2013年4月19日金曜日

『不浄の血』アイザック・バシェヴィス・シンガー傑作選(西成彦訳,河出書房新社,2013年3月刊)を読む。魂に回帰する物語。必読。

 西谷さんのブログで紹介されていましたので,いずれ読まなくてはと思っていた本です。いつものように太極拳の稽古のあとの昼食会のときに,柏木さんが,買ってきて読みはじめている,とても面白い,と切り出しました。わたしはびっくりして,もう,読んでるんですか。すかさず,西谷さんがあとを引き取って,ひとしきり話が盛り上がりました。が,わたしひとりがおいてけぼり。じゃあ,ぼくも読もう,とひとりごちる。

 「稲垣さんが読むんだったら,〔スピノザ学者〕という短編から読むといい」と西谷さんがニヤリと笑う。このニヤリと笑った顔が忘れられず,まっすぐ本屋に走り購入。鷺沼の事務所に直行して,すぐに指定されたとおり「スピノザ学者」から読みはじめました。西谷さんの意図したものが奈辺にありやとアンテナを張りながら,最後まで読んでみました。これのことかな,いや,あれのことかな,とあれこれ想像しながら読み進めましたが,いまひとつ,ピンときません。が,最後の一行を読んだときに,あっ,これのことか,と声を発していました。

 その最後の一行は,以下のとおりです。
 ──スピノザよ,どうかお赦しください。わたしはバカ者になりはてました。

 この一文には伏線があります。この短編の冒頭に,テーブルの上で燃やしている蝋燭のまわりに蠅やアブや蛾がまつわりつき,炎に飛び込んで羽を焼いたり,火がついたまま蝋燭にしがみついたりしているのを,主人公がハンカチで追い払っている描写があります。そして,つぎのように主人公が呼びかけまず。
 ──行け,行け,バカども,愚か者たちよ! そう彼は虫に語りかけた。──そんなところで温まるもんではない。火傷をするだけだぞ。(中略)。
 ──心の貧しい人間たちと同じだ,と彼はひとりごちた。──いつも今この瞬間しかない!・・・

 最後の一行は,この伏線を受けて「わたしはバカ者になりはてました」という次第です。では,どうして主人公は「バカ者」になってしまったのか。ここが問題です。

 主人公フィシュルゾン博士は,若いころにワルシャワからチューリッヒに留学して,スピノザの研究者として名をなす秀才でした。将来を嘱望されて帰国し,いい職にもつき,縁談もひっきりなしにあったのですが,「永遠なる法則」を見出すべく,スピノザを見倣って独身をとおします。そして,異端思想を口にしたために図書館での職もクビになり,ささやかな助成金を頼りに屋根裏部屋での貧乏生活を余儀なくされます。そして,かれの信じてやまないスピノザの『エチカ』の注釈づくりに専念します。

 しかし,貧乏生活がたたってか,初老を迎えるころには体調をくずし,理由のはっきりしない病気に悩まされます。医者からは気のせいだと突き放され,ひとりで悶々とした生活をつづけながら,スピノザ研究に励みますが,テクストの文字も定かにはみえなくなってきます。それでもなお,わが身に起こっていることと世界に起こっていることのあいだの「理性的な連関」を求めようと努力します。そして「すべてを永遠の相のもとに理解」しようと努めます。

 「しかし,いっさいは何の支えもないまま雑然としていた。ああ,精神は無意味な器だ!と彼は考えた。世界は狂人たちのものだ!・・・・」

 そんな絶望的な日々を送っているところに,思いがけない「恩寵」が訪れます。フィシュルゾン博士の住んでいる屋根裏部屋につづく廊下の奥に「年取った独身の女」が暮らしていました。隣人たちは彼女を「黒いドベ」と呼び,ヒビの入った卵を売ってあるく,痩せて煤まみれの汚い女として見下していました。そんな彼女のところにアメリカに住む兄から手紙がとどきます。いつも,読んでもらっている知人を訪ねると留守でした。そこで,思い切ってフィシュルゾン博士にお願いをして読んでもらうことにしました。

 ご縁とは異なもの,不思議なものです。これがきっかけになって,病弱な初老の博士の面倒をこの女性「黒いドベ」がみるようになります。そして,いつしか・・・・。そして,とうとう結婚します。その初夜の朝方,早く目覚めた博士は屋根裏部屋の天窓からひとりで空を眺め,そして,窓の下に広がる町の通りを眺め,さまざまな想念に耽ります。このあたりの描写は抜群ですので,ぜひ,読んでみてください。

 でも,折角ですので,最後の文章だけ,少し長く引用しておきたいと思います。
 「・・・・隕石が雨となって降り注ぐ,八月だった。神なる実体(ゲトレヘ・スブスタンツ)は始まりも終わりもなく自らを伸び広げている。それは絶対(アブソルート),かつ分割不可能(ウムタイルバル)であって,永遠に持続し,無限な属性(アトリブート)を備えている。宇宙で料理がことこと煮られ,変化と変容をつづけ,原因と結果は途切れない連鎖を形づくり,それらが波や小さなあぶくとなって渦巻いている。そのまにまに彼,フィッシュルゾン博士と,その惨めな運命もまた存在しているのだった。フィシュルゾン博士はまぶたを閉じ,涼しい風で額の汗を乾かし,風に髭をなびかせた。彼は夜更けの湿った空気を深く吸いこみ,震える両手を屋根に押しあてた。彼は立ったまま,少し眠った。まるで一匹の動物のように。そして,こう呟くのだった。
 ──スピノザよ,どうかお赦しください(フェルツァイエ・ミル)。わたしはバカ者になりはてました。」

 以上です。

 「永遠の法則」は理性的なスピノザになることではなくて,動物の内在性の世界の方にあるのであって,理性を超えでて「バカ者」になるのはその第一歩である,と著者は言っているように聞こえます。「一匹の動物のように」というフレーズが,わたしの脳裏に焼きついて離れません。そこには,近代的理性に凝り固まってしまった人間ではなく,一匹の生きものとしての魂を取り戻すべきだ,という著者でノーベル賞作家アイザック・バシェヴィス・シンガーの,たったワン・フレーズに籠められた気魄のようなものを感じます。

 これから何回も読み返したくなる名作を,そして,わたしが反応しそうな名作を,西谷さんは,ニヤリと笑いながら示唆してくださったようです。しかも,その示唆は図星でした。もう一点,付け加えておけば,決め手になるフレーズや単語にはドイツ語のルビがふってあることです。これも存分に堪能させてもらいました。精確なドイツ語発音とはいささか違う,イーディシュ語なまりのドイツ語なのだろうなぁ,と想像しながら。訳者の西成彦さんの,心憎いばかりの気配りが細部にまで行き届いていて,快感です。

 それにしても,すべて短編とはいえ,そこに広がっている物語世界のスケールの大きさに酔い痴れてしまいます。ですから,何回も,何回も,読み返すことになることでしょう。そして,そのたびに,もっともっと深い宇宙・世界・人間・世間などの深淵を覗き見ることになるのだろうなぁ,と想像しています。これはたいへんなプレゼントを西谷さんからいただく結果になりました。ありがたいことです。ただ,感謝あるのみです。

 なお,作家論・作品論については,西谷さんのブログに詳しく書かれていますので,そちらを参照してください。また,訳者の西成彦さんのことも,そちらに譲りたいと思います。語学の天才というか,とても不思議な人だとも聞いています。西成彦さんのこれからのお仕事にも注目したいと思います。

 とても,翻訳とは思えない名文が全編を覆っています。
 ぜひ,ご一読を。

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