で横綱に推挙された。その結果は,ご覧のとおりだ。それと逆だったのが,貴乃花だ。横綱になる条件はクリアしたが,一場所,見送りになった。そうしたら,一回りも二回りも強くなって,優勝を飾り,横綱を手にした。その後の活躍もご覧のとおりだ。

そのことを,もっともよく知っているはずの貴乃花親方が,稀勢の里には甘い基準をあてがった。しかも,大関の実力は十分と弁護までしている。今回の稀勢の里の大関誕生の主役を貴乃花親方が買ってでたふしがある。

だから,勘繰りたくなる。それは,次期の理事選挙だ。
隆の里の鳴戸親方は,初代二子山親方が見出し,育てた力士だ。部屋の系列,血縁からみても鳴戸部屋は親戚だ。しかし,貴乃花は「造反」して理事に立候補し,別の部屋の支持をえて,予想を裏切って,理事に当選した。しかし,その立役者だった元貴闘力が,いまはいない。とすれば,次期の理事選挙は票が足らない。その不足の票をなんとしても確保しなくてはならない。その一端が,今回の大関誕生の背後に見え隠れしてしまう。

でなければ,千秋楽が終ってから,審判部会議をもち,理事会に推挙すればいいはずだ。それを,あえて,一日前に,しかも,10勝で推挙するところに,なにか怪しげなものが感じられてならないのだ。しかも,この審判部長の行動を,理事長も支持しているのだ。

日本相撲協会の,背と腹は替えられぬという焦りの気持ちはよくわかる。しかし,通すべき筋は通しておかないと,のちのち,奇怪しなことになる。そういう火種は残してはいけない。なにを,そんなに焦ったのか,そのうちに明らかになることだろう。

稀勢の里には,もっと,すっきりした形で大関になって欲しかった(まだ,過去形ではないが)。かれもまた,それを望んだはずだ。もう,一場所,待ってもよかったのではないか。今日,千秋楽で勝ってしまった琴奨菊は,もっと複雑だったのではないか。ご当地場所とはいえ,ご祝儀としてプレゼントすべきだったのではないか,と。しかし,先輩大関としての意地をみせた。これが,もし,千秋楽の一番に,稀勢の里の大関昇進がかかっていたとしたら,もっともっと場所は盛り上がったのに,と残念でならない。そういう一世一代の緊張を乗り越えて,大関を勝ち取ること,それがほんとうに強い大関をつくることになるのだ。折角のチャンスを台無しにしてしまった日本相撲協会の責任は重い。稀勢の里にも気の毒なことをしてしまった。

もし,稀勢の里が,もう一場所,見送りになれば,来場所はいやでも盛り上がるのに・・・・。そして,納得のいく大関誕生がみられたのに・・・・。それこそが,お客さんを呼び集める最短距離なのに・・・。

残念。

「身体はまるで軟体動物のよう・・・」宇宙飛行士古川聡さん,ツイッターで。

今日(27日)の東京新聞で,宇宙飛行士の古川聡さんが「身体はまるで軟体動物のよう」とツイッターでつぶやいたということを知り,急いでその出典を確認してみました。ありました。順番に紹介しておくと,以下のようです。

「無重量環境では,自分の脚の重さを考えないでよいので,わずかな力で脚を上げることができた。地上でも脳は,わずかに脚の筋肉を動かすことで歩けると判断して指令を出した。しかし,地上では大腿はほとんど上がっておらずつまずきやすかったものと推測」

宇宙飛行士が無重量環境から重量環境にもどってくると,大腿への命令がうまく伝わらず,つまずきやすくなる,と聞いてなるほどなぁ,と納得。でも,無重量環境でからだを動かすことはできるわけですので,それなりの筋肉は使っているはず。しかし,ほんのわずかな命令で動くことができるらしいということは,宇宙飛行士の無重量環境での訓練を伝える映像などで,想像はしていました。しかし,歩けなくなるほどとは思ってもみませんでした。

それにしても,「無重量環境」というものがどういうものなのかは推測するしかありません。わたしの経験に近いものとしては,鉄棒の車輪をやっていて手が滑って飛ばされ,空中に投げ出されたときの状態なのかな,と想像しています。しかし,この場合には,遠心力が加わっていますので,自動的にからだは回転していきます。それに抵抗するのですが,それはどうにもなりません。ですから,それとも違うようです。

歩行するときに「つまずく」という経験はあります。むかし,海で3時間ほど遠泳をして浜辺にもどってきたときに,立ち上がって,歩こうとしたとたんに前にばったりと倒れてしまったことがあります。この場合には,大腿が,脳の命令をほとんど受け入れることなく動かなかったように記憶しています。ですから,そのまま,じっとうつ伏せに横たわったまま,脚に感覚がもどってくるのを待ちました。大腿が温まり,感覚がもどってきたので,そろそろいいかなと思って歩きはじめたときに,思いがけず「つまずく」ということがありました。その感覚に近いのかな,と想像。

「ドクターの観点から。重力は,耳の奥にある前庭という部分で感知される。前庭がすっかり無重量環境に慣れてしまったため,再び重力に適応するための過程だったのであろう。」

古川さんはお医者さんだったのだ。うかつにも知りませんでした。ならば,なおのこと好都合。これを読むと,重力に慣れるということ,つまり,神経回路の回復と筋肉の反応が順調にいくようになるには,時間がかかるということのようです。長期にわたる療養生活をして,ずっと寝ているだけの生活をしていた人が,病気が癒えて,歩く訓練をするのは大変だという話は聞いたことがあります。最初の第一歩が,どんなに頑張っても前に出ない。不思議だった,と言ってました。しかも,この人は,元オリンピックの陸上競技の短距離の選手でした。そして,第一歩が前に出たときには感動した,とも言ってました。そんなものかなぁ,と当時はその程度の認識でしかありませんでした。

「地球帰還当日,気分は最高だが身体はまるで軟体動物のよう。身体の重心がどこだか全く分らず,立っていられない,歩けない。平衡感覚がわからず,下を見ると頭がくらくらして気分が悪くなる。歩くつもりで足を出すが,大腿が思っているほど上がっておらずつまずく。」

気分は最高なのに,「身体はまるで軟体動物のよう」という表現につよく惹きつけられてしまいます。「軟体動物のよう」という感覚が,いまひとつ,ピンとこないからです。でも,想像はつきます。骨のない軟体動物は横たわることしかできないはずです。その軟体動物が,立って,歩こうというのですから,所詮は無理な話です。重力に逆らう支点がないのですから,平衡感覚もわかるはずはありません。しかし,「下を見ると頭がくらくらして気分が悪くなる」というのは,脳細胞もまた重力に慣れるまでに時間がかかるということを言っているのでしょうか。

わたしたちの日常の感覚でいえば,立ちくらみのように,急に立ち上がったことによる脳細胞の不適応症状が,これに近いのでしょうか。

野口体操や竹内レッスンでは,わざわざ「軟体動物」になるための稽古をしますが,宇宙飛行士は,無重量環境に長期滞在するだけで「軟体動物」にならされてしまう,ということのようです。これもまた,意に反しているわけですから,もとにもどす訓練をしなくてはならないのでしょう。

それにしても,宇宙飛行士の身体が「軟体動物」のようになる,ということはわたしにとってはとても興味のあるところ。一度,古川さんの話を聞いてみたいなぁ,直接,質問をして応答してもらいたいなぁ,と思ったことでした。

人間の身体は,環境次第で,なににでも適応するものだという恰好の事例といってよいでしょう。
これからも,古川さんのツイッターをしばらく追跡してみたいと思います。お医者さんとして,宇宙飛行士の身体をどのように観察しているのか,興味津々というところ。

今日のところは,ここまで。


2011年11月26日土曜日

竹内敏晴さんのレッスンを記録した映画をみる。

竹内敏晴さんが亡くなられて,すでに2年が経過している。いつのまに,こんなに多くの時間が流れてしまったのだろうか,と不思議な思いがする。いまでも,にこにこ笑顔でひょっこり現れて,いきなり問題の核心に触れるお話をされる夢をみる。だから,竹内さんの存在は,まだまだ身近な存在のままだ。

そんな竹内さんのお元気な姿を映像で拝見して,「久しぶりにお会いしたなぁ」という,そんな印象が強い。
昨夜(11月25日),早稲田大学言語文化教育研究会が主催する,竹内レッスンの記録映画「語りかける からだとことば 自分の声と出会う」を見にでかけた。場所は,早稲田大学22号館8階会議室。

映画は,2000年に東京賢治の学校の先生方や保護者の方たちを対象に,竹内さんが行ったレッスン(宮澤賢治『鹿踊りのはじまり』)をまとめたもの。なにしろ,竹内さんが亡くなられる9年前のレッスンなので,まだまだ,若々しいし,声も大きいし,とてもお元気。だから,なにより印象に残ったのは,竹内さんのその声のとどき方。強弱アクセントをつけながら,ここというときの声の力強さ。その迫力。それは,からだの緊張をゼロにした,弛緩したからだ,つまり,ひらかれたからだから発せられるゆったりとした声に,聞き手はついひきこまれていく,そこに,全身を貫くような強い声がひびく。

間のとり方といい,強弱のアクセントといい,その場の情景を全身で受け止めながらことばに声を託すことといい,ことばとからだのコラボレーションといい,この映画(レッスン)を見ながら考えることはたくさんあった。その基本は,自然体で立つこと。自然体で相手と向き合うこと。しかし,これが一番,むつかしい。その自然体に接近するためのさまざまなレッスン。

からだの緊張を解きほぐすための「ゆらし」,喉の緊張を解くためのさまざまな身体技法,野口体操に竹内さんの工夫が加えられ,つぎからつぎへとからだと喉と声の結びつきを確認しながら,自分の声を取り戻すためのレッスン。そして,次第に,その人の本来の声をとりもどしていく。ときにやさしく,ときにきびしく。ときには,怒気すら感ずる竹内さんの一歩もゆずらない毅然とした態度に鳥肌が立つ。迫力満点だ。

こうしたレッスンを全部で6回(1回がほぼまる一日かかるので,6日間と考えてもいい)。このレッスンをとおして宮澤賢治の『鹿踊りのはじまり』を,演劇として完成させていく。そのプロセスがじつに素晴らしい。演劇のプロである俳優さんたちに演技指導をするのとは違って,学校の先生方や保護者の方たちという,演劇ということに関してはいわば素人集団を相手に,みごとな変身をさせてしまう竹内マジック。声の出し方,身のこなし方,その場その場のインプロビゼーション,顔の表情,目線,などなど。

わたし自身は,こうした本格的なレッスンを受けたことがないので,初めて「じかに」竹内さんからレッスンをしてもらったような感覚だった。ただ,ごく簡単な「呼びかけのレッスン」を,ある座談の途中でやってくださったことがあるので,「声がとどく」ということがどういうことなのか,ということはからだでわかる。だから,その延長線上にあるレッスンとして,半分は想像いで補いながら,あとの半分はからだにひびいた。正直に言ってしまえば,どこか,宙ぶらりんの変な感じではあった。そして,それは,どこか「拒絶」につながる瞬間のようなものもないまぜになっていたように思う。この感覚がどこからくるのかは,少し,慎重に考えなくてはいけないな,と思う。

この映画の上映のあと,高田豪さんのトークがあった。34年の長きにわたる竹内さんとのかかわり(途中,10年ほどのブランクがあるものの)をとおして,いま,感ずるところを思い出すままに素直に語ってくださった。しかし,どうやら,竹内敏晴という人の存在を対象化して,客観的に語るという境地にはまだ至らないらしく,思いが千々に乱れる。それはそれで,実感がよくでていて,それなりに伝わるものはある。でも,ほんとうに,いま,感じていることはなにであるのか,ということをもう少し忌憚なく披瀝してくれてもよかったのでは・・・・とも思う。

最後に,この会を主催した代表者の方(大学院教授)からの話があったが,このことについては触れないでおこう。あまりのお粗末さに唖然としてしまったから。受け止め方によっては,竹内敏晴さんに対して失礼ではないか,という内容でもあった。折角の素晴らしい企画が台無し。残念。

2011年11月24日木曜日

「けんちく体操」のトーク・イベントに出演します。

『けんちく体操』という本を出した大西正紀(代表)さんからメールがとどきました。「けんちく体操」の映像版(DVD)を発売するので,それを記念してイベントを企画している,と。ついては,トーク・ショーのところに出演してもらえないか,とのこと。これまた嬉しいお誘い。もちろん,よろこんで引き受けました。間をとりもってくれたのはアルシーヴ社の佐藤真さん。ならば,なおのこと。

日時:12月15日(木)20:00~22:00
場所:ワンドロップカフェ(03-5829-6822)
〒101-0032千代田区岩本町2丁目9-11
イベント:「けんちく体操ナイト」(仮)
DVD披露+実演+トークショウ

DVD「けんちく体操」は(株)ポニーキャニオンから12月7日発売。2,000円(税込)。
メディアで話題となり(わたしも季刊雑誌『嗜み』・文藝春秋社で書評),大人気。静かなブームを呼んでいるとか。学校でも取り上げられ,子どもたちも大喜び。老若男女,だれでもできる身体表現。
国内外の有名建築を身体で表現。これを「体操」と位置づけたところが,きわめて斬新。

「21世紀スポーツ文化研究所」(「ISC・21」)を主宰しているわたしとしては,まさに,21世紀的身体技法の可能性を秘めるものとして,大いに注目しているところです。いわゆる,近代スポーツ競技のような競争原理から解き放たれ,性差・年齢からも解き放たれ,優劣の比較からも解き放たれた,新たな「スポーツ文化」の登場,というように受け止めています。

このブログでも2回ほどとりあげて,かなり詳しく論じていますので,そちらを参照してください。
たとえば,両脚を肩幅分だけ開いて立ち,両手をまっすぐ上に伸ばし,そのまま手の平を合わせて,「ハイッ,東京タワー」,という具合です。なんだか,飲み会の一発芸のような身体表現にも見えますが,そうではありません。

コンセプトは「建築」。つまり,「建築とはなにか」という根源的な問いがそこに埋め込まれています。ですから,大のおとなが大まじめに「東京タワー」を,全身をつかって表現します。ポイントは「東京タワー」に成りきることです。つまり,身もこころも「東京タワー」と同化することです。もっと言ってしまえば,「東京タワー」を体感することです。

いまは亡き建築家の荒川修作が,これをみたらなんと言うだろうか,とわたしは考えたりしています。荒川修作は,あくまでも,建築の側から「身体」を挑発することに全力を傾けました。そして,「死んでしまった身体」を,もう一度「生き返らせる」ための建築を,つぎからつぎへと提案しました。養老天命反転地(テーマ・パーク)も,奈義現代美術館の展示室「太陽」(遍在の場・奈義の龍安寺・建築的身体)も,三鷹天命反転住宅も,みんなコンセプトは同じです。

それに対して,大西正紀さんたちの試みは,建築を身体の中に取り込み,そこで感じたままを,身体という素材をとおして表現する・・・すると,そのさきに新たな身体の知の地平が開かれていく・・・そこに生まれる新たな身体知を建築に還元していくと,そこにはどのような建築が可能となるのか・・・・,そういうきわめて先鋭的な実験ではないか・・・・というようにわたしは理解しているのですが,はたして,どうなのでしょう。こんな質問をまじえながらのトークショウが展開すると楽しいなぁ,といまから楽しみにしています。

でも,わたしの役割は,あくまでも体操の実技の専門家として,あるいは,体操史の研究者として,もっと広い意味でのスポーツ史・スポーツ文化論の研究者という立場からの発言にあります。ですから,大西さんたちのグループの人たちとのトークをとおして,また,新たな知の地平が開かれていくといいなぁ,と夢見ています。

夜の8時からの開演ですので,お勤めの方も,十分間に合います。
どうぞ,お運びください。お待ちしています。

2011年11月23日水曜日

「3・11」以後のわたしたちの身体を考える(椙山女学園大学で特別講義をします)。

この2,3年つづけて,椙山女学園大学からの招聘で,特別講義なるものをやらせていただいています。お世話してくださるのは,三井悦子教授。テーマもわたしの好きなものでいい,というとても寛容な応対をしてくださり,ありがたいことこのうえなしです。というわけで,三井教授とご相談の結果,ことしは,以下のような要領で開催されることになりました。

日時:11月30日(水)16:40~18:10
場所:椙山女学園大学人間関係学部(日進キャンパス)5号棟205教室
テーマ:「3・11」以後のわたしたちの身体を考える
──「ものの豊かさ」から「こころの豊かさ」へ

もちろん,この講義は学生さんに向けて行われますが,一般の方たちへの参加も呼びかけられています。去年も,近在の大学の先生をはじめ,院生,主婦の方たちも聴講されました。学生さんたちだけではありませんので,わたしとしては,かなりのプレッシャーを感じますが,それだけ気合も入ります。その場の力を借りて,いつもとは違う,もうひとつ上のレベルの緊張感のもとで,話をさせていただけることを感謝しています。

ですので,興味をお持ちの方は,どうぞ,気軽にいらしてください。たぶん,黙って教室に入って坐っていれば,それでOKなのだと思います。もし,心配な方は,わたしが教室に入るときに,声をかけてみてください。それだけで,なんの問題もないはずです。

さて,今回は,いわずとしれた「3・11」を主題に据えて,わたしたちの身体について考えてみたいと思います。「3・11」をどのように定置するのか,それによって,これからのわたしたちの生き方そのものの根源が問われる,とわたしは考えています。とりわけ,身体という視座から,原発問題を解きほぐしていくと,そのさきになにがみえてくるのか,を考えてみたいと思います。

かんたんに触れておけば,あなたは,「経済」(カネ)と「生命」(いのち)のどちらに優先権を与えますか,という問いかけです。そして,生きるとはどういうことなのか,というもっとも根源的な地平にまで降りていって,わたしたちの「身体」とはなにか,を問うてみたいと思います。と,こんな風に書きますと,なんだか,小むずかしい話をするように思われるかも知れませんが,話はとてもかんたんなことです。わたしたちの身体を生き生きさせるのは,カネではなくて,こころです。この原点に立ち返って,原発問題を考えてみたいと思います。

おりしも,ブータン国王夫妻が来日されました。そして,被災地にまで足を伸ばして,直接,じかに被災者との触れ合いをされました。まだ,若い国王なのに,立派な人だと思いました。さすがに,GNPではなくて,GNH(Gross National Hapiness=国民総幸福量・幸福度)を,国王の提案で国策として推進することに全力を投球している人だと,納得しました。

この話も加えて,人間が幸せに生きるとはどういうことなのか,を考えてみたいと思います。そのための思考の中心にあるものが,すなわち,わたしたちの「身体」です。この「身体」をどのようにすることが,多くの人びとの「幸せ」につながっていくのか,を考えてみたいというわけです。

もちろん,わたし自身にとっても,初めての試みです。
で,今回は,とりあえず,「ものの豊かさ」と「こころの豊かさ」という二つの視点を据えて,可能なかぎり思考を拡げてみたいと考えています。

あとは,当日の,その場の力をお借りして,わたしの思考がどのように反応するか,を楽しみにしたいと思います。

興味のある方は,ぜひ,お出かけください。黙って,教室に入って坐っていてください。


「菅野」は「江川」の二の舞になるのでは・・・?

東海大の菅野投手が,日ハムからの一位指名を拒否した,と新聞が報じている。伯父である原監督はどのような助言をしたのだろうか。そして,祖父である原貢氏はどのように対応したのだろうか。この両者は,しばらく前の報道では「本人の意志を尊重したい」という趣旨のことを語っていた。その結果が,これだとしたら,情けないというべきか,いやいや,哀れとしかいいようがない。あるいは,あまりにもお粗末,というべきか。

日ハムは交渉を継続する,という。当然だ。どこまでも,説得すべきだし,わたしはその姿勢を支持する。少なくとも,菅野投手は,11月末まで真剣に考える,と表明していた。それでいい。じっくりと腰を据えて考えることが大事だ。なのに,なぜ,いま,ここで意志表明をしなければならないのか,わたしには,まったく理解不能だ。(あっ,ひょっとしたら,ナベツネが動いたのかな・・・・これは,まったくの個人的推量)。

わたしの結論はこうだ。菅野投手は日ハムに行くべし。それを拒否するなどと,まったくもって「甘い」。いったい,何様だと思っているのか。ドラフト制度をなんだと思っているのか。いやいや,そんなことはまるで眼中にはなくて,ただ,ひたすら幼き日の憧れをそのままに「おいちゃんのチームでなくてはいやや」とゴネている駄々っ子と同じだ。甘い。これでは江川君と同じだ。投手としては大成しない。折角の逸材だというのに。

原監督も甘い。伯父なればこそ,「日ハムに行け」と助言すべきではなかったのか。それがプロ野球のためだ,と毅然たる態度を示すべきではなかったのか。公私の区別をきちんとつけること,これが名門巨人軍の監督としての矜持ではないのか。それができない。これでは,来年の巨人軍もおぼつかない。

おじいちゃんは,これに輪をかけて甘い。浪人中は東海大で練習して,もう一回り大きくなって,再挑戦すればいい,という。どうやって「もう一回り大きくなる」のか。どうやって,それを証明するのか。その方法もないのに・・・・。ただ,ひたすら練習すればいいという問題ではない。野手ならともかくも,いやしくも投手だ。打者との真剣勝負こそが投手を育てる。

実戦こそが選手を鍛え,磨きをかける唯一の手段だ。こんなことはプロならぬ身でもわかる。日本の伝統芸能では,100回の稽古よりも,たった1回の舞台,という。舞台に立たないかぎり,ほんとうの力はつかない,と。

楽天のマー君は,高卒からプロの洗礼を受けて,驚くべき成長をとげた。あの星野仙一君をして,絶句させた,というほどに大きくなった。かたや,ハンカチ王子のユーちゃんは大学リーグで,ほどほどに交わすピッチングを身につけてしまった。が,それではプロでは通用しない,ということが実証されてしまった。両者とも,4年間を,実戦で鍛えあげたはずである。にもかかわらず,プロでのたくましさと,大学での甘さとが,みごとに実証されてしまった。

人間はいとも簡単に環境に同調する。きびしいプロの洗礼を受ければ,そのレベルでなんとかしようとする。大学野球で通用すれば,それでよし,となる。この差は,おそらく,もはや,取り返しがつかないものだろう。

菅野投手に告ぐ。まだ,猶予はある。日ハムと誠心誠意,交渉に応じ,最善の努力をして入団すべし。そして,まずは,なによりも実績を残すべし。そして,まずは,噂どおりの逸材であることを証明すべし。そして,FA権を確保してから,堂々と巨人入りすればいいではないか。史上最高の契約金の記録づくりを目指して。

プロ野球を私物化してはならない。菅野君も,ナベツネ君も。



2011年11月22日火曜日

トヨタ博物館を見学。トヨダからトヨタへの社名変更の理由を知る。

20日のブログに書いた,愛知教育大学元ゼミ生の集まりの名前は「48会」。昭和48年に入学したことからとった名前(と記憶している)。ということは,ことし56~7歳になるはず。いつのまにやら立派な紳士・淑女になっている。大学時代のことを思うと隔世の感がある。ことしはまた校長先生がひとり増えていた。

ことしの幹事はA君。豊田市で小学校の教員をしながら,サッカー・クラブの指導にも力をそそぐ。同級生たちが,つぎつぎに校長・教頭になっていくのを横目でみながら,どこ吹く風とばかりに,ひたすら子どもたちとのじかの「触れ合い」を求めている根っからの教育者。そして,熱血漢。本人は博物館おたくと自称する。ちょっと意外な取り合わせなのだが,博物館の前をとおりかかれば,よほどのことがないかぎり躊躇することなく入るという。

そんなA君が幹事なので,ことしの集まりのプログラムの中に,地元(豊田市)の最大のトヨタ博物館見学が組み込まれるのは当然のなりゆき。以前は「挙母市」と呼ばれていた都市の名前を「豊田市」に変えてしまうほどの「トヨタ」一色の町。この町にニッサンの車で乗り入れるとにらまれると言われるほど。わたしも愛知教育大学に勤務するようになってから,ニッサンからトヨタに変えた。それだけで,お前は偉い,と褒められた。そんな土地柄でもある。住民のほとんどがトヨタつながり。A君が監督を務めるサッカー・クラブもトヨタつながり。

さて,トヨタ博物館と聞けば,ああ,自社の製造してきた車を並べて,社の宣伝を兼ねて,社史を誇らかに展示しているものと思い込むのがふつうだろう。わたしもそう思い込んで入館した。ところが,である。自社製品は,最初に製造したという記念すべき「トヨダAA型乗用車」が入り口正面に飾ってあるだけで,あとは,世界の名品といわれた自動車を並べたみごとな「世界自動車博物館」になっている。しかも,それらの展示車はすべて動かすことができる,という。

トヨタを含めた日本の自動車の歩みは,別のフロアーの一角に展示してあって,ここでもトヨタの自己主張はほとんどない。みんな,平等に,年度ごとの評判のよかった新車が並んでいる。わたしが愛知教育大学に勤務していたころに乗り替えた「トヨタ・カリーナ」も展示してあって,急に親近感を覚える。そして,「ああ,いい博物館だ」とA君に声をかける。すると,A君が嬉しそうに「そう言ってくれると嬉しい」と正直に応えてくれる。

自動車マニアにとっては,丸一日いても時間が足りない,そういう博物館の展示になっている。なぜなら,自動車の展示と同時に,それぞれの自動車の時代背景を「生活史」という側面から,かなり詳しく解説したパネルが,あちこちにセットしてある。これを読みながら,わたしなどは,歩く人から車に乗る人へと,大変貌する日本人の姿を思い浮かべていた。むかしの人は,どこに行くにもみんな歩いていた。そこに馬車が走り,バスが走りして,歩行文化が少しずつ痩せていく。そして,最後のとどめを刺したのが「自家用車」の普及。これが,たった50年前のことだ。この半世紀の間に,日本人のほとんどの人たちは「歩く」ことを忘れ,どこに行くにも自動車。コンビニに行くのも自動車。銭湯に行くのも自動車。歩くことを忘れてしまった日本人のからだは,こぞって「肥満」。すなわち,文明病。あわててスポーツ・ジムに飛び込む。とき,すでに,遅し。しかも,なんというもったいないことをしていることか。ぜいたくと無駄の見本。

この話は,また,別の機会に。
ここでは,社名が「トヨダ」から「トヨタ」に変更されたときの話を書いておきたい。なぜなら,わたしは,むかしから「トヨタ」と呼ばれていたと信じて疑わなかったからだ。しかし,そうではなかった,ということを今回の博物館見学で知った。これは,わたしにとっては驚くべき「発見」だった。というよりも,虚を突かれた思いだ。

豊田佐吉が自動織機を発明したのが,こんにちのトヨタのオリジンだということは,中学のときの教科書(あるいは,副読本)で学んだ。この豊田佐吉の読みは「とよださきち」だったので,会社の名前は漢字で「豊田」と表記され,読みも「とよだ」だった。これは当たり前のことだ。

「トヨダAA型乗用車」が,初めて世に公表されたのは1936年だという。この年の9月14日から16日にかけて東京丸の内の東京府商工奨励館で開催された「国産トヨダ大衆車完成記念展覧会」の会場が,お披露目の場となった。このときは,まだ「トヨダ」と濁点がついたままだった。しかも,車の鼻先にあたるところのロゴをよくみると「豊田」と漢字で書いてある。まあ,これも,ちょっと意外だったが,よくよく考えてみれば,それが自然。なにも不思議ではない。

ところが,この展覧会の直後に,トヨダマーク懸賞募集が行われ,その審査の結果,トヨタマークが決定し,10月から製品名を「トヨタ」と呼ぶことにした,というのである。わずか,一カ月の差で,1号車は「トヨダ」(しかも,漢字で「豊田」)となり,そのご,しばらくは「トヨダ」のロゴが用いられたという。もし,このトヨダマークの懸賞募集が,もう少し早く行われていれば,最初から「トヨタ」のロゴになっていた,というのである。

以上は,トヨタ博物館のミュージアム・ショップで購入した『ガイド・ブック』の説明。

しかし,会場に立って,いろいろと説明をしてくれる美しいガイドのお姉さんは,これとは別の面白い説明をしてくれた。それによると,「トヨタ」は画数が「八画」となり,末広がりで縁起がいい。「トヨダ」では「十画」になり,しかも,×印になってしまうので,それを避けた,と。じゃあ,キリスト教文化圏だったら「トヨダ」の方が縁起がいいということになるね,とわたし。ガイドのお姉さんは困った顔をしてしまった。

それと,もうひとつの説がある,と教えてくれた。その説によると,外国人が「トヨダ」と発音すると間延びしてしまって,アクセントの置き所がわからなくなってしまう,と。つまり,「トーヨーダー」という具合に棒読みになってしまう。「トヨタ」なら,日本語と同じように発音することができる,というので,こちらがご採用になった,という。

そのあと,家に帰ってから,わたしが考えた作り話は,以下のとおり。
豊田佐吉の自動織機から,離脱して,自動車に乗り換えようとしたのは豊田喜一郎。かれは,自動織機は「トヨダ」とし,自動車は「トヨタ」とする,その差異化を狙ったのではないか。先代の功績を超えて,自己の存在を明確にするためには,差異が必要だ。そのためには,新生「トヨタ」がもっともいい,とアイディア・マンの喜一郎は考えたのだ。

というような具合で,「トヨダ」が「トヨタ」に変更した,ほんとうの理由はどこにも書いてない。書いてあることは,トヨダマーク懸賞募集の審査会が行われ,トヨタマークが決定した,とあるだけだ。なぜ,「トヨタ」にしたという議論の経緯は明らかにされてはいない。わかっていることは,懸賞募集に応募しただれかが「トヨタ」を提案し,それが採用された,というだけのこと。

すべては「藪の中」。意外に「画数」説が当たり・・・かも。
ここでは,1936年10月に,「トヨタ」というロゴが決定された,という事実だけを確認しておこう。そして,いつから,「豊田」という漢字表記から「トヨタ」というカタカナ表記に変わったのかは,ガイド・ブックをみるかぎりではわからない。

たぶん,トヨタの「社史」を調べれば,そのあたりのことはわかってくるのかもしれない。だれか,調べてみてくれませんか。

2011年11月21日月曜日

『アフターマス』震災後の写真(飯沢耕太郎+菱田雄介著,NTT出版)を読む。

出版されて間もないころに(10月28日初版第1刷),新聞の書評でとりあげられ,話題になっていたので,一度,読んでおこうと思っていた本である。ようやく,ここに手が伸びて,本日,読了。

「2011年3月11日14時46分」にはじまる東日本大震災がもたらした事態の総体がまだ十分に把握できないうちに,はやくも人間の記憶や意識は変化しはじめている。いい意味でも悪い意味でも。そこに鋭いクサビを打ち込むとすれば,まずは写真が,もっとも身近で,わかりやすい,というのはあまりに素人じみた考えにすぎないのだろうか。

写真評論家飯沢耕太郎と写真家・テレビディレクター菱田雄介のコラボレーションとして編まれたこの本は,いま一度,東日本大震災とはなにかを問い,「写真になにができるのか」と問う。

飯沢は評論家としての立場から,つまり,写真家の側からの,写真を撮ることの倫理性について思考を深めていく。それは,「3・11」以前までの写真を撮り,発表していく,というプロのカメラマンにとっては,ごく当たり前の行為が許されない情況が出現したこと,これが,かれの思考を深めさせる原動力となっている。つまり,「3・11」以後の東日本大震災の実態が日を追って明らかになるにつれ,かれの写真評論家としての,これまでのスタンスや思考にゆさぶりをかけてくる。そんなことでいいのか,と。そのゆさぶりに真向から向き合い,どうすればいいのかと日々,写真のこれからについて思考を重ねていく。もっと言ってしまえば,東日本大震災の情況の進展と同時進行のようにして,リアルタイムで自己の内に開かれた思考を書きつけていく。こうして,評論家の苦悶がそのまま記録されていく。

他方,菱田は写真を撮る人としての倫理の問題について,その苦しい胸の内を吐露する。写真は,撮る人,撮られる人,そして,その写真を見る人との,すくなくともこの三者の微妙な関係性の上に成り立つ。そのどこがくずれてしまっても,それはもはや写真として成立しなくなってしまう。だから,これまでのような写真の考え方だけでは,「3・11」以後という事態に対処できない,という。つまり,どういう被写体を,どのように撮って,それをどのような方法で公表していくのか,その反響はどうか,最終的な責任のとり方をどうすればいいのか,などを考えると身動きできなくなってしまう,という。

そして,二人とも,同じように悩み苦しむ問題は共通している。それは,死者の写真を撮るべきかいなか,もし,撮ったとしたら,どのような方法で公表すればいいのか,そして,それらの写真家の行為に対する批判にどのように応えればよいのか,ということだ。

この問題を考える手がかりとしてスーザン・ソンダクの論考を引き合いにだす。それは「死者との距離」の問題ではないかとして,思考をもう一歩踏み込んでいく。ソンダクは,アフリカの飢餓や中東の戦争の死者の写真は,撮る方も公表する方も,そして,それを見る方もあまり抵抗はない,という。この見解に,飯沢も菱田も,なるほどと納得する。

しかし,飯沢は,今回の被写体は日本国内で起きた自然災害による死者となるので,あまりにも距離が近すぎる,という。いわゆる身内意識が強く働くからだ,と。だからといって,撮らないで放置しておいていいのか,とみずからに問う。しかし,そこからさきの論理的整合性をもった思考は開かれない。

そこで,飯沢は,みずからを死者となったと仮定して,仮説を展開する。もし,自分が死者だったとしたら,やはり写真は撮ってほしいと自分は思う,と書く。そして,公表してほしいと。こんな風に考えるのは自分だけかも知れない,と断りながら。そして,自分の死を無駄にしたくはない,とも。だからといって,これを他人に押しつけたり,普遍化することは不可能だ,ともいう。

しかし,飯沢は,こういう未曽有の情況に真っ正面から立ち向かうことによってこそ,そこから新たな写真の可能性が開かれるのではないか,と一縷の夢と希望を託す。

菱田の苦衷はもっと切実だ。災害による死者を目の前にしてカメラを向けるだけの勇気も覚悟もできているか,と自分自身に問う。どう考えても自分にはそれはできない,と葛藤する。ここを超えていくには,なにが必要なのだろうか,と考える。そして,むしろ,それは勇気とか,覚悟とかの問題ではなくて,自然体そのものに身をゆだねるしか方法はないのではないか,と自問する。そのとき,その場の,自分のからだの反応に任せ,そこからの身やこころの動きにしたがうしかないのでは・・・,と。そして,ここからつぎのステージに向けて模索をつづけたい,と締めくくる。

菱田の思考を,もし,わたしが引き受けるとしたら,それは「開かれた身体」にゆだねる,ということになるのだろうと思う。あらゆる構えも意図も目的も意味も,すべて捨て去って,あるがまま。ひたすら,その「場」の力に身をゆだねる。無心。無我。大いなる他者に身を投げ出すしかないのでは・・・,と考える。そこは,西田幾多郎のいう「純粋経験」であり,「行為的直観」の世界だ。禅でいうところの「無」の境地。

となると,写真を撮る営みとは,まるで修行のようなものだ。その行の深まりとともに,写真という行為もまた深まっていく。つまり,写真という理念と行為が同時に進行していく世界。禅仏教でいえば,「修証一等」(しゅしょういっとう・道元)の世界。無駄に力んだり,大義名分を立てて頑張ったところで,所詮,底は割れている。だから,あるがまま。無理は禁物。

以上が,読後,直後のわたしの感想。
そして,本の中程に挟み込まれている菱田の28枚の写真について論評する資格はわたしにはない。ただ,文字通り,写真のタイトルである「hope/TOHOKU」を写し取っているなぁ,と感心するのみである。ただ,ひたすら,悲惨な写真ばかりを並べるのではなくて,そこはかとなく「hope」が伝わってくる中学生の卒業式の写真を組み込んだところが,嬉しい。人間・菱田が,こういう作品をとおして,みごとに露出している。ハートのある人だなぁ,と感ずる。

「3・11」は,間違いなく「世界史」に記録されるできごととなった。それは,1000年に一度と言われる地震の規模の大きさと,信じられないほどの大きな津波をもたらし,とてつもなく大きな災害をもたらしたのみならず,これに加えて原発事故という10万年単位で対処しなければならない「人災」をともなったからである。

しかし,このテクストには,原発事故の視点は,なぜか,除外されている。まるで忌避しているかのような印象が残る。

あるいは,放射能災害を「写真」でとらえることは不可能だとでも考えているのだろうか。被写体としてとらえどころがない,とでも考えているのだろうか。もし,そう考えているとしたら,それは違うだろう。もちろん,放射性物質による災害を写真にすることの「困難」はよくわかる。しかし,この「困難」と真っ正面から向き合うことによってこそ,写真の新たなる可能性が拓かれてくるのではないか。それこそが「写真」の未来ではないのか。

写真の思想性が問われるとしたら,まさに,放射性物質を「写し撮る」ことこそが21世紀の写真の最大のテーマとなるのではないか。そこを,なにゆえに,忌避したのか,わたしには納得のいかないところだ。

もう,ひとこと,付け加えておけば,地震や津波からの災害復興の足を引っ張っているのは,なにを隠そう原発事故をコントロール(制御)する手立てがまったくみえてこないからだ。だからこそ,東日本大震災と原発事故とはセットで考えなくてはならないのだ。なのに,この著者たちは,原発事故のことにはいっさい触れてはいない。なぜか?

この問いをないがしろにしてはならない,とわたしは真剣に考えている。

このテクストの素晴らしさを,けして貶めるつもりはない。が,わたしのこのような視点を併せ持ちながら,このテクストを鑑賞していただければ,幸いである。

2011年11月20日日曜日

愛知教育大学の元ゼミ生の会に行ってきます。

わたしの大学教員生活のはじまりは愛知教育大学だった。年齢は,すでに,36歳。長年,就職ができなくて苦労したことを思い出す。そのときの最初のゼミ生たちの集まりが毎年1回,休むことなく開催されてきた。みんな仲良しで,ともに情報交換などをしているらしい。

その集まりが,今日(20日),豊田市で持たれるので,これからでかけるところ。毎年,楽しみにしている会である。かられももう立派な校長になったり,教頭になったり,平教員を希望して教育一筋を貫いている見上げた人物もいる。それぞれが,それぞれの夢を追っている。だから,会話が生き生きとしている。なかには女性校長として頑張っている生きのいいのもいる。

わたしが愛知教育大学に在籍していたのは,恥ずかしながら,たった2年だった。だから,3年4年とまる2年間,わたしのゼミ生として苦楽を共にしたのは,この学年だけなのである。赴任した最初の年は,4年生の数人がわたしのゼミ生となった。この回生は,なにをどう間違えたのか,いささか桁のはずれた元気のいい学生ばかりだった。ひょっとしたら,手に余って,わたしのところに押しつけられたのかもしれない。

わたしも若かったから,キャンパス内にあった教職員宿舎に学生たちを集め,徹夜で酒を飲みながら激論を闘わせたことを記憶している。しかし,この回生のその後のことは,わたしのところには届いてこない。やはり,桁が違っていたのかもしれない。1年間のゼミ生では,とても,わたしの考えていることを伝えることはむつかしかったということなのだろう。

それに引き換え,3年4年とみっちり時間をかけたゼミ生たちは,曲がりなりにもわたしの考えていることを理解してくれ,それなりに努力をしてくれた。というよりも,学生としての質がよかった(こんなことを言うとほかの回生たちに叱られそうだが・・・)ように思う。あるいは,わたしとの波長が合ったというべきか。とても気持ちよくゼミが展開できたことを記憶している。

気の毒だったのは,3年生のときだけわたしのゼミで,わたしの転勤とともに投げ出されてしまった回生だ。この人たちには,いまも,頭が上がらない。申し訳ないという気持ちがいつまでも消えない。でも,とても温厚でやさしい丸地先生が引き受けてくださったので,わたしとしては安心だった。この回生の人たちも,その後,どのような生き方をしているのか,わたしのところには届かない。当然といえば,当然の話。

その意味では,今日,集まる回生は奇跡的な出会いだった,ということもできる。たった2年間,在籍した大学の3年4年のゼミ生だったということは,偶然にすぎないのだが,それだけではなかったのかもしれない。しかも,わたしが初めて大学に職をえたときの3年生だ。わたしは嬉しくて嬉しくて,これでようやく月給がもらえる,と飛び上がったものだ。それまでは,長い長いアルバイト生活だった。しかも,結婚して子どもまでいた。生活は苦しかった。

ようやく長いトンネルを抜け出て,さあ,これからだ,と気合も入っていた。しかも,わたしの故郷の大学だ。そして,36歳。寅年。元気一杯。希望に胸膨らませて,意気揚々と赴任した。しかも,キャンパスは新しくできたばかりの別天地のような風景が広がっていた。本部棟からブールやグラウンドにかけてなだらかな傾斜地にきれいな芝が植え込んであり,ひろびろとした空間と,抜けるような青空(その当時の東京は自動車の排気ガスで大変だった)に感動したものだ。

日曜・休日には,キャンパス内にある教職員宿舎から歩いて散歩にでた。歩きはじめたばかりの娘をつれて。プールの前の芝の傾斜地が娘のお気に入りの場所だった。ときには,おむすびを持って行って,そこでお昼をしたこともある。アルバイトから解放され,自分の自由になる時間もたっぷりあって,至福のときを過ごしていた。両親たちも喜んで,遊びにきてくれた。とくに,父は満足そうだった。父とは,このキャンパスの周辺にあるカキツバタの原生地や池のまわりを散歩した。とてもいい思い出となっている。

こんなに気に入った大学だったのに,ご縁がなかったのか,たった2年でお暇することになった。大阪大学からの誘惑に負けた。とても条件のいい提示があった。すぐにでも在外研究員として,ドイツに行かせる,というような(他にもあったが)話に乗せられてしまった。着任してみたら,それは嘘だった。直ちに,上司と衝突した。許せなかった。だから,大阪大学は,わたしの意志で,2年で去ることにした。

まあ,そんなことを思い出している。さあ,これから支度をして・・・・。
ことしは,どんな顔ぶれが集まることやら・・・・。楽しみだ。
ということで,行って参ります。

2011年11月19日土曜日

『わたしを離さないで』のDVDをみる。

カズオ・イシグロの原作小説を映画化した,話題のDVDをみる。
映画化するにあたって,カズオ・イシグロが陣頭指揮をとったというだけあって,輪郭のはっきりした,そして,メッセージ性に富んだ,みごとな作品に仕上がっていて驚いた。そして,この映画は,原作の小説とは一線を画す,もうひとつの作品としてカズオ・イシグロが取り組んだことも伝わってきて,わたしとしては,大いに納得が行った。

なぜなら,映画が日本で封切られたころ,多くの映画評論家たちが「究極のラブ・ロマンス」という見方をしているのをみて,呆気にとられたからである。原作の小説を丹念に読みこんだつもりのわたしにとっては,まったく納得ができなかった。もし,ほんとうに「究極のラブ・ロマンス」だというのであれば,映画なと見る必要はない,と勝手に思い込み,映画館へは足が向かなかった。

つまり,小説を読んだときの衝撃はあまりにも大きく,いったい,この小説をどのように受け止めたらいいのだろうか,と不安にすらなった。これまで経験したことのないような,どこか異次元の世界に連れ出され,人間というものは環境と教育次第でいかようにもなるのだ,という恐ろしさに怯えた。

だから,不安になって,いつものように太極拳のあとの「ハヤシライス」の時間に,Nさんに意見を求めた。もちろん,Nさんもとっくのむかしにこの小説を読んでいて,「これは,ほぼ,完璧な小説」だ,という。小説として,文句のつけようのないほどの完成度の高い作品だ,と。そして,その根拠を一つひとつ取り上げて解説をしてくださった。Nさんの専門のひとつであるフランス文学を読み解くときと同じように,『わたしを離さないで』の文学としての位置づけをした上で,この作品が切り開いた,新たな文学としての可能性や貢献について,懇切丁寧に話してくださった。

これを聞いて,わたしの気持ちも落ち着き,もう一度,この作品を読み直してみた。なるほど,なるほど,と思いながらカズオ・イシグロの小説世界を満喫させてもらった。それは,やはり,どこまで行っても「人間の命」,あるいは「人間の生」とはなにか,という根源的な問いを,カズオ・イシグロはわたしたちに投げかけた問題作だ,という理解だった。

だから,この小説を映画化したとしても,それが「究極のラブ・ロマンス」になどなるわけがない,いったい,評論家の眼はどこについているのだろうか,と思ったのだ。その延長線上で,今回,DVDをじっくりと腰を据えて,ノートまでとりながら観た。なるほど,「究極のラブ・ロマンス」と言えば,そのように言えなくもない仕上がりになっている。しかし,「究極のラブ・ロマンス」を成立させる,その根拠には「人間の生」の極限に迫るカズオ・イシグロの鋭いメッセージ性を読み取ることが先決ではないのか。そこを見落としてしまったら,この映画は単なる「ラブ・ロマンス」で終ってしまう。もっとも,それはそれで構わない。映画とはそういうものなのだから。

しかし,わたしには,映画の最後のシーンでひとりごとのように主人公がつぶやく「人間の生を理解することなく,みんな終ってしまう」というセリフが,グサッと胸に突き刺さったままだ。なぜなら,73歳になってもなお,「人間の生を理解することなく」悶々と生きつづけている自分の姿が,写し鏡のようにみえてくるからだ。

しかも,映画の主人公のつぶやく「みんな終ってしまう」とは,臓器移植のためのドナーとして,20代の後半には「みんな」命を「終える」という意味だ。しかも,それを自分の至上の使命として受け止めることのできる「人間」を,「つくる」(人間の生産),そのプロセスを提示することがこの映画の最大のポイントだ。つまり,ものごころがつく以前から,出自の明らかでない「孤児」たちを集め,特別の施設で育て,教育をほどこし,成人させる,そして,立派なドナーとして,みずからの「命」を「終える」。

もちろん,現実にはありえない話である。しかし,臓器移植がごく当たり前のようにして普及しつつある現実と向き合うとき,なぜか,背筋が寒くなってくる。たとえば,梁石日の小説を引き合いに出すまでもなく,東南アジアのある地域では,子どもが誘拐され,育てられ,成人すると闇から闇へとドナーとして売られていく,という話もどこか現実味を帯びてくる。

また,いまのわたしたちの眼からみると,「原発安全神話」もまた,立派な「教育」の成果だったではないか。わたしも含めて,圧倒的多数の日本人は,みんな「原発」は安全だ,と信じていた。もちろん,ほんとうに大丈夫なのか,という一抹の不安を抱きながら。でも,国策として,国家がらみでなされた「教育」は立派に「効」を奏したのだ。わたしたちもまた,国家によって「つくられて」いたのだ。そして,いまも,その姿勢を変えようとはしない。どこまでつづく「ぬかるみ」ぞ。

がしかし,気がついたときには,もはや,手遅れである。
「人間の命」「人間の生」とはなにか。
これが,ガズオ・イシグロが,映画をとおして,鮮明なメッセージとして前面に押し出した問題提起ではないのか。しかも,「3・11」が起きる以前に。

日本で生まれ,イギリスで育ち,英語で小説を書くカズオ・イシグロのメッセージを,わたしはしっかりと受け止めていきたい。そして,このDVDだけでなく,原作の小説を併せて読まれることをお薦めしたい。また,カズオ・イシグロの小説のほとんどが翻訳されているので,こちらもお薦めしたい。わたしは,どの小説にも大きな感銘を受けた。

2011年11月18日金曜日

2012年「ISC・21」3月東京例会で西谷修さんの講演,決定。

来年のことを言うと鬼が笑うという。大いに鬼に笑ってもらわねばならない話が出はじめるシーズンになった。ことしもあと一カ月余。なんとも憂鬱な日々を送っている間に,もう,年末を迎えようとしている。早いものだ。「3・11」が,つい,この間のように思い出されるというのに・・・。

それでも,ことしの行事はつぎつぎに幕を引き,来年のスケジュールが気になってくる。毎年のことながら,せわしてい年の瀬の足音が聞こえはじめた。ことし,なんとしても実現させようと思っていた西谷修さんの講演を,わたしの不注意で逃してしまった。それは,ナオミ・クラインの衝撃的な本『ショック・ドクトリン』について,西谷さんが『世界』の7月号に書かれた論考を読んで以来,ずっと,温めていたことだ。そして,内々に,西谷さんの了解もえていた。あとは,日程をどうするかでもたついていた。その間に,チャンスの神様は逃げて行ってしまった。

こんなことがあったので,「ISC・21」の次回の東京例会には,なにがなんでも実現させようと準備に入った。うまくいくときというのは,こういうものか,という典型のようにして,とんとん拍子に話は進み,今日,その計画がまとまった。ので,その予告を兼ねて,このブログに書き記しておこうと思う。つまり,不動の計画にするために。

まずは,アウト・ラインを。
日時:2012年3月19日(月)13:00~18:00
場所:青山学院大学・総研ビル3階第11会議室
プログラム
第一部:情報交換(ブック・レヴュー,フィールド・ワーク,研究活動,など)
第二部:研究発表(未定・これから募集)
第三部:西谷修講演「ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』を読み解く」(仮題)
※終了後,懇親会を予定。

参加される方は,『世界』の西谷論文を読んでおくこと,そして,ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』を読んでおくこと。これが条件。そうでない方はご遠慮ください。

なぜなら,講演後に,たっぷり時間をとって,質疑応答に当てたいと考えているため。この質疑応答を内実のあるものにするためには,聴講するわれわれの方の「読み込み」が不可欠である。西谷さんの深い「読み」を引き出すためには,われわれの方からのいい意味での「挑発」が必要だ。これがうまく噛み合えば,予想外の展開を生み,われわれはもちろんのこと,西谷さんにも喜んでもらえる,というものだ。

これも予告しておけば,少なくとも,『ショック・ドクトリン』の序章だけは,何回もくり返し読んでおいていただきたい。それと同時に,序章に対応する終章もまた,何回も熟読しておく必要があろう。その他の本論は,それぞれの事例を取り上げた各論に相当する。こちらも迫力満点なので,たぶん,ついつい釣られて読み込むことになると思う。それほどの牽引力をもっている。つまりは,全部,読んでください,ということ。

内容の議論は,ここでは控えておくことにしよう。
それにしても,「現代」という時代を読み解くために,そして,「いま」わたしたちが立たされているリアルな現実を確認するためにも,この『ショック・ドクトリン』を避けてとおることはできないだろう。いま,もはや,とどめようがないほうどの勢いで進行していく「グローバリゼーション」という名の「ツナミ」に対して,どのように対応していかなくてはならないのか,わたしたちは,いま,とてつもなく大きな課題を与えられている。そのことを,ナオミ・クラインの本はわたしたちに強く迫ってくる。

われわれの問題領域でいえば,それは「スポーツのグローバリゼーション」ということだ。来年の8月には,第2回日本・バスク国際セミナーが神戸で開催される。そこでのメイン・テーマは「伝統スポーツとグローバリゼーション」である。もう,すでに,何回にもわたって,スポーツのグローバリゼーションの問題は取り上げられ,議論を積み上げてきている。

しかし,これまでのグローバリゼーションの議論を根底からひっくり返すほどの,根源的な問い直しが,ナオミ・クラインによって提示されたのだ。ここを,どのように乗り越えていくのかによって,来年の日本・バスク国際セミナーのあり方も変わってくる。できることなら,バスクの研究者たちにも,この本を読んできてもらうと面白くなる。いや,ぜひ,読んできてもらって,侃々諤々の議論を展開したいものだ。

幸いなことに,西谷さんも,この日本・バスク国際セミナーに参加してくださるという。それではということで,セミナーの最後のまとめの講演をしていただこうと,計画を練っている(竹谷和之さん担当)。

というようなわけで,西谷修さんの講演を確保することができた,ということの意味は,いまのわたしたちにとってはきわめて大きい。ここを手がかりにして,わたしたち自身も大いに飛躍し,大きな視野に立つスポーツ史研究やスポーツ文化論を展開していくことを目指したい。

この,西谷さんの講演は,原則として一般に公開される。だから,聞きたい方はどうぞ,いまから,日程の調整をして参加していただきたい。ただし,できることなら,わたしの方に一報を入れてくれるとありがたい。

とりあえず,乞う,ご期待!

2011年11月17日木曜日

咳き込んだだけで脊椎骨折・・・・だなんて?!

わたしの親しい友人の奥さんが,夜中に咳き込んで,それが原因で脊椎にヒビが入り,入院したという。そういえば,そのむかし,わたしの住んでいた村のおじいさんが,クシャミをして肋骨を骨折して,話題になったことがある。70歳を超えるとなにが起こるかわからない。

その友人の話を聴いてみると,こんな経緯があったという。
もう,2週間ほど前から,ときおり,激しく咳き込むことがあり通院していた。風邪ではないということで,咳止めの薬を服用していた。しかし,その薬がほとんど効いていなくて,定期的に,激しく咳き込んでいた。薬を変えてもらったらどうだろうと考えていた矢先のできごとだった。それまでにも,何回もあったように,夜中に,激しく咳き込んだ。「痛いっ!」と悲鳴を上げたので,友人は驚いて眼が覚め,どうしたのかと聴いてみると,背中が痛いという。

咳き込むことと背中が痛いの因果関係がわからないので,じっと安静にしていれば治るだろうくらいに思っていた。ところが,朝,目覚めたあとも背中の痛みはとれていない。それどころか,咳き込むたびに痛みは激しくなる。仕方がないので,近所の外科で診てもらった。レントゲン検査ではなんの異常もないので,しばらく様子をみましょう,ということになった。しかし,翌日になっても,痛みはまったく納まらないどころか,咳き込むたびにますます痛くなる。

もう一度,外科に駆け込む。そうしたら,変ですねぇ,ということでMRIで精密検査をしてみましょう,ということになった。その結果,脊椎の第13番目と第14番目にヒビが入っていることが判明。手術をするほどではないが,安静が第一なので入院を薦められたそうだ。しかし,奥さんは,旦那をひとりにしておくことはできないと考え,自宅で安静にする方法を選んだ。

それを聴いた旦那(つまり,わたしの友人)が,少しばかり骨折についての知識・経験があるものだから,それはまずいと判断して,入院することを薦めた。しかし,奥さんは,食事は?洗濯は?掃除は?ごみ捨ては?と気がかりでならない。そこで,旦那は一喝。そんなことぐらい,なんとでもなる,余分な心配はするな。

ということで,入院することになった,という。
咳き込んだくらいで,脊椎骨折なんてあるのだろうか,と友人。いやいや,クシャミをして肋骨骨折した人がいた,とわたし。えっ,そんなバカな?,と友人。ウソみたいなほんとうの話だよ,とわたし。

骨粗鬆症という名前はいまではもう広く認知されているが,むかしは聴いたことがなかった。しかし,お年寄りになるとよく骨折するから気をつけなくては・・・とは聴いていた。バスから降りたときに大腿骨を骨折したとか,躓いて転んだ拍子に手をついたら前腕骨折したとか,むかしから,お年寄りの骨折はよく聴いている。しかし,そんな話は自分とは関係のない,みんな遠い話だと思っていた。が,そうではない。身近に起きていることを知って,気をつけなくては,と思う。

友人の奥さんは,とりあえず,一週間の入院だそうな。でも,咳き込むことを制御しないと,脊椎のヒビはますますひどくなっていくのではないか,と友人は心配している。こうなると内科と外科の連携が必要になってくる。そのあたりのことはどうなっているのか,あまり,突っ込んで聞くわけにもいかないので,黙っているが・・・・。もちろん,賢明な友人のことだから,さっさと手を打っていることだろう。

食事はどうするんだ,と聴いてみる。すると,台所に立つことは嫌いではない。この際だから,自分で好きなものを料理してみようかと思っている,という。それは,見上げた心構えだ,とわたし。ぜひ,そうした方がいい,とも。まあ,ふだんはなにもしないらしい友人だが,なかなか器用な人だから,やればなんでもできそうだ。新たな自己形成をするには,いいきっかけだ。大いに励むべし,とわたし。うん,面白そうだよな,と友人。

まあ,怪我の功名ということもある。そうなることを祈ることにしよう。
それにしても,咳き込んだだけで脊椎にヒビが入るとは・・・・。とても他人事とは思えない。気をつけなくては・・・としみじみ思う。かといって,どうすればいいか,ということになるととんと無知。まずは,この無知と向き合うことからはじめなくては・・・,とわたし。

友人の奥さんが無事に退院されることを祈るのみ。

李自力老師の父上の太極拳に感動。

昨日の太極拳の稽古に,久しぶりに李老師が顔をみせてくれました。いつもにも増して緊張感が高まりました。なぜなら,李老師がご両親と一緒に現れたからです。太極拳仲間のNさんとKさんは,9月の中国旅行(雲南省方面)の折に昆明で(それ以前にも,一度),すでにお会いしていますので,顔なじみ。ほかの仲間は初めて。

李老師は,今日は見学だけです,といって着替えもしません。が,父上が上着を脱いで準備運動をはじめました。李老師から聞いていた話では,「父は若いころに少しだけやった経験があると聞いていますが,あまり,まじめにはやらなかったようです。いまは,ほとんどやっていません」とのこと。その父上が,とても面白い準備運動をはじめました。わたしたちは,いつものように,それぞれ思いおもいの準備運動を開始。すると,母上まで,わたしたちと同じような柔軟運動をはじめました。とても,からだが柔らかい人で,みんな感動。

父上の年齢は,わたしより一つか二つ上,母上は,わたしよりお若いと聞いています。でも,お二人とも溌剌としていらっしゃって,とても若々しくみえます。

その父上の準備運動をみていて,おやっ,と思うところが最初からありました。ひとくちで言ってしまえば,わたしたちのやっている準備運動とは,まったく異質のものでした。わたしたちのやっている準備運動は,いわゆる日本式。精確にいえば,和洋折衷式。父上の準備運動は,たぶん,少し前までの中国式。

父上の準備運動は,両脚をバネのように軽ろやかに曲げ伸ばしをしながら,脱力した両腕を振動させ,その勢いを利用しながら,前後左右に腕を動かしていきます。いわゆるリズム体操的なものですが,それとも異質です。なぜなら,両腕の動きは,すでに,太極拳の基本の動きになっているからです。いわゆる,号令をかけて,みんなが一緒にできるような体操ではありません。まったく,その人のリズムで,その日の気持ちとこころのコンディションに合わせた,じつに伸びやかな運動です。しばらく,両脚・両腕の振動を用いた運動のあと,こんどは,両脚をクロスさせたまま,深く曲げていき,一番下まで体重を下ろしていきます。両脚のクロスのさせ方を左右交互に変えながら,数回,この運動をやっていました。

そのあと,父上は,わたしたちの,いつもの全員一緒に行う基本の運動は,坐って見学。24式の稽古に入るところで,ふたたび一緒に,仲間に加わりました。そして,はじめてみたら,なんとゆったりとした太極拳であることか,とびっくり。わたしは,いつものとおり,集団の一番右端のうしろに立ってはじめましたので,全員の動きが一目でみえるわけです。わたしは,あわてて,父上の動きに合わせるようにしました。が,みんなは,いつものとおりのスピードで,どんどんさきに行ってしまいます。この段階で,父上の太極拳が,並の人のものではない,と直感しました。

李老師と母上は,床に坐ったまま,じっと観察しています。わたしなどは,あまりの緊張で,いつもできることまでできなくなってしまうほどでした。ほかのみなさんは,意外にのびのびといつものように24式が流れていきます。が,わたしたちのやっている太極拳は,明らかに「早すぎる」と感じました。もっと,ゆったりと,からだの声に耳を傾けながら,その折々のこころの状態に溶け込んでいくべきだ,と反省。でも,父上は,途中から,わたしたちの動きに合わせてくれる余裕でした。

この24式が終ったところで,李老師から,父上が中学生ころに習ったという太極拳を見せてくれる,と紹介があり,ここで,ふたたび「おやっ?」と思いました。父上は,静かに稽古場(とても狭い和室)の中央に進み出て,ゆったりとした太極拳をはじめました。李老師の説明では,楊式と呉式の中間に位置する,むかしの太極拳だとのこと。

これをみていて,唖然としてしまいました。もう,太極拳の「格」が,まるで違うのです。じつに,ゆったりと,悠揚迫らざる,自然そのものの流れに乗って,太極拳の表演が繰り広げられていきます。ふとみると,一番,熱心にみているのは李老師でした。いつもとはまるで違う,光る眼で,じっと父上の動きを追っています。しかも,時折,手の動作などを「後追い」のようにして,確認しています。水を打ったような静けさの中で,父上の表演が延々とつづきます。いつはてることもなくつづくのではないかと思うような時間でした。

みんな感動して,拍手喝采でした。
李老師の父上は,四人兄弟の長男。その一番下の弟さんが,李老師の子どものころの太極拳の師匠だった,と聞いています。その方たちとは,9月の昆明でお会いし,食事を共にしました。みんな,とても仲良しの,いい人たちばかり。その子どもさん夫婦やお孫さんたちともお会いしました。ファミリー全体が,とても温かいハートの持ち主ばかりなのにも,感動しました。こういう大家族の雰囲気のなかで,李老師は育ったこと,そして,早い時期から親元を離れて,太極拳の世界に飛び込んでいったこと,そして,いまは,長い日本での滞在生活を送っていること,などを思い浮かべながら,昆明でのひとときを過ごしたことを思い出しています。

李老師という名人が一朝一夕にして誕生したのではない,ということもよくわかりました。こんなにみごとな太極拳がいまもできる父上が,太極拳は素人です,と仰る。そして,ふだんは,読書が好きで,暇があれば本を読んで暮らしている,とのこと。お顔を拝見し,一緒に時を過ごしているときの挙措をみるかぎりでも,この方は相当の学者さんだな,ということはわたしにもわかります。理性的な,冴え渡ったお顔をしていらっしゃいます。そして,母上は,いまも美しい人。四川省出身とかで,お料理が得意。李老師の料理のお手並みは,母上ゆずりだそうです。

とまあ,李老師の父上の太極拳を拝見させていただいて,予想だにしなかった至福のときを過ごすことができました。

また一つ,太極拳の奥の深さを垣間見た思いです。
以上,昨日の太極拳の稽古での,思いがけないハプニングのご報告まで。

2011年11月16日水曜日

巨人内紛のお粗末。ナベツネ体制にほころびが・・・・。

清武君の造反は失敗か,と新聞は書く。ネット上の意見の多くは清武君を支持。こんにちのメディアの内実をみごとに反映していて面白い。

大手新聞各社は,ナベツネ支持を表明しておかないと,あとで大変。だから,清武君の「造反」と書く。おまけに「失敗?」と書く。これがナベツネへの仁義らしい。ナベツネ帝国の健在をよしとする新聞メディアの情けないところ。しかし,ナベツネとはなんの関係もないマルチチュードのネット社会は,惚け老人の記憶違いを叩く。そして,これはもはや「老害」以外のなにものでもない,と。

絶大なる権力を保持してきたナベツネ体制に,ようやく「ほころび」がではじめたか。さきのドラフトでも,日ハムが「造反」した。東海大の萱野獲得をめぐって,すでに巨人入りが当たり前のように報じられていた。他の球団は,ナベツネの権力に屈して,手を引いた。「自発的隷従」である。しかし,日ハムだけは,ドラフトのルールどおり,正直に意志表示をした。そして,萱野獲得の交渉権は日ハムの手に落ちた。

ナベツネが,カッとなった姿が眼に浮かぶ。どうやら,これが引き金となって,江川コーチ招聘の問題が起きたようだ。なんでも思うままになると信じてきた独裁者は,まさか,子飼いのイヌに噛みつかれるとは夢にも思っていなかっただろう。清武君には,多少,悔しいだろうが「泣き寝入り」させ,あとで,そこそこのご褒美をやればいい,くらいに思っていたのではないか,とこれはわたしの推測。しかし,そうはいかなかった。ナベツネの大いなる「誤算」。

あの穏健な,巨人のOB会長のワンちゃんですら,外部にいる者は静観する以外にない,と言いつつも,なにも日本シリーズの真っ最中に「水をさす」ようなことをしなくても・・・と苦言を呈している。しかし,この発言もまた,清武批判だ。しかるべき立場にある人たちは,みんな,ナベツネに逆らうことはしないし,言わない。しかし,名もなきマルチチュードは,ほんとうのことを言う。奇怪しいことは奇怪しい,と。それが書けない新聞メディアの方が狂っている。

このことは,「3・11」以後の,名のあるメディアの報道がいかに「体制」べったりであったかをみれば歴然としている。そして,いまも,基本的にはなんの変化もない。8割のマルチチュードが「脱原発」を支持しているというのに,2割の「帝国」が「原発推進」をめざしている。そして,それが当たり前であるかのごとく平然としている。命よりもカネの方が大事と考えている輩である。マルチチュードはカネよりも命と言っているのに。

プロ野球も同じ。他のチームの選手たちがシーズン・オフでからだを休ませているのに,中日とソフトBは,死力をつくして闘っている。この両チームのファンにとっては,なにがなんでもという気持ちでいっぱいだろうが,他のチームのファンは白けきっている。その代表が巨人の執行部だ。日本シリーズなど眼中にもない。そして,「水をさす」ようなことも平気でやる。自分勝手。みんな,ナベツネを見習って,権力の座にしがみつき,自分の身の保全のために全力をそそぐ。

プロ野球も,なにもアメリカを見習って,日本シリーズまで闘う必要はない。シーズン優勝だけで十分だ。なにも,わざわざシーズンで第三位だったチームが,日本シリーズで優勝するような仕掛けを持ち込むことはない。これも,カネのためだ。単にカネ儲けのためだけだ。もっと言ってしまえば,メディアのための「安上がり」な情報づくりであり,そのために「脱原発」関連の情報を押さえ込むための仕掛けでもあるのだ。あるいは,世界にはもっともっと大事なニュースがあるのに,それに「フタ」をするための装置でもある。どう考えても,選手・監督の名誉のためではない。それどころか,選手・監督のからだもこころも,とことん疲弊させるだけのことだ。

清武君の名はプロ野球史に長く刻まれることになるだろう。なぜなら,磐石をほこったナベツネ体制に一撃を加えたのだから。しかも,この一撃は生半可ではない。ナベツネ体制に不満をもつ内部の勢力に火をつけることになりそうだから。しかも,ナベツネの年齢からしても,もう,そんなに長くこの体制を維持していくことは不可能だ。その崩壊劇の幕を,率先して,切って落した・・・としたら・・・。

カネの亡者の終焉を言祝ぎ,命の大切さを,プロ野球をとおしても学ぶべきではないか。一年間を闘ってきた選手・監督・コーチ,その他,裏方の人たちの心身をリフレッシュするためのシーズン・オフだ。そのためにこそ,時間を費やすべきではないのか。

ネコの首に鈴をつける「第二者」はだれか。
新しい巨人軍を誕生させるためにも,旧体制はできるだけ早く幕引きをした方がいい。そのきっかけを清武君がつくったのだから・・・・。「自爆的抵抗」,別名「テロリスト」。みずからのからだにダイナマイトを巻き付けて,命懸けの「抵抗」をした,その勇気を讃えたい。そして,日ラムの勇気にも,こころからの拍手を送りたい。

そして,ナベツネよ,さらば,と。

2011年11月15日火曜日

玄侑宗久著『四季の公案』(佼成出版社)を読む。

こころの安寧に不安を感じはじめると,いつのまにか『般若心経』の解説書に手を伸ばしているわたしがいる。『般若心経』の解説書を読み漁る習慣は若いころからあって,自慢するわけではないが,いつしか溜まりにたまって,いまでは優に50冊は超えている。なかでもお気に入りの本は5冊ほど。このうちのどれかに手が伸びていく。その日の気分によって,選ばれる本は,いつも違う。それらの本をペラペラとめくりながら,拾い読みをするだけで,なぜか,気持が落ち着くのである。

その延長線上に,玄侑宗久さんの本がある。実家の寺(福島県三春町)を継ぐのがいやで,大学を卒業後も数えきれないほどの職業を転々としたが,やがて,一念発起して天龍寺の道場で修行をし,家業を継ぐ。そして,僧侶と作家という二足のわらじを履くことになる。そのいずれにも才能を発揮して,檀家には慕われつつ,芥川賞作家として活躍をしていることは,よく知られているとおりである。いまも,三春町から「3・11」以後とじかに向き合いながら,行動し,思考を深め,さまざまなメッセージを発信している。

学会が終わり,翻訳の仕事に一区切りがつき,長い間,つづいていた緊張が途切れ,突然の「空白」が生まれる。この「空白」の感じ方は個人差があるようだ。わたしの場合には,なんともいえない寂寥感が襲ってくる。寂寞といえばいいだろうか。そんなときは,ほぼ間違いなく『般若心経』を唱えはじめる。もちろん,声には出さない。が,口が動く。そして,やはり両親のことや,祖父母のことや,大伯父・大伯母のことが頭の中をよぎっていく。みんな,曹洞宗の寺につながる記憶ばかりである。これを「血」と呼ぶとすれば,そのとおりだ,と思う。わたしという個人を超えでたところの問題だ。そして,そういう人たちと記憶の中で向き合うことによって,わたしの寂寥感は徐々に落ち着き,納まっていく。

今回は,玄侑宗久さんの書いた『四季の公案』に手が伸びた。もともとは,雑誌にインタヴューとして連載されていたもので,それに手を加えて,単行本としたものである。だから,きわめて読みやすい。口語文をそのまま活かして,公案という難題を,わたしたちの身近な話題をとおして解きあかしてくれる。その文章がまた美しい。

正方形に近い形の,ちょっと変わった小型の本である。ところどころに,見開き全ぺージをつかって,四季折々の美しい自然を撮ったカラー写真が折り込まれている。これが,また,とてもいい。しばし,みとれてしまう。つまり,玄侑さんの地の文章と共振・共鳴しているのである。

四季ごとに章を分けて,いくつかのテーマを立てて,話を展開している。たとえば,「春」の章には,松,雪,節分,涅槃会,梅華,桃が,「夏」の章には,薫風,喫茶去,竹,青山,行雲流水,入道雲,施餓鬼が,「秋」の章には,お彼岸,月,西風,紅葉が,そして,「冬」の章には,成道会,煤払い,餅つき,除夜の鐘,という具合である。

今回は,なぜか,「夏」の章の行雲流水のテーマに眼がいき,わたしの気持ちは落ち着きを取り戻す。そこの書き出しはつぎのようである。
「諸行は無常なり,とお釈迦さまはとらえました。では,どう生きればいいのか,と言えば,『雲や水のごとくに』です。つまり,『行雲流水』は生き方の提案なんです。
修行僧を雲水といいますが,これは空を絶えず動いていく雲と,流れゆく水のように滞らないということです。」

というところから説きはじめ,「滞らない」ことの重要性を諄々と説いていく。
「お釈迦さまは,定住することなく行脚をし続けました。定住するとは,何かを所有することであり,『所有する』ということは,守らねばならないものができるということです。守らなければならないものを捨てて出家したのに,再び守らなければならないものができることにお釈迦さまは抵抗がありました。」

そうして,読んでいくと,「行雲流水」とは,一言で言えば「自由」です,と玄侑さんは断言する。そして,つぎのように説く。ここは,わたしにとっては新しい発見だったので,少し長いけれども,引用しておく。

「仏教語としての自由という言葉は,禅が使いだしたものです。六祖慧能(えのう)が『自由自在』という言葉を初めて使うんです。それまでは,『自由』という語は『勝手気まま』という意味でしかありませんでした。
六祖が言う自由自在とは,自在に変化できるということなんです。しかし,『私にはそんなことはできない』などと『私』のイメージを固定してしまうと,自在な変化ができなくなるわけです。
『私』というものは,相手とのかかわりのなかで,その時その場だけに現成するものです。あらゆる状況と相手に応じる力が『自由』であり,仏教では最も大切なことなのです。」

「行雲流水」は,太極拳の稽古でも,よく言われることばのひとつである。そして,なにものにもとらわれない「自由」をわがものとせよ,と。しかし,「わがもの」とした瞬間に,その「自由」は逃げて行ってしまう。ここが,また,むつかしいところ。

と,こんなところに思い至ったところで,わたしの寂寥感はどこかに消えている。それだけで,十分。ありがたい本だ。こんな話題が満載の本は,わたしにとっては,お気に入りの『般若心経』解説本に,もう一冊が仲間入りして,しばらくは楽しめそうだ。

のみならず,これからは仏教にかぎらず,もう一度,宗教とはなにか,信仰をもつとはどういうことなのか,ということを多くの人たちが考える時代に入っていくのではないか,と思いはじめる。とりわけ,「3・11」以後は。これから大きな波が寄せてくるような予感がするのだが・・・・・?

以上,玄侑宗久さんの『四季の公案』の紹介まで。

2011年11月14日月曜日

『メディアスポーツ解体』の著者森田浩之さんにお会いできたのに・・・。

二日間(12日・13日)のスポーツ史学会(第25回大会)が終わって,ことしのひとつの大きな節目を通過したなぁ,としみじみ思っている。この学会がこれからどのようになっていくのだろうか,と毎年,気にかけている。にもかかわらず,ことしは,少し前のブログにも書いたとおり,『ボクシングの文化史』(翻訳,東洋書林)の追い込みと重なり,14日には戻さなくてはならない念校と学会期間中もにらめっこをしていた。だから,学会は上の空。ほとんど会場から雲隠れしていた。

しかし,シンポジウムと二人の発表だけは聞こうと期待していた。
で,まずは,12日の午後に設定されていたシンポジウムに顔を出す。ぎりぎりに会場に飛び込んだら,大きな会場の一番うしろの席しか空いていない。珍しいことだ。前からびっしりと人で埋まっている。やはり,テーマがいいと人は集まる。仕方がないので,一番うしろに坐る。シンポジストの顔がほとんどみえない。残念。

わたしの期待は,『メディアスポーツ解体』<見えない権力>をあぶり出す(NHKブックス)の著者・森田浩之さんのお話を聞くことにあった。シンポジスト3人のうちのあとのお二人は,わたしたちの会員から中房さんと玉置さんが立った。このお二人のお話にゲストの森田さんのお話がどのようにからみつくのか,そして,それを座長の松浪さんが,どうさばいていくのか,それが楽しみだった。

しかし,最初から,想定外のことが起きた。声が聴こえないのである。座長の切り出しのことばが,すでにして,ほとんど聞こえない。たぶん,こんなことを言っているはずだ,という想像力で補って聞いていた。そして,トップ・バッターの中房さんのおしゃべりが,これまた,ほとんど聞き取れない。一時,音声が大きくなって,ようやく聞き取れるようになったと思ったら,また,小さくなってしまった。パワー・ポイントで映し出された文字や図版を頼りに,必死になって耳を傾ける。が,やはり,意味不明。

つづく玉置さんのお話は,パワー・ポイントを使われなかったので,まったく聞き取れず。残念至極。で,最後のゲストの森田さんも,パワー・ポイントの文字を追いながら,お話に耳を傾けるも,ほとんど聞き取れない。

少し前から,難聴であることは自覚していた。人の話す声が少し離れてしまうと,ほとんど聞こえない。距離の二乗に比例して聴こえなくなる。だから,ふだんも右側の耳を相手の顔に寄せるようにして,聞くようにしている。まずは,そこにすべての原因があるのだが・・・・。

しかし,隣に坐っていた人(Sさん)に「聴こえますか」と聞いてみた。あまり,よく聴こえません,という。じゃあ,わたしひとりではないのだ,と少し安心。それで,なるほど,と思うことがあった。いつもなら,前の方が空いていて,うしろは満席になるのに,今回は前が詰まっている。すでに,一般研究発表の間に,うしろは聴こえないということがわかっていたらしい。だから,会員のみなさんが,みんな前の方に詰めて坐っているのだ,と。

そんなわけで,このまま坐っていても意味がないと判断し,さっさと退席して,念校の仕事にもどってしまった。だから,そのあとのディスカッションがどのように展開したのかは,わたしは聞いていない。とても残念だったが仕方ない,と諦めた。

が,もっと残念なことが起きた。シンポジウムが終わって,そのまま,会場を移して懇親会に入った。さっと見回したところ,森田さんの顔が見えない。あー,忙しくてお帰りになってしまったのだ,と勝手に思い込んでしまった。そうしたら,会が終わるころになって,井上さんが森田さんを連れてきてくださった。慌てて,ポケットの中にくしゃくしゃになって入っていた名刺(最後の一枚)を出して,ご挨拶。森田さんは背の高い人で,こんなに大きな人だったのか,と少し驚いた。

でも,とても気さくな方で,最初から,楽しい会話を交わすことができた。『メディアスポーツ解体』をとても興味深く読ませていただきました,とわたし。『近代スポーツのミッションは終わったか』を読んで,わたしは稲垣先生のファンになりました,と森田さん。一瞬,ほんまかいな,と顔を覗き込んでしまった。まんざらお世辞だけでもなさそうな雰囲気だったので,いやいや,あの本は今福さんと西谷さんが語ってくださっているところがセールス・ポイントですから,とわたし。そうしたら,ブログも楽しみに読ませていただいています,と森田さん。「えっ?!」とわたし。一瞬,冷や汗が背中を流れていく。玉石混淆で,お恥ずかしいかぎりです,とわたし。いやぁ,とても面白いですよ,と森田さん。

とまあ,こんなやりとりをしてから,一度,ゆっくりお話を伺いたい,とわたし。じつは,毎月,東京・名古屋・大阪と巡回しながら研究会をやっていて,3カ月に一回くらいの割合で,東京で研究会を開催しますので,そこに遊びにきてください,とお誘いする。あー,そうですか。よろこんで,と森田さん。じゃあ,あとは,メールでやりとりをさせてください,とわたし。

そんな風にして,わたしは折角のチャンスなのに,慌ただしく会話を切ってしまった。というのは,このままいけば,今日のシンポジウムの感想を求められるに決まっている,そんなことになったら,なんと弁明すればいいのだろうか,という後ろめたさがわたしにはあったからだ。中途半端な弁明もしたくないし・・・,と。それで,もっと時間をかけてお話をしたい,とお願いをした次第。

こうなったら,次回の東京例会には,西谷修さんにお出でいただいて,やはり,ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』のお話をしてもらおう,とこのとき決心した。で,そこに森田さんがきてもらえれば,あとの懇親会で,じっくりと「メディアスポーツ」をめぐる問題について議論をすることもできるなぁ,と。もう,そんなことを夢みている。

やはり,メディアとスポーツとの関係は,とことん考えなくてはならない現代の課題である。つまり,いま,という時代を読み解く,最大のテーマのひとつだと考えているからだ。現代という時代を考える上で,スポーツはもはや不可欠の素材なのだ。

スポーツメディアがメディアスポーツを創り出し,いまや,メディアスポーツのみが「スポーツ」だと多くの人たちが信じて疑わない。そこには,もはや,わたしの考える(あるいは,体験した)スポーツのリアリティは存在しない。だから,いま,わたしたちが眼にしているスポーツのすべては,ヴァーチャル・リアリティとして現象しているだけなのではないか,と。

人間の眼で確認することのできない100分の1秒,1000分の1秒を,テクノロジーの手を借りて,優劣を区分けすることの意味はどこにあるというのだろうか。メディアスポーツは,それをいとも簡単に可能とするのみならず,当たり前のこととして,人びとを洗脳していく。人びともまた,すぐに,順応してしまう。そのさきに待ち受ける「スポーツ」とは,いったい,なんなのだろうか。そんなことを森田さんと話してみたいのである。

このブログは,森田さんへのお詫びとラブ・コールのつもり。
ぜひ,一度,お会いきできますことを。
こころからのお願いです。

メディアスポーツよ,いずこへ。

2011年11月11日金曜日

明日からスポーツ史学会第25回大会。東海大学を会場に。

11月12日(土)・13日(日)の二日間にわたって,スポーツ史学会第25回大会が,平塚市の東海大学体育学部を会場にして開催される。大会組織委員会委員長は松浪稔さん。

大会プログラムを眺めながら,さまざまな思いがよぎる。
まず第一に,「第25回大会」という回数に,歴史を刻んだものだと思う。思い起こせば,いまから26年前,わたしはウィーン大学に在外研究員として滞在していた。このウィーンに行く前に,「スポーツ史学会」立ち上げの下準備はできていた。あとは,恩師の岸野雄三先生のお許しをえるのみとなっていた。このときに,先頭に立って,岸野先生と交渉の任にあたってくれたのが,現会長の藤井英嘉さんである。わたしは,遠く,ウィーンにいて,うまく交渉が成功することを祈っていた。

この交渉についてはいろいろの紆余曲折があったが,最終的には,うまくまとまった。藤井さんの功績が大きかった。そのあとの,夏休み明けに,わたしはウィーンから帰国して,早速,スポーツ史学会結成の準備にとりかかることになった。で,ここでもいろいろのことがあったが,とにかく,スポーツ史学会が誕生する運びとなった。めでたし,めでたし,である。

それから,もう,25年が経過しているのだ。まるで夢のような話である。その第25回大会の会長として陣頭指揮をとる藤井英嘉さんは,わたし以上に,感慨無量なるものがあると思う。ロマンチストの彼のことだから,一人静かに,いまは亡き恩師岸野雄三先生に報告しながら,涙を流しているのではないか,と同級生のわたしは思う。そして,走馬灯のように,つぎからつぎへと,この25年間の記憶が駆け巡る。苦楽を共にした同志として,わたしの胸にも突き上げてくるものがある。

そして,第25回大会のプログラムをじっと眺めてみる。いつのまにか,わたしの知らない人たちの名前がずらりと並んでいる。そして,それらの発表の座長を務める人たちもまた,大いに若返っている。ここ数年の間に,一気に,会員が若返ったような印象である。とりわけ,大学院生の発表が激増した。その分,大学に勤務する現役の研究者の発表が激減している。この傾向はどの学会も同じだと聞いているが,なぜか,寂しいかぎりだ。

折しも,今日,スポーツ史学会会員名簿なるものがとどいた。めくってみて驚いた。名前と所属とメール・アドレスのみである。中には,名前だけ,という人もいる。所属があるのに,書かない人もいる。個人情報なんとかやらで,どこまで公表するかは個人の意志によるのだそうな。わたしの個人情報などは,もうとっくのむかしにインターネット上を駆け巡っている。中には,わたしの知らない情報まで流れている。が,別段,変わったことはなにもない。これまでどおりである。

この空白だらけの,まるで,蜂の巣のような名簿を眺めながら,これが現代社会の一つの縮図なのか,と暗い気持ちにさせられてしまう。つまり,学会の会員といえども,お互いに,まったく,人間として信用されていない,という現実を目の前に突きつけられているのだから。もっと言ってしまえば,「部外秘」としても,それが守られないということだ。なんともはや,情けないかぎりである。

だからというべきか,一種の人間不信感が,目にみえないかたちで学会の会場の中を空気のようにして流れているように感ずるのは,わたしだけなのだろうか。どこかよそよそしいのだ。以前はそうではなかった,と記憶する。わたしがデビューしたころには,発表が終ると先輩たちみんなが慰労してくれたものだ。懇親会などでは,若手を引き上げてくれる雰囲気があった。が,いまは,どうなのだろう。世代ごとに集まって輪をつくっているように見受ける。そこに割って入る先輩もあまりみかけない。

さて,明日の初日の夜には,懇親会がある。どんな雰囲気になるのか,いまから楽しみの一つだ。いつのまにか,わたしより先輩の人の顔も少なくなっている。明日は,何人,きてくれるのだろうか。これも楽しみの一つ。

大会組織委員長の松浪さんが頑張って仕掛けた,節目の第25回大会である。シンボジウムも「スポーツメディア史を考える─現代,日本近代,欧米近代の視点から」という斬新なテーマがかかげられている。シンボジストも多彩な顔ぶれだ。さて,どのような展開になるのか,こちらも楽しみの一つ。

できるだけ,楽しみを増やして,明日はでかけることにしよう。
ただでさえ,暗いご時世なのだから,できるだけ明るい期待を抱くことにしよう。
そして,第25回大会が成功裏に終ることを祈ろう。


2011年11月10日木曜日

訳本『ボクシングの文化史』(東洋書林)の念校がでる。

ほぼ2年ほど前に東洋書林から依頼を受けて,翻訳にとりかかっていた本の念校が,今日の朝一の宅急便でとどいた。わくわくしながら,気になっていたところのチェックに入る。みんなきれいに直っている。あとは,もう一度,通読して内容上の問題点をチェックするだけとなった。

念校がでたということは,あとは,刊行まで一直線。この念校を予定どおり14日にもどせば,あとは,12月15日ころに見本がでて,20日前後にはこの本が書店に並ぶ。書名は『ボクシングの文化史』(Boxing,  A cultural history)。著者は,カシア・ボディ(Kasia Boddy.)。イギリスのロンドン大学で英文学の教鞭をとりながら,文筆家としても活躍している女性である。女性の書いたボクシング史としても異色である。随所に,女性のまなざしが感じられて,読んでいて面白い。

訳者は,松浪稔,月嶋紘之の両氏。わたしは監訳者。若いお二人の名訳をご期待ください。わたし自身は,これまでドイツ語の本は何冊か(共訳もふくめれば6冊)翻訳した経験があるが,英語の本は初めて。でも,初訳は英語に強いお二人が担当してくれたので,わたしの仕事は初訳を読みながらの調整。英文と突き合わせながら,日本語の表記のチェックと,訳語の統一,文体の調整,などが主な仕事。

英文に忠実に訳をつけると日本語がおかしくなる。英文からいかに離れて,独立した日本語にするか。これは意外に困難を伴う作業なのである。ドイツ語の場合は,原文が英文よりももっともっと長いので,これを日本語らしくするには,できるだけ短い文章に区切っていくしかない。今回もまた同様に,長文になってしまっている翻訳文を,二つの文章に区切って,日本語として読みやすくしたり,日本語として広く流通している訳語に置き換えたり,テクニカルな訳語の統一を計ったり,といろいろとある。

しかし,監訳者としてのもっとも重要な仕事は,これまでのスポーツ史研究の成果に照らし合わせて,訳文に大きな齟齬が生じていないかどうか,という点をチェックすることにある。たとえば,古代ギリシアのボクシング(本文では,月嶋氏の強い要望もあって,近代以前は「拳闘」という訳語で統一してある)の記述に関していえば,ホメーロスの英雄叙事詩『オデュッセイア』や『イリアス』をどのように読解するかによって,翻訳の文章(一つひとつの用語や文脈)は微妙に違ってくる。それどころか,古代ギリシアという時代背景を理解していないと,わけのわからない訳文になってしまうことが起きる。そういうところをチェックするのが,監訳者としてのわたしの役割。

本文だけで,570ページに達する分厚い本だ。翻訳をお二人に分担してもらったとはいえ,これは大変な負担だっただろうなぁ,としみじみ思う。お二人とも,それぞれにやるべき仕事を山ほど抱えている。そこに割り込んでの仕事の「押しつけ」である。さぞや迷惑をかけたことと思う。

初校ゲラがでてからの校正作業も大変だった。なにせ,分量が多い。そんなに簡単には終らない。来る日も来る日も,寸暇を惜しんで,連日,ゲラとにらめっこである。息の長い,根気のいる仕事である。集中力と持続力の勝負。

さて,内容の方であるが,これは文句なく面白いので,ぜひ,手にとってご覧いただきたい。古代ギリシアの拳闘から,こんにちのボクシングまで,文化史の視点から説き起こした力作である。

その手法について,若干,述べておくことにしよう。
まずは,いかにも英文学者らしく,イギリス近代の文学作品を徹底的に渉猟して,そこに描かれているボクシング・シーンをとりだす。そこに,同時代のボクシングに関する図像資料を持ち込む。その両者を突き合わせて,その時代のボクシングとはいかなるものだったのか,と思考と分析を重ねていく。

この手法は,わたしがかねてから提案しているように,「文学」と「絵画」を車の両輪にして,スポーツ文化を洗い直そうというものと同じである。この手法を用いることによって,これまでみえていなかった近代スポーツの,もう一つの側面が浮かび上がってくる。わたしがやりたくて,やれないままでいでいた手法を用いて,ボクシングでそれが行われたという次第だ。手の内がわかっているだけに,わたしには,きわめて刺激的な作品となっている。

とりわけ圧巻なのは,著者の専門の一つである「メディア論」を取り込んで,20世紀以後のボクシングの変化・変容の過程を,綿密に探求したくだりであろう。19世紀末に絵画にとって代わって写真が登場し,さらに,ラジオが普及し,映画の時代に入る。すると,ボクシングは爆発的な人気を呼び,一気にボクシングが人びとの身近な存在となっていく。その仕上げをしたのがテレビである。モハメド・アリやマイク・タイソンといった超スターは,こうした背景から生まれてくる。そのことを,きわめて納得のいく方法で明らかにしてくれる。

ボクシングとはなにか。それぞれの時代や社会を生きる人間にとって,ボクシングとはなにか。著者カシア・ボディの問題意識の底流には,いつも,この問いが流れているように思う。いったい,人間は,なぜ,拳で殴りあう身体技法を,わざわざスポーツとして温存させようとしたのであろうか。そして,なぜ,こんな荒っぽいスポーツにこれほどの人気があるのか。このことの詳細については,監訳者あとがきに書いておいたので,そちらを参照していただきたい。

でも,長い間,このブログを読んでくださっている読者にとっては想定内のことだ。結論だけを述べておこう。ボクシングとは,人間の内なる野生への「回帰願望」の表出である,と考えている。だから,ボクシングの文化史を考えるということは,とりもなおさず,人間とはなにか,という問いの答えを導き出す営みと同じである。

そんな眼で,本書を手にとっていただけることを,お二人の訳者ともども,こころから願っている。
珍しいボクシングに関する図版がいっぱいあって,ページをめくるだけでも楽しい本である。乞う,ご期待!

2011年11月9日水曜日

追悼・鳴戸親方(元横綱隆の里)。糖尿病との闘い,よく頑張った。

鳴戸親方(元横綱隆の里)が急死した。急性呼吸不全。59歳。

世間では,早すぎる死を悼む声が多い。しかし,わたしはそうは思わない。力士時代から苦しめられつづけた糖尿病との長い長い闘いに打ち勝ち,よくぞ,ここまで頑張って生き延びてこられたものだと思っている。その意志の強さ,信念の人,高谷俊英(たかや・としひで:本名)その人に,こころからの敬意を表したい。そして,安らかに眠ってください,と祈りたい。長い,長い糖尿病との闘いの生活から解放されて,浄土でゆっくり休んでください,と。

別名「おしん横綱」。「ポパイ」。元横綱千代の富士の「天敵」。「経済学博士」。「糖尿病博士」。「画伯」。どれだけたくさんの冠をつけられて「隆の里」は愛されていたことだろう。

現役時代の力士・隆の里は,糖尿病が治まると好成績を収めて番付を一気に上げてくるが,ひとたび,病いに襲われると,またまた,番付を駆け落ちていく。そんなことを長い間,くり返した。だから,「エレベーター力士」とも言われた。糖尿病さえなんとか克服できれば,とかれは必死だった。だから,かれにとっては,糖尿病の治療薬・インスリンという注射はなくてはならない必需品であった。医者の指導のもとに,薬と注射器を持ち歩き,自分で体調とにらめっこしながら,注射を打ちつづけてきた。

そのため,かれは,医学書を読み漁ったという。そして,自分の病気がなにが原因で,どういう理由で,どういう構造で発症したり,治まったりするのかを徹底的に勉強し,担当の医者に,ほとんど玄人はだしの質問をぶっつけたという。力士生命をかけた勉強なのだ。ただの読書とはまったくレベルが違う。人間,必死になると,ふだんとはまるで違う,驚くべき能力を発揮する。こうして,隆の里は「糖尿病博士」となった。食事療法にも熱心に取組み,栄養学にも通暁していた,という。まさに,努力の人だったのである。

68年に名古屋場所で初土俵。何年も番付を上下しながら,少しずつ地位を上げ,83年名古屋場所後に第59代横綱に昇進。じつに,15年の歳月を要して,最高位にだどりついた。病気との闘いに耐えて,よくぞ横綱になったという意味をこめて「おしん横綱」とも呼ばれた。鍛えぬかれた,筋肉もりもりのからだを揺さぶりながら土俵の上を歩く姿から「ポパイ」の愛称ももらった。

わたしは隆の里の力相撲が好きだった。しかし,千代の富士の速攻はもっと好きだった。だから,この二人が千秋楽で対戦するときは,呼吸が止まったままだった。結着がつくまで,わたしは呼吸をすることができなかったのだ。それほどまでに忘我没入,夢中になってテレビに食らいついていた。しかし,千代の富士は,隆の里に負けることの方が多かった。結果的には,16勝12敗で,隆の里が勝ち越した。千代の富士はよほど悔しかったのだろう。負けるたびに,隆の里のことを「天敵」と呼んだ。

隆の里が右四つに組止めるか,千代の富士が左前みつをひいて右をはずにあてがうことができるか,ここが勝負の分かれ目だった。しかし,隆の里は,しばしば千代の富士の左前みつ狙いを内側からはねのけるようにして,得意の右を差し,がっぷり右四つに組み止めた。これで勝負ありだ。しかし,そうはさせじと千代の富士もまた意地をみせ,一歩踏み込んで,素早く左前みつを引いて一気に寄ってでた。

隆の里は,相撲人生に不満はないが,じつは,大学に進学したかった,と引退後に述懐している。読書好きで,手当たり次第に本を読んだという。そのうちに,経済学に興味をもち,膨大な経済学に関する専門書を買い集め,せっせと勉強していたという。経済学部を卒業したという駆け出しの新聞記者に出会うと,経済学についての教えを乞うたという。しかし,みんな隆の里の知識の量に圧倒された,という話も有名である。仲良くなった記者は,隆の里の部屋まで連れていかれ,その蔵書をみて唖然とした,という。

糖尿病という病魔と闘いながら,まじめに人生を考え,相撲しか知らない「相撲バカ」になることを恥じた。だから,時間を惜しむようにして,さまざまな分野の本を読んだ。そして,とにかく人間として生きる道を求めた。わたしは,このことを知って涙したことがある。さらには,絵画の才能にもめぐまれ,しばしば絵筆もとった。なかなか風情のある横綱だったのである。土俵上で,ときおり,ちらりとみせる,どこか恥じらいにも似た挙措が,わたしのこころをとりこにした。ポパイのような筋肉もりもりの肉体とは裏腹に,とても繊細なものを感じたからだ。

元横綱・初代若乃花の二子山親方に見出され,のちの横綱となる二代目若乃花(大関までは若三杉・現間垣親方)と一緒に青森から夜行列車に乗って上京し,二子山部屋に入門。そこで,「土俵の鬼」と呼ばれた二子山親方から徹底的に鍛えられた。疲労困憊して,気力が萎えてくると,ただちに竹刀で叩かれるのが日常茶飯事であった。その猛稽古に耐えて,二人は横綱になった。若三杉が,比較的順調に出世したのにくらべ,隆の里は糖尿病のためにつねに遅れをとった。しかし,辛抱を重ね,ひたすら努力した。横綱になるのも5年遅れた。

この二人の横綱は,二子山親方をこころの底から尊敬していた。だから,弟子の養成にも,二子山親方の方法をそのまま継承した。しかし,時代は,もはや,そのような猛稽古を「暴力」としか受け止めなくなっていた。メディアもまた,しっかりとした取材もしないで,逃げ出した弟子の言い分をそのまま丸飲みして,報道する。世間では,相撲部屋は「暴力」の巣窟であるかのように誤解して受け止める。そうではないのだ,ということを強調しておきたい。

「土俵の鬼」と言われた初代若乃花(二子山親方)ですら,幕内上位にあがってからもなお,花籠親方の稽古が厳しくて,何回も夜逃げをしている。当時,大関だった力道山とも一緒に夜逃げした話は有名だ。それでも,最終的には,花籠親方をこころの底から尊敬していた。間垣親方も,鳴戸親方も,二子山親方を「おやじ」と呼んで,おやじの思い出話をするのが大好きだったという。その話の一端を,白鵬は聞いている。「あのつづきの話が聞きたかった」と通夜の日の談話のなかにあるとおりである。

鳴戸親方の,最近の写真をみると,現役時代よりも太っている。むしろ,むくみがきていて,人相もまるで別人のようにみえる。わたしは,インターネットをとおして,何種類かの顔写真を見比べてみた。どうみても限界一杯いっぱいの顔にみえる。インスリン注射を打ちつづけてきて,もはや,ぎりぎりのところにきていたに違いない。本人は,間違いなく自覚していたはずだ。だから,前日まで,土俵場の稽古に立ち合って,稀勢の里の指導にあたっている。なんとしても,大関にしてやろうという,最後の執念さえ感じ取れる。

だから,大往生なのだ。こういう死に方がある,というお手本のようなものだ。立派なものだ。わたしは,ここでも,こころからの敬意を表したい。

稽古が辛くて逃げ出した弟子に告ぐ。一刻も早く,「わたしが受けたのは『暴力』ではなくて,親方の『愛のむち』だった」と気づいてほしい。そうでないと鳴戸親方の霊も浮かばれない。

もっとも,鳴戸親方は,にっこり笑って,「もう,いいんだよ」と言うかもしれない。古き,良き時代のお相撲さんが,一人ずつ消えていく。大相撲の世界は,いま,大きく様変わりしつつある。そして,その根幹の部分が腐りつつある。たんなる「暴力」と「愛のむち」との区別も理解できない弟子たちと,そして,同世代のジャーナリストたちによって。そこに,「世間」が便乗することによって。

こんご,二度と「おしん横綱」と呼ばれるような力士が誕生することはないだろう。なにか,そこはかとない寂寥感がわたしのこころを襲う。

鳴戸親方。長い間,ご苦労さまでした。あなたの人生そのものが,どれほど充実した時間の連続であったことか,わたしは固く信じて疑いません。どうか,心置きなく,安らかにお休みください。合掌。

2011年11月8日火曜日

『東京新聞』にとうとうミスター「X」から圧力?

『東京新聞』購読者の家を訪問して,別の新聞に変えろ,とプレッシャーをかけてまわっている「新聞セールス」が現れたらしい。いったい,だれが,なんのために,こういう「セールスマン」を雇って,『東京新聞』に対する嫌がらせをしなくてはならないのか。妙なことが起きている。その雇い主たるミスター「X」はいったい,だれなのか。なんとなくわかるような気もするのですが・・・・。そう,たぶん,その人に違いない,とわたしも思います。でも,それは「禁句」です。

今朝の新聞の折り込みのなかに,「東京新聞ご愛読のみなさま 気をつけて!」と書かれたB4サイズのちらしが入っていた。「悪質な新聞セールスに【ご注意】ください」とあり,わかりやすい絵入りの説明がしてある。

1.「東京です!」「宅急便です!」「新聞販売店のものですが!」と言って「ピンポン」を鳴らす。
2.「東京の購読契約の延長をぜひお願いします」と言って東京新聞以外の契約書にハンコを押させてしまう。
3.「この地区の東京新聞の担当者と新聞を変える話がついているんです」などと偽りを言う。
4.「お宅の知人の〇〇さんに頼まれてきました」といって話を進め,他の新聞に強引に契約させる。
5.長時間ねばったり,なれなれしく迫ったりして契約をせまる。
6.「近くに新しい販売店ができました。ですから・・・」と言って他の新聞契約をさせられる。
7.心理的恐怖を与えたり,強圧的に購読変更を迫ったりする。
8.断わると,「バカヤロー」と怒鳴ったりする。

とまあ,ほんとうにこんなことがあるのかと思われるようなケースについて説明し,「最悪の場合には110番通報してください」とある。

いやはや,だれが,いったい,こんなことを仕掛けているのか。ミスター「X」が,とても気になるところです。わたしの実感としては,いよいよ,こういうことになってきたか,というものがあって,なんとなくわかってしまうところがあり,これまた恐ろしいことだと震えています。

いま,新聞各社の読者が激減しているという情報は,かなり前から流れていました。とくに,若者たちは新聞よりも,インターネット情報で,もっと早く,つまり,リアルタイムでニュースを追っています。新聞のニュースは,若者にしてみれば「一日遅れ」の情報でしかありません。ですから,新聞各社がこれから先のことを考えると絶望的になるのも無理からぬ話ではあります。

そんな中で,『東京新聞』だけは売り上げを伸ばしている,というのです。もっとも,わたし自身も『朝日』から『東京』に乗り換えて(このことはこのブログでも書きました),さらに,『東京新聞』は素晴らしいと宣伝までこれ務めている次第です。

その理由はたった一つ。「脱原発」宣言をどの新聞社よりも早くして,以後,終始一貫して「脱原発」キャンペーンを打ち,それを裏づける記事を書きつづけているからです。この姿勢に多くの人が共鳴し,賛同して,購読者が増えつづけているのだと思います。ただ,それだけです。

なのに,なぜ,『東京新聞』の購読者に,上記のような嫌がらせ(としか言いようがない)を仕掛けなくてはならない,ミスター「X」が登場することになるのか,わたしにはまったく不可解です。ですから,細かな推論をしていくと,ますますおかしなことになってしまいそうです。が,大きな視点に立てば,とても,簡単な話になります。

つまり,「原発推進」の立場に立つ人たちの中の「急進派」と呼ばれる人たちが,このミスター「X」であることは間違いありません。では,その「急進派」とは,だれか。これを特定することは,いまの段階では,やらない方がいいでしょう。でも,なんとなくわかる,ここがポイントです。それで,ほとんど「正解」だろう,とわたしは思っています。

問題は,いよいよ,「原発推進派」がこういう卑劣な行動にでてきたのか,という点にあります。堂々と,「原発推進」のデモを繰り広げて,公衆の面前で,なにゆえに原発が必要なのか,を訴えればいいのに,それをしようとはしません。だから,こういう卑劣な手段・方法に訴えてくるわけです。こんなことをすれば,ますます逆効果だと,わたしなどは思うのですが・・・・。

政界・財界・官僚・学界・報道が「五位一体」となって「原発推進」を展開しようとしているのに,国民の「8割」が「脱原発」だという。このギャップの大きさに,さすがの「権力」も焦りを感じはじめているのでしょう。これではどうにもならない,と。東電のばらまいた「お金」の威力も,そろそろ限界に達しつつあるように思います。その「お金」を受け取った「地域住民」の人たちからも,もうお金は要らない,という声がではじめています。当然です。お金で「命」を買うことはできません。

加えて,原発被災者たちに対応する東電の姿勢は,もはや言語道断です。自分たちに罪の意識がまるで欠けています。仕方がないから,お金を「支給」します,という姿勢です。とんでもない。本来なら,火事の類焼に巻き込まれた人びとの一軒,一軒を回って「お見舞い」をし,とりあえず,「これだけを」といって暫定の保障金を渡して歩くのが,日本社会のマナーというものでしょう。それを「申請書」を出せ,という。何様なのだろうか,とわが眼を疑います。

あっ,いけない。とんでもない方向に話が脱線してしまいました。

まあ,これで,ミスター「X」がどの方面の人であるかは,お分かりいただけたのではないか,と思います。困ったものです。どこまでつづく泥濘(ぬかるみ)ぞ,と思います。でも,あきらめた方が負けです。ここは「命」と引き換えに頑張らなくてはなりません。

自分自身にもそう言い聞かせつつ。



「一道清浄妙蓮不染」の境地・考

「一道清浄妙蓮不染」(いちどうしょうじょうみょうれんふぜん)ということばに出会って,突然,わたしの頭のなかはフル回転をはじめた。いささか私事にわたることなので気恥ずかしいが,長年にわたってわたしのなかでもやもやしていたものが一挙に瓦解した,その喜びの感情を抑えることはできないので,そのまま書き表すことにする。

「一道清浄妙蓮不染」。このことばと出会ったのは昨夜のことである。それは,金岡秀友校注の『般若心経』(講談社学術文庫)のP.121.にある。その瞬間,わたしの眼は「点」になってしまって,そこから動こうともしない。そして,二度も三度も,いやいやもっともっと何回も,口のなかてくり返し「いちどうしょうじょうみょうれんふぜん」と唱えていた。

じつは,わたしの大伯父の名前が「一道」(いつどう)。禅寺(曹洞宗)の和尚。わたしが小さな子どものころから畏敬の念をもって仰ぎみていた人である。その一道和尚にわたしは可愛がられていた。なぜか,そういうものを子どもごころにも感じていた。わたしの成長とともに,大伯父の気持はもっとストレートに伝わるようになった。もちろん,口に出して,そういうことを語る人ではなかった。しかし,そのまなざしには,明らかに温かいものが感じられた。

ふいに尋ねていくと,「おー,来たか」。それだけである。あとは,にこにこと笑いながら「ぼそり,ぼそり」と問いを発する。それに必死になって答えると「おー,そうか」で終わり。でも,とても居心地がいいのである。なにか,とても大事なものを「面授」されているような気分だった。晩年は,わたしが尋ねると,すぐにお酒を出してくれた。昼間から。コップに一杯の冷や酒を,一道和尚は美味しそうに,舐めるように飲んでいる。そして,すぐに赤くなる。

この一道和尚の背後の床の間にかかっていた掛け軸が「平常心是道」(びょうじょうしんこれみち)。いわゆる書家の字ではないが,飄々とした,とても味わいのある字だった。わたしは尋ねるたびに,じっと,この掛け軸に眼を凝らしたものだ。「平常心」というものが,どういうものであるかは,わたしの加齢とともに理解が深まっていった。そのたびに,感動した。こちらの理解の深まりによって,その掛け軸が訴えてくる力が強くなってくるのである。

いつか,「一道」と「平常心是道」が二重写しになってみえるようになった。そうか,大伯父は「平常心」をただひたすら歩みつづけた人なのだ,と合点した。いつでも泰然自若として,少々のことでは驚かない,胆力のある人だった。すごい人だ,とこころの内で,そう思っていた。

この人の最後がまたすごい。いつもと同じように,朝御飯を食べて,奥さんが裏の畑にでて帰ってきたら,ひとりで布団の中に入って「大往生」していた,というのである。

そういえば,最晩年にお会いすると,「まんだぁ お迎えが こんでなぁ こうやって 生きとるだぁやれ」と笑った。まるで,童心にかえったかのような,その笑顔が忘れられない。

しかし,一道和尚の名前の由来は,「一道清浄妙蓮不染」にあるのではないか,とわたしは直観したのである。一道和尚の幼名は「八郎」。たしか,「一道」の名前は,先代の仙鳳和尚がつけたと聞いている。わたしの祖父にあたるこの仙鳳和尚が,また,つかみどころのない人で,空気のような存在の人だった。いるのか,いないのか,その存在があいまいな人だった。しかし,時折,じろりとこちらをみやる眼は,ただものではなかった。恐ろしかった。そのたびに,わたしは逃げ出したことを記憶している。

が,この仙鳳和尚も,若いころは相当にできのいい学僧として,その地方では名をなしていたそうな。その先代が「一道」と名づけたというのだ。とすれば,この「一道清浄妙蓮不染」ということばを知っていて,ここからとったに違いない,とわたしは直観したのだ。

このことばは,金岡秀友の校注によれば,弘法大師の記述のなかにあるという。その意味は「仏の大道が清浄なることは,あたかも白蓮が泥の中より咲き出て,いささかも泥に染まらぬようなものである。凡夫の智もその実において仏の智と連なることもこれと同じである」と解説している。すなわち,「主・客の対立を脱した妙境」のことだ,と。

となると,「一道」とは,仏の歩む「大道」そのものであって,自他の区別もなく,「主・客の対立」もない,まことに「清浄」なる境地そのものを意味することになる。

と,ここまで考えてくると,この大伯父に連なる人びとの名前が気になってくる。たづ(田鶴),戒心,たえ(妙),つた(蔦)・・・・これらの名前は,みんな,先代の仙鳳和尚がつけたものだ。だから,そこにはかならずなにかのメッセージが織り込まれているはずだ。この問題はまたいつか,考えてみることにしよう。

そして,いま,また,ふと脳裏に浮かんできたのは,寺の本堂の御本尊さまの裏側の,一番奥まったところに歴代住職の霊を祀った部屋がある。その入り口にかかっている扁額の書は,一道和尚が書いたもので,そこには「無二亦無三」とある。元気のいいころに書いたもので,勢いのある気迫の籠もったすばらしい達筆そのものである。ご本人は「勢いがありすぎる」と述懐された,と聞いているが・・・・。

このことばは,金岡秀友の校注によれば,つぎのようである。『法華経』で「十方仏土中・唯有一乗法・無二亦無三」(諸方の仏国土の中で,実在するのは,ただ一乗の法華の真実であり,声聞・縁覚の二乗も,それに菩薩を加えた三乗の区別もない)と説いていることと,「一道清浄妙蓮不染」は同じ趣旨のことを言っている,と。

これで,すべてが完結。「一道」「一道清浄妙蓮不染」「無二亦無三」は,まさに,一本道なのである。ああ,長年にわたる喉のつかえがとれて,すっきり。わたしの大好きだった大伯父,一道和尚の棲む「清浄妙蓮不染」の世界に一歩でも,近づくことができただろうか。合掌。

2011年11月7日月曜日

TPPはアメリカン・スタンダードの環太平洋ヴァージョンの押しつけ以外のなにものでもない。

今日の新聞によると,TPP問題は,9日にも政府決定をするらしい。そして,これまでの野田どじょう君の言動からすれば,強行突破をはかるらしい。由々(忌忌)しき問題だ。

TPPの細部がわからないとか,大いなる誤解があるとか,もっと議論を深めるべきだとか,メディアも評論家もずいぶん無責任なことを言っている。そんなことは多少どちらでもいい。問題の核心は,アメリカン・スタンダードを環太平洋にまで拡大しよう,というただそれだけのことだ。アメリカン・スタンダードとは,フリードマンのいう自由化だ。要するに,関税を撤廃して市場原理に委ねようという新自由主義の考え方を受け入れるかどうか,というその一点にある。小泉君のやった郵政民営化がその見本だ。

アメリカの政府高官が,テレビをとおして,まことに堂々と「アメリカン・スタンダードを広めることだ」と発言しているとおりである。こまかな議論は要らない。アメリカが,アフガニスタンでやったことも,イラクでやったことも,みんな「アメリカン・スタンダード」の押し売りだった。が,いずれも失敗して,その後始末に困り果てているのが現状ではないか。アメリカの不景気はここに端を発している,という評論家もいる。

新聞報道によれば,あるTPP反対集会で,壇上に立った宮台真司さんが「はじめはTPPに賛成であったが,反対にまわることにした」と発言したという。呆気にとられてものも言えない,とはこのことか。いまでは高名な社会学者としての地位を確立した,この人が,TPPに賛成であった,とは。かつては,援助交際の研究者としてデビューし,その道の第一人者として認知された人だ。でも,よく考えてみれば,援助交際のフィールド・ワークとは,いったい,どういうことなのだろうかと勘繰りたくもなる。参与観察なのか,参加観察なのか,と毒づいた人もいた。

何回も書くが,ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義の正体を暴く)』(岩波書店)の「序章」を読むだけで,フリードマンという「シカゴ学派」の経済学者がなにを仕掛けてきたのか,ということが手にとるようにわかる。

要するに,「経済」の活性化を隠れ蓑にして,アメリカン・スタンダードを世界に浸透させようという「企み」が,長年にわたって,意図的・計画的に進められてきた,とナオミ・クラインは警鐘を鳴らす。そして,それを実証するための「事実」を,じつに丹念に腑分けしながら,わたしたちの前に提示してみせてくれている。

これからの日本の行く末を見届けるためにも,この本は必読である。

なぜ,わたしのような者が,TPPにこだわるのか。
つまり,アメリカン・スタンダードによる「世界支配」にこだわるのか。

それには,深い深いわけがある。詳しくは,いつか,連載のようにして書いてみるつもりであるが,簡単に言っておけば,以下のとおりである。

意外に思われる人も多いかと思うが,じつは,オリンピック・ムーブメントは,ヨーロッピアン・スタンダードによる「世界支配」という野望をともなった「平和」運動だったのだ。その背景には,もちろん,一神教による「世界支配」が潜んでいる。だから,世界が一つの信仰のもとに結束すれば,「平和」になる,というのである。

スポーツというオブラートにつつんで,ルールもマナーも,そして,組織も制度も,みんなセットにして「近代ヨーロッパ」のスタンダードを織り込んで,世界に輸出すること。この方法論は,いみじくも「経済」を隠れ蓑にして,しかも,「自由」と「民主主義」をセットにしてアメリカン・スタンダードを世界に浸透させようというフリードマンの戦略とまったく同じだ。

しかし,「自由」も「民主主義」もみんな「強者」のためのものであって,「弱者」の救済にはなんの役にも立たないということも,ここにきて露呈してしまった。このことは,オリンピックを筆頭にワールドカップもふくめた,いわゆる近代スポーツ競技にも,そっくりそのまま当てはまる。つまり,近代スポーツ競技は,すべて「強者」の論理の上に成り立っているのであって,「弱者」を切り捨てるシステムでしかない。しかも,その「弱者」切り捨てを合理化するための文化装置としても,きわめて大きな役割をはたしてきたし,いまも,立派に機能しているのである。「自由競争の原理」,「優勝劣敗主義」,「勝利至上主義」,「平等主義」(みせかけの),等々。これらの考え方はみんな「資本主義経済」のスポーツ・ヴァージョンにすぎない。

近代スポーツがいかに奇形化してしまったか(ドーピング問題もふくめて),という点については『近代スポーツのミッションは終わったか』(今福龍太,西谷修の両氏との共著,平凡社)を参照していただきたい。近代スポーツが,いまや,とんでもない地平に立たされているということも,この本のなかで,かなり深いところまで論じてある。

近代スポーツは,ことわるまでもなく「弱肉強食」そのものだ。TPPも,そっくりそのまま「弱肉強食」なのだ。両方とも,スポーツというオブラートにつつまれたり,経済という隠れ蓑のもとに身を寄せているだけのことだ。

日本という国家が食べられてしまってもいい,それだけの覚悟がおありなら,どうぞ,「どじょう」君,身を挺してわれらを「生贄」に捧げてみればいい。生贄とは供犠であり,供犠は一種の「贈与」だ。贈与は,英語では gift だ。この gift には「毒」という意味もあることをお忘れなく。


2011年11月6日日曜日

カダフィ大佐の「死」。その虚と実。真犯人はだれか?すべては「藪の中」。

しばらく前に,カダフィ独裁政治を擁護する外国の女性ジャーナリストのコラムを読んで,びっくりしたことがある。彼女の言うには,仕事がらみで,かなり長い間,リビアで生活していたが,とても住みやすいいい国だった,というのである。周囲の人びともみんな満足して,平和な暮しをしていた,という。だから,なにゆえに,こういう事態になったのか不可解である,と。ただ,独裁が悪いということだけで,こういうことになったとはとても思えない,とも。つまり,なにか裏がある,ということを暗示するかのように・・・・。

そのあと,また,しばらくして, You Tube のカダフィ大佐関連の映像を拾いながら眺めたことがある。殺害現場の生々しい映像(カダフィ大佐が頭から血をながし,顔の左半分が真っ赤になっている。その血を,カダフィ大佐が自分の手で拭って,血であることを確かめている映像から,自動車のボンネットの上に坐らされて,暴力を受け顔をゆがめ,涙を流している顔も,そして,死体置き場に横たわった,上半身裸のままのものまであって,途中でみるのを止めたほどである)を追っていて,その関連の映像をクリックしたら,ものすごく激した演説をぶっているスーツにネクタイをした元気のいい紳士が現れた。

そして,この映像の紳士(どういう人物かは確認できていないが,いまでも映像をみることはできる。すでに,かなり編集されているが・・・。たぶん,カダフィ派の高官ではないかと思うのだが・・・)が言うには,カダフィ大佐はEUの手で殺されたのだという。そして,その演説がまことに理路整然としているので,これまたびっくりである。その彼の演説のすべてをここに紹介することは無理なので,その骨子だけを紹介すると以下のとおりである。

EUには,カダフィ大佐を殺さなくてはならない理由が三つあった,という。
一つは,アフリカ独自の通信衛星をもつという計画。現在は,毎年,5000億円の金をIMFに支払って,通信衛星の利用をさせてもらっている。しかし,4000億円を用意すれば,自分たちの(アフリカ連合)の通信衛星をもつことができる。そのうち,3000億円をカダフィ大佐が出す,と2007年に約束して,その準備が着々と進んでいた。これが実現すると,IMF(つまりは,EU)に毎年入る5000億円の儲けがなくなってしまう。
二つめは,アフリカ独自のAMFをつくって,IMFの支配下から脱出しようという計画である。これもカダフィ大佐が巨額の資金を提供することを,すでに,2006年に約束していた,という。これと連動して「中央アフリカ銀行」と「投資銀行」をつくり,アフリカが一つになって団結しよう,という計画がすぐそこまできていたというのである。そうなれば,アフリカ諸国は,EUの,そして,IMFの傘下から脱出して,自分たちの意志で,自分たちの利益のために金を動かすことができる,というわけである。
三つめは,アフリカ独自の通貨をつくろう,という計画。もう,意図は歴然としているように,ユーロに対抗するアフリカ全域で通用する新通貨の創設である。そうして,完全にEUの支配下から脱出して,アフリカ独自の経済システムを構築しようというのである。これもまた,カダフィ大佐の莫大な資財をなげうって,計画を進めていたというのである。そして,すでに,アフリカ諸国の同意もとりつけて,いよいよ動きはじめようという時期だった,という。

このことに気づいたEUが黙っているわけがない,とくだんの紳士がぶち上げる。そして,EUはすでに没落していて,頼るはアフリカ諸国からの「儲け」以外になかったのだ,という。だから,なにがなんでも,その主役を演じているカダフィ大佐を「悪者」に仕立て上げて,これを「亡き者」にしなければならなかったのだ,と断言する。

しかも,この映像は,だれが編集をしたのかもわからないが,リビアはとてもいい国であったということを16箇条にわたってテロップを流している。その中には,リビアは,電気代は無料,教育費・医療費も無料,借金をしても金利はゼロ,石油1リットル10円,赤ん坊が生まれると50万円支給,・・・・とあって,最後には,石油の売り上げ利益の一部を国民一人ひとりの預金通帳に振り込んでいた,などといったことが羅列してある。

もし,これがほんとうだったとしたら,なにゆえに,あのような暴動が起きたのか,そして,それが成功してしまうのか。この裏にはなにかが隠されている・・・のでは,とわたしは勘繰ってしまう。ひょっとしたら,これは,アメリカの得意の手ではないか,と。アフガンも,イラクも,用いた「手」は違うものの,そのやり口は同じだ。それと同じ「手」を,こんどはEU主導で(もちろん,裏にはアメリカがいる)打ったのではないか,と。考えてみると,NATO軍が,とても不思議な軍事行動を起こしていたことが思い起こされる。攻撃するのかしないのか,民衆の動きを見届けながら,微妙な動きをしていたように思う。やるなら,一気にやってしまえばいいのに・・・・。ところが,最後のとどめは民衆の手に委ねた。そして,いかにも,リビア国民の意志で,この暴動が起きたのだと「演出」したかったのでは・・・,と。

こんどのギリシアの金融危機の救済措置をめぐるEUの対応をみていて,どうして,こんなにまでヒステリックになるのか,と思っていた。ギリシアの「国民投票」まで許さぬ,というのである。ここで,ギリシア国民が「EU脱退」を選択したら,EUの牙城の一角が崩れ落ちることになる。そのあとは,スペイン,イタリア,といった国々が危ない。あるいは,フランスもドイツも危ないのかもしれない。となると,なにがあってもギリシアはEU主導で,その救済策に従わせなくてはならなくなってくる。もう,そういうEUの経済危機は,かなり前から予測されたものだったはずだ。だから,急遽,4首脳が集まって(なぜか,ここにオバマ君がいる),ギリシアにプレッシャーをかける必要があったのだろう。

そういう予兆が早くからあったがゆえに,ヨーロッパの「ドル箱」だったアフリカ諸国が,「アフリカ連合」を立ち上げてEUの傘下から自立してしまうことを,なにがなんでも回避しなければならなかった。だからこそ,リビアの民衆暴動を起こさせ,カダフィ大佐の独裁をターゲットにして攻撃を仕掛ける・・・・。ありそうなことではないか。そうして,ふたたびアフリカ諸国をEU傘下に統治することの正当性を主張していく。

それがまんまと成功してしまった。が,このあとが大変だなぁ,とわたしはみている。もし,この仮説が当たっているとしたら,リビアの新政権は安定どころか,あちこちから「テロ攻撃」の対象となるに違いない。つまり,カダフィ大佐が「善政」を行っていたとしたら(さきの演説者や女性ジャーナリストの言うように),相当に多くの「親カダフィ派」が生き残っているはずだから。

それにつけても,ここで想起されるのはナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』だ。この本のサブ・タイトルにもなっている「惨事便乗型資本主義の正体」が,いま,わたしたちの,いや,世界中の人びとの目の前で,その姿を剥き出しにして,一大スペクタクルを演じつつある,ということだ。このどさくさまぎれに,なにを「正義」として立ち上げ,新たな支配の論理を構築していくのか,わたしたちはしかと見届けておく必要がある。

しかも,これは対岸の火事ではない。日本はいま,大災害と原発という,前代未聞の「大惨事」に直面しているのだ。ここで,またぞろ,「ショック・ドクトリン」を地でいくドラマが展開しつつあるのだ。国民の多くが,ショックでまともな判断ができなくなってしまって,思考が停止している間に,原発推進,TPPへの参入,増税,等々,なんでもやってしまえとばかりに「どじょう」君が,外国にでて急に元気がでてきてしまった。

ああ,今日のブログがエンドレスになってしまった。

断わっておくが,さきの,カダフィ大佐の話はどこまでもわたしの勝手な推測である。真実は「藪の中」。神のみぞ知る。でも,そのうち,やがて真実は明らかになる。時間の問題だ。しかし,その時間の間に「惨事便乗型資本主義」を信奉する連中が暗躍する。

アメリカが危ないと思っていたら,ヨーロッパも危ない。日本はもっと危ない。なにか,世界が音を立てて崩れ落ちていく予兆のように思えて,またまた,憂鬱になってしまう。わたしの救いの神は『般若心経』。ギャーテー,ギャーテー,ハラソーギャテー,ボジソワカ,ハンニャシンギョウ。真言もまた「藪の中」。


2011年11月5日土曜日

福井・永平寺で「脱原発シンポ」を開催。

「3・11」以後,多くの僧侶たちが,とくに若い僧侶たちが,ひとりの人間として災害復興や脱原発に立ち上がって活動していることは,すでに多くのメディアが紹介しているとおりである。それらの報道に触れるにつけ,わたしは密かに日本の仏教は捨てたものではない,と感じていた。

こういうときにこそ,仏教は宗派を超えて,住民の側に立つ,つまりは檀徒衆の側に立ち,そして寄り添うようにして,僧侶たちが支援活動を展開する・・・,これは長年の仏教の伝統でもあるのだ。仏教は,基本的には,つねに弱者の側に立つ。弱者救済がその根底にある。空海にしても,日蓮や親鸞や道元にしても,都(みやこ)とは距離をおき,仏教のあるべき姿を追究した。そして,いかにして貧窮者たちを救済するか,ということに意を注いだ。

そのことが,たまたま,今回の「3・11」を契機にして復活したのだろう,とわたしは思う。まだまだ,伝統の精神は生きていた,と言っていいだろう。あるいは,平和惚けしていた僧侶たちが,こういう危機をとおして,ようやく目覚めたというべきか。

しかし,個々の僧侶たちの頑張りにくらべると,仏教の各宗派団体の足どりは重い。どの団体も旗幟を鮮明にすることを避けているかにみえる。

しかし,福井の永平寺が立ち上がった。道元禅師を開祖とする曹洞宗の総本山である。

東京新聞(11月3日・朝刊)の「こちら特報部」が大きく取り上げた。
シンポジウムのテーマは「いのちを慈しむ~原発を選ばないという生き方~」。
福島県飯館村の酪農家長谷川健一さん(58)と,福井県小浜市で40年以上も反原発運動を展開してきた真言宗・明通寺の住職中島哲演さん(69)のお二人が登壇して,それぞれの立場からの主張を展開し,参加した人びとのこころに深く響いた,と報じている。

新聞に躍る見出しは以下のとおり。
福井・永平寺でシンポジウム
仏教界にも広がる「脱」の動き
原発の罪を説く
今の日本「滅公奉私」
会場はピリピリ
生活 見直すとき
僧侶有志が開催,意義大きい

福井県といえば,いわずと知れた原発の国内一の立地県である。おまけに「ふげん」「もんじゅ」までここにあるのは偶然ではないのかも知れない。美浜原発の3基,大飯原発の4基,高浜原発の4基,敦賀原発の2基,計13基がひしめいている。

こうした動きと連動して,全日本仏教会(伝統仏教の各宗派や各都道府県の仏教会などでつくる)は,12月1日に理事会を開催する予定で,その折に,福島原発事故に関する宣言・決議文を採択する方向で調整している,という。いまこそ,日本の仏教界は立ち上がるべきときだ。そして,経済より,なによりも「いのち」の大切さを説くべきときだ。

わたしも曹洞宗の縁故のはしくれにいる人間として,大いに支援していきたいと思っている。

臨済宗では,玄侑宗久さんが,福島県三春町で頑張っていらっしゃることは,みなさんもよくご存じのとおりである。蛇足ながら,玄侑宗久さんのブログがとてもいい。ぜひ,ご覧いただきたい。玄侑さんの,こころの底からの訴えに耳を傾けていただきたい。

いまこそ,日本の行方を決する大事なときだ。原発推進なのか,脱原発なのか,二者択一しかない。ここできちんと国民の意志を表明し,しっかりと舵取りをしておかないと,日本に未来はない。

そういう大転換期に,わたしたちは,いま,立たされている。原発もTPPも,みんな同じ路線だ。国際社会から見放されようと,なんであろうと,国民として納得のいく「生き方」を見据えるときだ。チベットの辺境に住む「ブータン」の人びとの例もある。この国の人びとのGNH(幸せを考えること,幸せ指数)は97%で,世界一だという。食べ物も着るものも不足だらけ。でも,みんな「幸せ」だと感じている,というのだ。貧しいが故に,みんなが助け合って,こころの通い合う幸せを共有している,というのだ。

「ものが豊かになると,こころは貧しくなる」と,かつて,大塚久雄(マックス・ウェーバー研究者,経済史家)は説いた。マックス・ウェーバーといえば,Fachmensch ohne Geist,  Genussmensch ohne
Seele..  という名言が思い出される。20世紀の初頭のヨーロッパの現状を見据えて,このままの文明化が進展していくと,やがて「知的精神のない専門家」と「情緒を欠いた享楽人」ばかりになってしまう,と喝破したのだ。

いま,まさに,わたしたちは,その予言どおりのところに立たされている。
「知的精神のない専門家」とは,だれのことを指しているのか,もはや言うまい。
「情緒を欠いた享楽人」とは,だれのことなのか,これも言うまい。

わたしたちは,みずからの胸に手を当てて,自分自身のこれからの「生き方」をしっかりと見据えていかなくてはならない。みずからへの自戒の念を籠めて。

その意味で,こんごの仏教界の動向に注目したい。

2011年11月4日金曜日

「国民投票」を否定する資格がだれにあるのか。民主主義とはなにか。

一国の意志決定のために「国民投票」をするという。それをやってはならないと「国際社会」(としておこう)がいう。だれが,どのような資格でそんなことが言えるのだろうか。いったい,「国際社会」とはなにか。EUは,ある特定の国家の意志をも決定する権利をもっているというのだろうか。G20とは,いったい,なんなのか。それらは,「国民投票」をも否定する資格があるとでもいうのだろうか。

民主主義とはなにか。

このところ,ずっと,考えつづけていたことだ。国民の意志決定をするための,もっとも直接的で,わかりやすい方法は「国民投票」以外にはない,と信じてきた。ここが民主主義の根幹をなす,と信じてきた。が,どうも,そうではないらしい。

古代ギリシアでは,ポリスごとに直接民主制をしいて,住民の意志決定をしてきた,と学んだ。そして,こんにちの民主主義のモデルとされた,とも。そのギリシアで,国民投票をしようとしたら,それをフランス・ドイツ・イギリスの首脳部にアメリカまでが参入して,「やってはならない」とプレッシャーをかけた,という。これはいったいなんなのか。ギリシアの国民の意志を聞くこともなく,ギリシアの財政危機救済策を「国際社会」が,自分たちの「都合」で決定しようとしている。そして,その提案に「文句をいうな」というのだ。黙ってついて来い,と。

これは,いったい,どういうことなのか。わたしには解せない。

フランスもイギリスもドイツも,そして,アメリカも「民主主義」を標榜する国家ではなかったか。いつから宗旨替えをしたというのか。これは,新たなる「帝国」の出現だ。アントニオ・ネグリの提起した「帝国」が,いよいよ,その姿をみせはじめたようだ。となると,こんどは「マルチチュード」の出番だ。

それと同じことが,いま,日本の国内で起きている。構図はまったく同じだ。九電の玄海再稼働も,地域住民の意志はまったく無視されたまま,政府もそれを認めてしまった。とんでもないことが,国民の目の前で,平気で行われている。それでも選挙は勝てると信じているかのように・・・。

その前に,沖縄の基地移転問題も同じだ。沖縄県民は,こぞって「県外移転」を望み,それを体現する知事を県民の総意として選出した。にもかかわらず,政府は沖縄県民の意志を無視して,ひたすら,アメリカのご意向のままに行動を起こしている。

民主主義はどこに行ってしまったというのだろうか。

ああ,こういうことを書きはじめると,またまた,「うつ病」が再発してしまう。せっかく,治りはじめたばかりだというのに・・・・。だから,あとは,みなさんの想像力に委ねておきたい。でないと,身がもたない。とはいえ,気を取り直して・・・・。

日本も,いまこそ,「国民投票」をやってほしい。もちろん,「脱原発」か,「原発推進」か,という大問題を問うて。その結果にもとづいて,それでも「原発推進」というのであれば,わたしはもうなにも言わない。山にでも籠もって,ひたすら,坐禅でもして暮らすことにする。しかし,もし,「脱原発」という意志が確認されるのなら,わたしも老骨に鞭打って「パッション」をみなぎらせて,世のため人のためにできることをしたいと思う。

世論調査によれば,国民の8割以上が「脱原発」だという。にもかかわらず,政府は,どこ吹く風とばかりに,「原発推進」の路線を変えようとはしない。それどころか,外国に「原発」を売ろうとさえしている。もし,売りつけた「原発」が故障したら,そして,暴発でも起こしたら,その費用はどうするのか。そして,使用済み核燃料の処理をどうするのか。そんなことも考えないで,いま,目の前で,金が動いて,いくら,儲かったという「数字」があればいいらしい。

ギリシアの財政危機救済策も同じではないのか。EUの「経済」安定が最優先されて,そのことのためには「国民投票」は時間の無駄だ,という。そして,もし,「国民投票」をやるのであれば,ギリシアをEUから除名すると言って脅す。脅されなくても,ギリシア国民が自主的に「撤退」の意志決定をするかもしれないのに。その選択肢すら否定してかかる「国際社会」とはなにか。

民主主義はもはや幻想でしかないのだろうか。

たとえば,投票行動そのものさえ,メディアにほぼ掌握されているのではないか,という。あるいは,政治・経済・官僚・学会・報道が「五位一体」となって,いまも,日本の政治は動いている。国民の意志を無視して。「原発安全神話」がどのようにして構築され,それを多くの日本人が鵜呑みにしてきた,というそのカラクリも露呈したというのに・・・・。まだ,懲りずに,その体質をそのまま引きずりながら,事後処理に当たろうとしている。

トランプ・ゲームに「総替え」という遊びのルールがある。現実の問題を処理するに当たって「総替え」は無理であるとしても,「半舷上陸」くらいはあってもいいのではないか,と思う。せめて,三分の一くらいは責任者を「入れ換えて」,事後処理にあたるべきではないのか。

そこには,いっさい手をつけようともしない。しかも,なんの「責任問題」も問おうともしないで・・・・。現体制のままで,唯々諾々として,事後処理にあたろうとしている。またまた,同じ穴の狢(むじな)ではないか。

いけない。脱線している。今日のブログの主題は「民主主義」だ。

こんにちの「国際世論」と称して世界を動かしているのは,1%の支配階層の人間たちだ。そして,日本の「国政」を動かしているのも,たった1%の「経済運命共同体」の人たちだ。政治家は,そのための「手足」にしかすぎない・・・・とわたしの眼には映る。

民主主義はどこに行ってしまったのか。

日本だけではなくて,世界全体が,「経済」最優先(それも,富裕階級保全のための)の論理に眼が眩み,「人間の命」のことはどこかにすっとんでしまったようだ。こうなったら,世も末だ。あとは,あちこちで「臨界」に達した地域から「核爆発」という「暴動」が起きるのみだ。そこまで行くしかないのだろうか,と思うと情けなくなってくる。

もっとも,古代ギリシアの直接民主制も,よくよく考えてみれば,奴隷制社会の上に成り立っていたもので,ほんの一握りの「自由市民」たちだけのものであったことも,ここで想起しておこう。スパルタの全盛期には,一人の自由市民のもとに「60人~100人」もの奴隷が抱えられていたという。とすれば,やはり,ほんの1~2%の人びとのための民主主義でしかなかった,という実像が浮かび上がってくる。

さてはて,「クォ・ヴァディス」(神よ,いずこへ)ではないが,「民主主義よ,いずこへ」と問わないではいられない。

しかも,報道のほとんどは,ギリシアの首相批判に終始している。それも,ある面,正当であるかもしれない。しかし,もっと大きな問題は,ギリシアの危機を利用した,まったく新たな「帝国支配」の徹底・浸透である。まるで,ナオミ・クラインが提起した『ショック・ドクトリン』を地でいくようなドラマが,「世界ショー」として,いま,目の前で繰り広げられている。

この「成り行き」からは眼が離せない。

「身心」(しんじん)と「心身」(しんしん)では大違い。

昨日のブログを書きながら,思い浮かべていたことばに「身心」「心身」がある。仏教用語では「身心」(しんじん)という。このことばが,たぶん,近代に入って「心身」(しんしん)に変化していったのだろう,といまのところ考えている。このことの確認はいつかきちんとしておきたいと思う。が,いまは,なぜ,「身心」が「心身」になってしまったのか,この違いはなにか,ということを考えてみたい。

つまり,「身」が「心」の上にくるか,「身」の上に「心」がくるか,そのことの違いとその背景がここでの関心事である。どちらでもいいではないか,という人もいたが,そうはいかない。なぜなら,「身心」と「心身」では大違いだから。とくに,昨日のブログの「人間」(じんかん⇒にんげん)との関連で考えればなおさらのことである。

英語では mind and body だ。それを逆転させて,body and mind と記述されたものをみたことがない。慣用句として,mind and body は固定化されているのである。それは,ドイツ語でも同じだ。長年の慣用句として,それが当たり前になっている。こんにちの日本語の「心身」と同じように。たぶん,学校の作文などで「身心」と書くと,先生が朱を入れて「心身」と直してくれるはずだ。英語でもそうのはず。

いまでも,雑誌などの依頼原稿で「身心」と書くと,ゲラできちんと「心身」と朱を入れて返してくれる編集者がときおり居る。文脈をきちんと読めばわかるはずなのに,と思いながら,再度,「身心」に訂正して返すことになる。場合によっては,ふたたび,電話を入れてくる編集者もいる。仕方がないので,説明することになる。

さて,本題に入ろう。

「心身二元論」か「心身一元論」かという古典的な議論がある。これらは,いずれもヨーロッパ発の議論で,いつのまにか日本でも,ごく当たり前のようにして「心身二元論」とか,「心身一元論」が議論される。しかし,「身心二元論」とか「身心一元論」というような表記はみられない。もちろん,仏教では「身心一元論」なのだが,そんな議論さえ仏教の世界では不要なのだ。文字で書けば「身心」となり,「身」と「心」と二つの概念が存在することになるのだが,考え方としては「身」と「心」の「間」に区分はなく,まとめて一つ。

たとえば,「修証一等」(道元)ということばがある。道元の主著『正法眼蔵』のなかにでてくることばであることは,よく知られているとおり。簡単に言えば,「修」は修行のこと,「証」は悟りのこと。したがって,修行と悟りは「一等」(一つのもの)であるから,悟りに応じた修行をしなさい,と教えているのである。悟りの伴わない難行苦行は邪道である,と。すくなくとも,曹洞宗系の坐禅道場ではそのように教えているはずである。

したがって,禅仏教では「身心」ということばを,いまでも用いる。きちんとした禅仏教系の坐禅道場などでは,「まず,黙って坐れ」と教える。理屈はあとだ,と。つまり,方法論として「身」が先なのだ。そして,「心」があとからついてくる,と。まずは,ひたすら黙って坐りなさい,と。つまりは,「只管打坐」という次第だ。そして,悟りの境地が高まるにつれて,坐禅の仕方もレベルを上げていく。このことが「身心」の内実というわけだ。すなわち,「身」から入っていく。そのあとに「心」がついてくる,という考え方である。

別の言い方をすれば,「型」から入れ,という。この方法論は,日本古来の武術にも伝承されている。剣道も柔道も,みんな,まずは「型」から教えてもらう。そして,その「型」の習得に務める。そのプロセスをとおして「心」が鍛え上げられていく,という考え方だ。だから,まずは,「型」の稽古。日本舞踊の世界も同じだと聞く。茶道も華道もみんな同じ,という。日本の伝統芸能の基本的な考え方は,みんな「身心」なのだ。

しかし,ヨーロッパでは逆だ。まずは「心」が優先される。その典型がキリスト教。肉体を邪悪なるものとして考え,その肉体をいかに「心」が制御していくか,がポイントとなる。つまり,肉体はあくまでも「心」の僕(しもべ)である,と考える。だから,「心身」でなくてはならないのだ。

しかし,ニーチェ以後の思想・哲学は,キリスト教のこの呪縛から解き放たれたところで,あらたな「身体論」が展開されている。この問題はまたいつか考えることにしよう。

このように,仏教でいう「身心」と,キリスト教のいう「心身」という考え方の違いが背景にある,ということをきちんと頭に入れておこう。このように考えると,日本では,いかなる理由で,「身心」から「心身」へと用語を変更しなければならなかったのか,ということが問題になってくる。そして,いつ,だれが・・・ということも。

どなたか,このテーマを追ってみる人はいませんか。
重要,かつ,とても大事なテーマだと思います。

2011年11月3日木曜日

「人間」「時間」「空間」の「間」の話。

昨日(2日)の太極拳の「稽古のあとのハヤシライス」の時間に,もう一つ,忘れられない話をNさんがしてくださった。精確に要約して,ここに記述する力量はないので,思いっきりわたしの理解に引き寄せて書いてみると,以下のとおり。

「人間」は,むかしは「じんかん」と読んだんですよね,とNさん。それが,いつからか「にんげん」と読まれるようになった。おそらく,明治になって,human being という英語に「人間」という訳語を当てはめて,それを「にんげん」と読ませるようになったらしい。ところが,human being と人間との間にはとてつもなく大きなギャップがある。オーバーにいえば,まったく異質なものだと言ってもいい。似て非なるもの,というべきか。

human being は,断るまでもなく,人間らしく存在すること,に力点があり,そこには明らかに「動物」とは違う存在の仕方が意識されている。だから,英語圏の人が「人間」をイメージし,それを語るときは,human being ということばを用いる,そのたびに「動物ではない存在だぞ」という意識が,無意識のうちに流れている。ここは肝腎なところだ。

それにひきかえ,「人間」という日本語の原義は「じんかん」である。それは文字どおり「人と人の間」という意味である。それを「にんげん」と読むようになっても,文字をみれば,もともとの意味は表出している。つまり,人間は「人と人の間の関係性」として存在している,ということだ。仏教用語はきちんと,ここのところをとらえて「じんかん」ということばを立ち上げたのだ。

もちろん,もともとは漢字を当てはめたものだ。しかし,この漢字がすごい,とあらためて思う。梵語で「にんげん」のことをどのように表記したのかは,わたしにはわからないが,それに「人間」という漢字を当てはめた人は偉いと思う。鳩摩羅什も玄奘さんも,仏教経典の翻訳で大きな仕事をなした人たちであるが,この人たちにも匹敵する訳語の一つが「人間」だと思う。これが,このまま,日本に移入されて「じんかん」として定着し,この蓄積があったからこそ「にんげん」という翻訳が可能となったのだろう,と考える。

人間は,動物とは異なる特別の存在である,と思っている英語圏の人たちと,人間は,人と人の間の関係性として存在するもの,と考えている日本人とは,基本的なところで「人間認識」がまったく異なることになる。だから,あらゆる動物をはじめとする環境世界に君臨する者として人間を位置づける英語圏の人びとと,「間」の関係性と考える日本人は,動物とも環境世界とも,つねに「関係性」として折り合いをつけてきた。わかりやすく言えば,自然を支配して生きようとする人間と,自然のなかに溶け込んで生きていこうとする人間との違いである。

ここからはじまって,やがて,話は「時間」と「空間」のテーマに広がっていく。
時間は,英語では time。 空間は,space。時間は「時と時の間」であり,空間は「空と空の間」である。このように文字にしてみると,英語との違いが歴然としてくる。日本語は,どこまでも「間」に重きがある。時の「間」であり,空の「間」である。しかし,time にも,space にも,日本語の「間」の意識はない。言ってしまえば,time は時の流れであり,space はたんなる広がりでしかない。となると,「時間認識」も「空間認識」も彼我のあいだには,根源的な違いがあることがわかってくる。

この話をはじめると,またまた,エンドレスになってしまう。時間の問題を考えるには,どうしてもハイデガーの『存在と時間』を避けてとおることはできないし,それは,やがては現代思想のテーマに踏み込んでいくことになるからだ。あるいは,アインシュタインの相対性理論にまで踏み込まなくてはならなくなっていくだろう。その上で,わたしの頭のなかでは,仏教の説く「時間」の問題が渦巻いている。しかも,仏教では「時間」と「空間」の区別がつかなくなっていく。なぜなら,同じ「間」の問題となっていくからだ。ということは,「人間」の存在も同じ「間」の問題へと収斂されていく。

たとえば,こうだ。空間は「空と空の間」だ。では,仏教でいう「空」とはなにかという大問題が待ち構えている。『般若心経』を開いてみるだけで,「空」がその中心テーマであることはすぐにわかる。それを説明するために「無」が多用される。「無色」「無受想行識」「無眼耳鼻舌身意」・・・と際限なくくり出されてくる「無」。これらはすべて「是諸法空相」を説明するためのものだ。もっと言ってしまえば,「色即是空」「空即是色」を,具体的に説き明かそうとするものだ。すなわち,「あるようであってない」「ないようであってある」。そのどちらでもないものが「ある」。「空」。

ここまで思考の根をおろして,もう一度,「空間」とはなにか,と考えてみる。それは英語でいう space とはまるで違うものであるということがわかってくる。

こんな,とてつもないお土産をくださったNさんにこころから感謝。当のNさんもまた,「えっ,なんで,いま,こんな話になったんだろう」「自分でもよくわからないですけどね・・・」と笑う。こういう発想が飛びだしてくる「間」の出現を,どうもNさんは楽しみにしているらしい。

だから,太極拳は止められない。


2011年11月2日水曜日

「毎日,毎日,憂鬱で仕方がない」「それはまともな人間であることの証です」

今日は太極拳の稽古の日。いつものように稽古のあとの「ハヤシライス」の時間,例によってNさんを囲んで,とても有意義な会話を楽しむことができました。この時間が,ひょっとしたら,一週間で唯一,もっともくつろぎつつ,密度の濃い時空間を堪能しているのではないか,そして,この時間があるから,また,一週間がやっていけるのではないか,とわたしは感じています。とても,ありがたいとこだと思っています。

「最近,毎日,毎日,いやなニュースばかりで,考えれば考えるほど憂鬱になってきて,そのうち,ほんとうの<鬱>になってまいそうです」とわたし。「それはまともな人間であることの証です」とNさん。「わたしなどは,食べたものを吐いてしまって,月曜日はまる一日,寝てました」とNさんがつづける。「いまどき,なにも感じないで平気でいられる人の方が異常です」とも。「ああ,そうなんだ。わたしはまともな人間の方に属しているんだ」と,少しばかり安心。でも,だからといって,こころは少しも晴れません。

制御不能となった原発の後始末の方途もみえないというのに,平気で原発をベトナムに売りつける政府・財界・官僚。止まっていた「玄海」の再稼働を,知事・市長・町長が手を結んで,許可したという。地域住民の意志をまったく無視して。この時期に。全国の国民の8割を超える「脱原発」の意志を,まったく無視して平気でいられる,とても人間とは思えない無神経な政治家たち。そして,東電・九電・・・・。この人たちもまた,どこまで壊れてしまっているのだろうか,と。アメリカのご機嫌伺いしかしない政府の「自発的隷従」,そして「思考停止」・・・・。

しかも,こんな,どうしようもない現実を前にして,われ関せずという顔をして平気でいられる人のなんと多いことか。「脱原発」といいつつ,なにもしない人たち。こちらサイドも「思考停止」状態に慣れっこになっている。そして,自分の身を守るために抵抗するどころか,いとも簡単に「自発的隷従」の姿勢をとる。それも無意識のうちに・・・・。救いようがない。そんな空気がいま社会の隅々にまで浸透してしまっている。

あー,いけない,いけない。こんなことを書きはじめるとまたまた憂鬱になり,ほんとうの「鬱」になってしまいます。でも,こんなことで鬱になっていてはいけません。世の中には,住み慣れた土地を追われ,あてのない,なんの展望もえられないまま,流浪させられている人たちを筆頭に,程度の差こそあれ,夢も希望もない日々を無為にやりすごすしかない生活を強いられている人たちがいっぱいです。その人たちに比べたら,わたしなどは,まだまだ贅沢というものです。いっそのこと,もう少し本気で憤ってしまえば,鬱などはすっとんでいくかもしれません。その意味では中途半端なのでしょう。鬱を気にすることができる・・・・というのは。

「3・11」を通過して,これからのわたしがなにをなすべきかははっきりしているはず。なのに,動き出そうとしない。からだが動かない。「21世紀スポーツ文化研究所」を立ち上げた,その原点を忘れてしまったかのように。まずは,小さいことからはじめよう,とあのとき考えていたではないか。そして,このブログを書くということも,その延長線上にあるはず。さらには,月例研究会もそのひとつ。その他のことも,そこそこ順調にきているではないか。しかし,なにかかがいま一つ足りない。つまりは「パッション」。

「今日は太極拳のとき,手が止まってましたよ」と感度のいいKさんは見抜いている。あー,そうなんだぁ,見破られている。そういえば,途中で,順番も間違えた。でも,これではいけないと気を取り直して一生懸命に稽古をしたのだが・・・・・。

そういえば,このブログの文体もおかしい。「である調」と「ですます調」がごちゃまぜのままだ。気持か,あちこちに揺れ動いている。おやおや,どうやら本格的な「ウツ」に罹ってしまっているらしい。取り戻そう!「パッション」を。

この「パッション」のことはいつかまた,きちんと書いておきたいと思っています。ので,今日のところは,このあたりでお許しください。

2011年11月1日火曜日

高橋秀実さん,第10回小林秀雄賞受賞,おめでとう。

『素晴らしきラジオ体操』(小学館文庫,2002年)が,わたしの高橋秀実との出会いだった。毎朝,ラジオ体操のメッカと呼ばれる場所にでかけて行って,一番,端っこでラジオ体操をして帰ってくるという日々を送りながら,この「場」の様子を黙ってさぐる。そうこうしているうちに,端っこの人たちと仲良しになり,やがて,常連さんから声をかけられるようになり,徐々に,ラジオ体操をする場所の序列を上げていく。この力学をみごとに描いた作品である。ラジオ体操をとおして,日本人とはそもそもなにものなのか,と問いかける。この視線が,わたしには新鮮だった。

そんなきっかけから,その後,高橋秀実の書くものから眼が離せなくなっていく。つぎに,わたしの眼に止まったのが『はい,泳げません』(新潮社文庫,2007年)である。本のタイトルをみて,思わず笑ってしまった。が,読んでみてびっくり。スイミング・スクールの「かなづち組」に入れてもらって,一人の生徒として,初手から「泳ぐ」ことの指導を仰ぐ。そのプロセスが微に入り細にわたり,大まじめに記述されていく。つまり,リアル・タイムの習熟過程をそのまま書いていく。最初のうちは,水を何回も呑んでしまって,お腹がいっぱいになってしまった,お蔭で食事を一回,パスして得をした,とか・・・・。(あっ,そんなことは書いてなかったかな,単なるわたしの思い込みかな,でも,そんな調子の文章があちこちにあったように記憶する)。

つぎに,とびついたのは『やせれば美人』(新潮文庫,2008年)。ほんとうに腹を抱えながら読んだ記憶がある。わたしは,まじめに「身体論」として読もうとするのだが,ことごとくそれが覆されてしまう。「美人」の基準などというもののいいかげんさを徹底的にあばいていく。しかも,じつにユーモラスに。しかし,そこから「美人」なるものをめぐる虚実がおのずから浮かび上がってくる。この人のみごとな手法というべきか。

そうして,『おすもうさん』(草思社,2010年)。ここでも,相撲部屋に入門して,新弟子として,年端もいかない少年たちと苦楽をともにする。入門したその日から,なにからなにまで,新弟子と同じことをする。そうして,「おすもうさん」と文字通り「肌」を触れ合って,この世界のなんたるかを,みずからの「肌」をとおして感知しようとする。つまり,全身全霊で「おすもうさん」になろうとする,その姿勢が読む者のこころを打つ。のみならず,一緒に稽古している「おすもうさん」たちから絶大なる信頼をえる。そして,たくさんの「おすもうさん」がこころを「開いて」本音を語りはじめる。ときには相談相手にもなって。

だから,高橋秀実が描く「おすもうさん」の姿は,これまでの類書にはみられない,まったく新しいまなざしから描き出されることになる。そこには,肩肘張らない,ごくごく自然体のありのままの「おすもうさん」が立ち現れる。稽古がきびしいと素直に泣くし,叩かれれば「痛い」と声をあげるし,それでいて相撲が大好きで,どうすれば強くなれるかと思い詰めている。だから,早朝に起きて掃除からはじまり,一生懸命に稽古をして,ごはんを腹いっぱいに食べて,暇さえあればゴロゴロと寝ている,という。ひたすらその繰り返しの日々。そういう若者たちと起居をともにしながら,いろいろの話を聞き,その上で「文献」に当たる。もちろん,あらかじめの予習はしているのだが,本格的な文献による調査・確認は,そこからだ。

そして,なによりも,苦楽をともにしているだけあって,「おすもうさん」に投げかけるまなざしがとても温かい。いつも,からだをとおして感じ取ったことが最優先されていて,そのあとに論理をさぐろうとする。しかし,そんな論理よりもなによりも,「おすもうさん」たちはほんとうにいい人たちで,心根がやさしい,という高橋秀実の実感が全ページを一貫して流れていて,読んでいて心地よい。

ここから発せられる「八百長」や「賭け」への言説は,一般の評論家たちとはまったく次元が違う。こういう人の声を,日本相撲協会やメディアは,なぜ,もっと大事にしないのだろうか,とわたしなどは地団駄を踏んでいる。「八百長はいけません。でも,それをなくすことはとてもむつかしいことでしょうね」というような言い方を高橋秀実はする。わたしが翻訳(通訳)すれば「八百長をなくすことはできません」となる。

なぜ,そうなるのか,という理由は相撲部屋の24時間をともに生活した者でなければ語れないだろうし,また,それを精確に言説化することは不可能なのだろうと思う(「おすもうさん」は自己表現がじつに下手だ,とも高橋秀実は言う)。力士たちはみんな知っている。日本相撲協会の人たちもみんな知っている。でも,それはタブーなのだ。

このように書いてくると,高橋秀実というノンフィクション作家は,スポーツを専門とする書き手のように思われるかもしれないが,そうではない。『TOKYO外国人裁判』(平凡社,1992年)が,たしか,この人のデビュー作。以後,『ゴングまであと30秒』(草思社,1994年),『にせニッポン人探訪記 帰ってきた南米日系人たち』(草思社,1995年),『からくり民主主義』(草思社,2002年),『トラウマの国』(新潮社,2005年),『趣味はなんですか』(角川書店,2010年),などがある。

そして,最新作の『ご先祖様はどちら様』(新潮社,2011年)で,第10回小林秀雄賞の受賞である。小林秀雄の書いたものとはまるで違う世界の作品が受賞されるというのは,わたしにとってはいささか意外だった。でも,こういうちょっと意表をつくような,それでいて日常茶飯の疑問から発する謎解きをとおして,日本を考え,日本人を考えていこうとする姿勢は評価されていいのだ,とわたしは納得。

「東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社のADを経て,フリーのライターとなる。元ボクサーで,ボクシングのジムトレーナーを務めていた経験を持つ」というような経歴を知ると,これまた,なるほどなぁ,と納得である。

ソフト・タッチの,とても読みやすい,それでいてホロリとさせながら虚実に迫る,こころの温かい高橋秀実のこれから書くものに注目したいと思う。

それにしても,高橋秀実さん,おめでとう!