2013年4月19日金曜日

ボストン・マラソン連続爆破事件を考える。「暴力」とはなにか。

 FBIが「ボストン連続爆破テロ」の容疑者とみられる男二人の写真と映像を公開して,犯人捜査の協力を呼びかけている。このFBIの発表に右へならえをするかのように,日本のメディア(NHKも,大手新聞社も)も一斉に「ボストン連続爆破テロ」の容疑者の写真や映像を垂れ流している。「テロ」を強調するこの報道の姿勢は,いつものことなので,特別に驚くほどのことではないが,やはり,少し変だ。

 最初に断っておくが,わたしは「ボストン・マラソン連続爆破事件」として,今回の事態を考えている。なぜなら,犯人も特定できてはいない,ましてや犯人たちがなにを目的に今回の反攻(反抗/犯行)を展開したのかも不明である,この段階で一方的に「テロ」と名づける無神経な暴力的報道の仕方に,どうしても納得がいかないからである。

 「テロ」と名づけた瞬間から,容疑者たちの人格は全否定されてしまう。そして,いかなる理由があろうとも,テロリストは「悪」,それを取り締まるのは「正義」,このいつもの二項対立の思考パターンにはめこんで,大衆を洗脳する。そうすれば,容疑者(犯人であるかどうかはわからない)をいかなる方法で殺害してしまおうと,権力側は正当化されてしまう。こんな理不尽なことが,いま,国際社会では容認されているのだ。

 しかし,このヨーロッパ近代が生み出した「階層秩序的二項対立」(J.デリダ)の考え方に立つ制度や法律や組織が,わたしたちの生活のすみずみにまで浸透してしまっている。そして,ついには,こうした社会の仕組みそのものが,根底から破綻をきたしつつあることもまぎれもない事実である。なのに,なぜ,この問題にわたしたちはもっと注意を向けようとはしないのだろうか。

 それには理由がある,とわたしは考えている。それは,わたしたちが権力につらなる巧妙なメディア操作によって「眼くらまし」にあっているからだ,と。なぜなら,ときの権力者たちは自分たちの恥部を徹底して隠蔽・排除しようとする。そのためにはあの手この手で全力をつくす。メディアはそのための最大のターゲットだ。そのことは,いまも進行しつつある原発事故に関する報道を念頭におけば明らかだ。すべては自然災害であり,想定外であるとして,だれひとり責任をとろうともしない。それこそ,わたしの知り得ている範囲でも,みてみぬふりをしたために無意味な犠牲者を出してしまった事例はいくらでもある。ゲンシリョクムラの住民が一致団結して,いまも,メディア操作を繰り広げていることは周知のことだ。

 その結果,圧倒的多数の人びとが「眼くらまし」にあったまま,現体制支持を表明することになる。それが現実である。

 どんな場合でも,もっとも大事なことは犯人を精確に割り出し,検挙すること,と同時に,なぜ,このような事件が起きてしまうのか,その原因を明らかにすることだ。

 無理やり「テロ」事件と名づけてしまう権力サイドの背後には,なぜ,このような事件が起きたのかという原因糾明の眼を,どんなことがあってもふさいでしまわなくてはならない,という強烈な意図がある。そして,テロリストを「悪」の権化ときめつけ,これを「血祭り」にあげるのが「正義」。そうして,なにがなんでも,めでたし,めでたし,で終わりにする。そのシナリオにはめ込むために,メディアもまた総力をあげて協力する。そのためにはアメリカ国民も一致団結する。これがFBIの仕掛けた罠であり,魂胆だ。

 それを無比判に,日本のメディアもまた「ボストン連続爆破テロ」として,FBI産の情報をそのまま垂れ流す。かくして,日本国民の圧倒的多数が無意識のうちに「洗脳」されていく。

 よく考えていただきたい。「ボストン連続爆破テロ」と「ボストン・マラソン連続爆破事件」。この違いを。FBI的用法によれば,「事件」ではなく「テロ」,そして聖なるスポーツ「マラソン」を排除/隠蔽している。わたし的用法によれば,ありのまま,なにも隠すことなく「ボストン・マラソン」で起きた「連続爆破事件」となる。「テロ」であるかどうかはこれからの判断の問題だ。

 「テロ」とするか,「事件」とするか,この表記の違いはどこからくるのか。
 FBI的用法からは,マラソン(スポーツ)がテロのターゲットになるという事実を,なんとしても排除/隠蔽したいとする意図をくみ取ることができる。つまり,マラソン(とくに,ボストン・マラソン)はテロのターゲットになるべき性質のものではない,あるいは,あってはならない,という美しい理想主義者的な意図が透けてみえてくる。
 わたし的用法では,マラソン(スポーツのビッグ・イベント)もまた連続爆破「事件」に巻き込むだけの価値のある「暴力装置」として存在している,わけても権力者に対立(対抗)する側の人間にはそのようにみえている,ということである。もっと言ってしまえば,スポーツのビッグ・イベントもまた,現体制維持のための立派な文化装置として機能している,きわめて政治イデオロギー的な使命を帯びている,ということである。

 すなわち,立場を替えれば,オリンピック競技大会もワールドカップも,そして,ボストン・マラソンも,みんな立派な「暴力」装置として,世界を支配しているということだ。わたしたちは,生まれながらにして文明化社会に生きているので,これらのスポーツのビッグ・イベントが「暴力」装置だとは思ってもいない。しかし,世界の文明化の過程からとり残され,いくら働いても利潤は資本家に吸い上げられ,どうあがいてみても貧困・飢餓・病気から抜け出せない日々を送っている人びとからすれば,資本が君臨する文明化社会の存在そのものが,なにものにも替えがたい大きな「暴力」なのだ。

 近代のスポーツ競技は,まさに,こうした巨大資本によって大きな利潤を挙げる文明化社会に住む人間たちの特権でしかないのだ。しかも,その利潤の多くは資本の力によって途上国から吸い上げている。このことを,わたしたちはどこまで認識しているだろうか。

 もっとも伝統のあるマラソン競技会であるボストン・マラソンは,こうした背景のもとに誕生し,支えられて,こんにちにいたっている。

 FBIが,テロリストと名づけなくてはならない人びとを絶滅したいのであれば,そういう人びとがつぎつぎに立ち現れてくる温床をなくすことが先決ではないのか。その努力はしないで,ただ,ひたすら取り締まり,処分することだけに専念する,その「暴力」こそが絶滅されなければなるまい。

 スポーツもまた,そういう温床をなくすことに,もっと眼を向けていかなくてはいけないのではないのか。

 この問題はとても奥が深いので,また,機会をあらためて取り上げてみたいと思う。とりあえず,今回のボストン・マラソンの場でおきた連続爆破事件をとおして,そこに働いている「暴力」の問題について考えてみたかった。とりあえず,その頭出しだけでもと思い,問題提起をさせていただいた。ご叱声,ご批判をいただければ幸いである。

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