2013年4月29日月曜日

「中国」という国は歴史上,一度も存在したことはない。ことばに疑問を。そこが「思考」のはじまり。聴講生レボート・その3.

 ことばに関する第2講。

 ことばはわたしたちに先んじて存在する。つまり,生まれる前から存在する。生まれたときにはことばが飛び交っている。そういう環境のなかで,人間はことばをわがものとしていく。したがって,ことばを身につけるということは,圧倒的受身が前提条件となる。ここに,ことばについて思考するときの大きな鍵が隠されている。

 授業の冒頭で,N教授は切り出され,はっと虚をつかれる。ふだん,ことばとはなにか,などと考えることがなかったので,新しい自分というものの扉が開かれる思いがする。

 赤ん坊は親のいうことばをおうむ返しにして,ことばを覚えていく。だから,ことばはアプリオリに存在し,絶対的な力をもつ。したがって,わたしたちは無意識のうちにことばに絶対的な「信」をおいてしまう。ことばに対してなんの疑問をいだくこともなく,丸飲みしてしまう。じつは,ここに大きな落とし穴が待ち受けている。すなわち,「思考停止」という落とし穴が。

 だから,ことばを,ほんとうの意味で自分のことばにするためには,一度,疑ってみる必要がある,とN教授。ここが「思考」のはじまりである,とも。

 たとえば,「中国」ということばがある。このことばを丸飲みにして記憶してしまうと,「中国」という国が,まるで,むかしから存在していたかのように,思い込んでしまう。しかし,「中国」という国は,歴史上,いつの時代にも存在したことはない。存在したのは王朝の名前であり,その実態は,王朝が支配した地域と時代だけである。それをわたしたちは「中国」という国と同義に受け止めてしまっている。だから,「中国史」と聞けば,わたしたちはなんの疑問をいだくこともなく,ごく当たり前のこととしてそれを受け入れている。しかし,中国という国名を名乗った時代は一度もないのである。ただ,中国という表現に近い表現ことばとしては,中華民国,中華人民共和国の二つがある。これを一部省略して短縮すれば「中国」となる。でも,この二つの名称のいずれも,「中国」という国名にはなりえない。

 それは,日本という国名にも相当する。いったい,いつから日本なのか。『魏志倭人伝』に登場する倭人の国は日本ではない。なぜなら,まだ,当時の倭人には国という意識も概念がなかったからである。のみならず,倭人と呼ばれた人びとも,魏王朝の書記官が,かってに「倭人」と名づけただけのことであって,みずから倭人と名乗ったわけではない。ただ,そう名づけられた人びとの代表が魏王朝と接触しただけの話である。

 では,いつから,わたしたちの祖先が「日本」という国を名乗りはじめたのか。それは,有名な「日出ずる国の天子から,日の没する国の天子へ」という書き出しの書状を書き送ったとされる聖徳太子だ,ということになっている。しかし,その聖徳太子ですら,最近では,「実在しなかった」という説が次第に有力になりつつある。だとすると,いったい,だれが「日出ずる国」「日のもとの国」「日本」を名乗るようにしたのか,という新たな疑問が湧いてくる。この疑問が湧いたとき,はじめて,人は思考をはじめる。なぜ?どうして?いつ?だれが?どこで?

 では,日本が英語では,なぜ,Japanと表記されるようになったのか。日本という国がヨーロッパ人に意識されるようになったのは,マルコ・ポーロの『東方見聞録』以後だ。そこには,マルコ・ポーロが中国に滞在していたときに聞いた話として「東の海のかなたに,黄金に輝くジパングという国がある」と紹介している。この「ジパング」は,当時の中国人が「日本」というときの発音が,マルコ・ポーロには「ジパング」と聞こえたのでそのように表記した,ということがわかってくる。そこから,ヨーロッパの各国の言語に置き換えられていく。疑問に思ったことを,少し調べてみたり,考えてみたりすれば,こういうことがわかってくる。

 しかも,わたしたちは慣用語として「ニホン」と呼んだりするが,正式な日本語の国名としては「ニッポン」が正しいということもわかってくる。このことも,いっとき,盛んに議論されたことがあって,それ以後,日本のオリンピック代表選手用のトレーニング・ウェアにはローマ字で「NIPPON」と書かれることが多くなってきている。それでも,スポーツ界には「オール・ジャパン」ということばが定着していることもあって,スポーツ・ウェアなどには「JAPAN」と英語表記されることも多い。

 では,いま,世界でもっとも人びとの口にのぼることばはなにか?とN教授は学生さんたちに問いかける。学生さんのひとりが「オバマ」と答える。N教授は「なるほど。正解をかすっているだけに,とても惜しい。正解はアメリカです」と受けつつ,では,この「アメリカ」ということばは,いつ,だれが,どのようにして・・・・と考えてみると,意外な面白い事実がつぎつぎにわかってくる,として膨大なアメリカということばの起源にまつわる話を展開していく。

 この話を書きはじめると膨大な量になってしまうので,ここでは割愛。

 このようにして,わたしたちが日常的に頻繁に用いている国の名前ひとつにしても,ほんの少し疑問をいだいて「思考」をはじめるだけで,驚くべき「事実」がつぎつぎにわかってくる。そうして,とりあえず,自分で納得できるレベルにまで到達したとき,そのことばは,真の意味でその人のことばとなる。したがって,ことば一つひとつについての理解の仕方は,一人ひとり,微妙に違っている,ということが明らかになってくる,とN教授。

 こうして,いよいよN教授の講義は佳境に入ってきます。
 来週は,ことばとの関連で「イメージ」の話をします,と予告。そのために「電動紙芝居」を用意します,と軽いジョークもまじえながら。

 次回は,4月30日(火)。ゴールデン・ウィークの谷間の平日。それでも,N教授は休講にしないで,この授業をなさる。さすがだなぁ,と感心。こんなところにも真面目な人柄がにじみでている。わたしは,かつては,こういうタイミングのときは休講にしたなぁ,といささか恥ずかしい。

 さて,来週は,どんなお話をしてくださるのだろうか。いまから,楽しみ。

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