2013年4月5日金曜日

『葬られた王朝──古代出雲の謎を解く』(梅原猛著,新潮文庫)を読む。驚くべき発見の連続。

 昨年の2012年は『古事記』の1300年と出雲大社大遷宮とが重なった年ということで,特別展『出雲──聖地の至宝』が東京国立博物館で開催されました(2012年10月10日~11月25日)。これを見学してきたときのことは,このブログにも書いたとおりです。この特別展の目玉は二つあって,ひとつは大量に発掘された「青銅器群」であり,もうひとつは出雲大社の大神殿をささえた巨大柱の遺物でした。いずれも,近年の発掘によって出土した,きわめて貴重なものばかりです。この二大考古遺物が発見されたことによって,これまでの「出雲」のイメージは一変してしまいました。そして,多くの日本古代に関心をもつ人びとが,一斉に,新たな日本古代のイメージを語りはじめました。それほどに大きなできごとだったのです。

 梅原猛さんもそのうちのひとりでした。しかも,自著の『神々の流竄』に書いた自説が間違っていた,と正直に告白した上で,自説を徹底的に批判し,根底から修正するためにこのテクストを書いた,とまで述べています。結論からいいますと,梅原さんは,「出雲神話」はたんなる「神話」であって,根も葉もない話である,と結論づけていました。その根拠として,もし,「出雲神話」がほんとうなら,それを裏付ける考古遺物が何点か出土しているはずなのに,それがひとつもないからだ,と書いています。しかし,その後,「出雲神話」を裏付ける驚くべき考古遺物がつぎつぎに発見されることになりました。

 そのひとつは,さきにも書きましたように,大量に出土した「青銅器群」です。青銅器群とは大きくは「銅剣」と「銅鐸」です(「銅戈」もあります)。「銅剣」は荒神谷遺跡から出土したもので,弥生時代前2~前1世紀のものとされています。しかも,一カ所から358本もの大量の「銅剣」の出土でした。これには多くの考古学者のみならず,多くの古代史研究者たちが度胆を抜かれたといいます。もうひとつは「銅鐸」です。こちらは加茂岩倉遺跡から出土したもので,弥生時代前2~前1世紀のものと考えられています。こちらも,なんと道路工事中の谷あいの傾斜地から39個もの「銅鐸」が出土しました。

 この大発見によって,出雲に巨大な王朝が存在したことは疑いようもない事実となりました。これに加えて,さらに驚かされたことは,伝説となっていた巨大柱の一部が出雲大社の境内から出土したという事実です。「宇豆柱(うずばしら)」と呼ばれるこの柱は,3本の巨木をひとつに束ねたもので,1本の巨木の直径が最大で130㎝あったといいます。伝承によれば,高さ16丈(約48m)もあったというのです。奈良の大仏殿が15丈(約45m)で,それより高かったといいます。

 この二つの考古遺物の出土によって,「出雲神話」の世界は一挙に現実のものとなりました。となりますと,「出雲神話」を視野に入れた日本の古代史を再検討しなければなりません。そのため,日本古代史の再解釈が一斉に火蓋を切ることになりました。その先鞭をつける流れのひとつがこの梅原猛さんの『葬られた王朝──古代出雲の謎を解く』(新潮文庫,平成24年)というわけです。そして,その最新の研究成果が,少し前のブログで紹介しましたように,村井康彦さんの『出雲と大和』(岩波新書,2013年)という名著です。

 となってきますと,オオクニヌシの「国譲り」神話はいったいなにを意味しているのか,天孫降臨族というのはどういう人たちなのか,邪馬台国は出雲連合国だったのではないか(村井説),突然,出雲王朝が歴史から消えてしまうのはなぜか,なのに,出雲大社だけはのちのちまで大切にされているのはなぜか,出雲大社には八百万の神さまが年に一度集まるというのはなにを意味しているのか,考えてみれば,日本全国に出雲系の神様(オオクニヌシを筆頭に)を祀る神社がなんと多いことか,などなど疑問はあとを絶ちません。

 そして,わたしの疑問である野見宿禰(出雲の人と『古事記』に書いてある)が,突然,垂仁天皇のときに登場し,取り立てられるのはなぜか,というところにつながっていきます。この野見宿禰も,その出自はまったくわかっていません。『古事記』も『日本書紀』も,野見宿禰の出自を隠しているからです。だとしたら,隠さなければならない重大な理由が,たとえば,藤原不比等にはあったはずです。では,その理由とは,なにか。

 とまあ,だれでも思う不思議の謎解きを,梅原猛さんの独特の視点から,じつに精力的に展開します。まるで,SFを読んでいるようなときめきを感じます。なにより梅原さんがすごいと思うのは,自説をも徹底的に批判の対象としながら,より,真実に接近しようとするそのあくなき探究心にあります。自説を批判するくらいですから,大先輩たちの理論仮説も木っ端みじんに打ち砕いていきます。たとえば,本居宣長というオーソリティが,いかにのちの日本史研究者の言動を拘束してしまったか,その犯罪性を槍玉にあげつつ,敗戦後の古代史研究に大きな影響を与え,教科書の日本史の方向を決定づけた津田左右吉の説をも,完膚なきまで打ち壊し,新たな日本の古代像を明らかにすることの必要性を情熱を籠めて語ります。

 さらには,柳田国男や折口信夫,そして,上田正昭といった人びとの学説をも引き合いに出しながら,自説の正しさを主張していきます。

 文庫本とはいえ,大著です。読み終えたときには,まったく新たな日本の古代像が脳裏に焼きついて離れません。その結果は,わたしたちがこれまで学んできた日本の古代は,あれはなんだったのか,という不思議な感覚です。そして,ここからさきの話を詰めていきますと,相当にきわどい話になっていきますので,ここではこの辺で留め置きにしておきたいと思います。また,機会をあらためて(別の素材を手がかりにして),わたしなりの古代のイメージを語ってみたいと思います。とりわけ,野見宿禰をてがかりにして。

 ということで,今回はここまでにしておきます。
 ではまた。

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