一ヶ月980円で映画見放題,最初の二週間は無料,というキャッチ・コピーにつられてそのサイトに迷いこんだのが運命の分かれ目だった。つぎからつぎへと現れる映画の予告編を覗き見していたら,この作品『弓』と出会ってしまった。それは,まさに,出会いであった。
韓国の弓が日本のものと違って,桁違いに遠い距離の的を射る強力なものであることは,韓国の祭りを取材したときに見て知ってはいた。が,その弓に反響鼓をとりつけると立派な楽器に変身し(韓国二胡),じつに繊細な音楽を奏ではじめるではないか。それを予告編でちらりと見せられ,これは見なくてはいけない,と直観した。弓の弦が,いわゆる弦楽器の原型である,ということは知識として知ってはいた。しかし,実際の弓をそのまま楽器にして演奏するものは見たことがなかった。だから,びっくり仰天した。えーっ,韓国では弓を楽器としても使うのだ,と。
ただ,それだけの動機でこの映画を見るはめになった。韓国映画を見るのも初めてなら,キム・ギドク監督という名前を見るのも初めて。なんの予備知識もなくこの映画『弓』を見ることになった。それが,かえってよかったのだろうと,いまにして思う。まっさらの,白紙状態で,キム・ギドク監督映画を見るという僥倖に浴することができたのだから。
しかし,弓は武器や楽器となるだけではなかった。弓占いという占いの道具でもあった,ということをこの映画は教えてくれる。つまり,弓は三つの機能をもつものとして,いまも生きているということを。もっとも,考えてみれば,日本の平安時代の弓は天空にうごめく「邪気」を払うために射る「僻邪の弓」というものがあった。鏑矢はその残滓である。だから,弓占いというものがあっても不思議ではない。いまも祭礼の一部として行われる流鏑馬はその一種と考えてよいだろう。
こんなことを予測しながら,この映画を鑑賞することになった。たしかに,この映画では,弓は武器であり,楽器であり,占いの道具として大活躍するのだが,それだけでは終わらなかった。最後の最後のラスト・シーンでは,結婚初夜の性行為のシンボルとして「矢」が大きな役割をはたすことになる。この弓を縦横に活用しながら,人間の究極の「愛」を描き出そうという,キム・ギドク監督の意表をつく着想に度胆を抜かれてしまう。
ストーリーはじつに単純。ネタばらしをしてもこの映画の価値は少しも下がることはないだろう。海上に浮ぶボロ船で暮らす老人と少女。老人は釣り客をボートで運んできて,この船の上で釣りをさせ,生活を支えている。少女は7歳のときに,この老人に拾われて,この船の上で育てられる。少女が17歳になったら結婚することを生きがいにして,老人はかいがいしく少女の面倒をみる。盥に湯をはって少女の背中を洗い,夜は二段ベッドの上から手を延ばして少女の腕をさすり,手を握って眠りにつく。
少女と老人はじつに平和な日々を送り,幸せそのもの。しかし,17歳の誕生日が近づき,結婚式のために必要な道具や晴れ着を購入し,老人が着々とその準備がととのえていくときに,青年が釣り客として現れる。少女は恋に落ちる。こうして,老人と少女の間に致命的な亀裂が入る。ここから,この映画は急展開をはじめ,驚くべき「究極の愛」の数々が描かれていく。青年は少女を救い出すためにからだを張る。老人は青年を亡き者にしようとして弓を引く。とその前に少女が立ちはだかる。老人があきらめて青年と少女をおとなしく見送るとみせて,ボートのともづなに首をかけたまま船室にもぐり,自死をはかる。ボートが船から離れないことに気づいた少女が,あわててともづなを斧で断ち切り,船に引き返す。老人は瀕死の状態で横たわっている。このとき少女は老人の命懸けの深い深い「愛」に気づく。そして,少女は老人を盥に入れてからだを洗い,結婚式を挙げる。そして老人は大満足で少女と二人ボートに乗って旅にでる。老人はボートを泊めて,初めての床をととのえる。花嫁を下着ひとつにして横たえ,老人は弓で音楽を奏でる。その間に花嫁は深い愛を感じながら眠りに落ちる。それを見届けるようにして,老人は身を翻して海に跳ぶ。漂流をはじめたボートは,なぜか,青年が待っている船にたどりつく。小躍りして喜ぶ青年。しかし,ここからさきは筆舌に尽くしがたい幻想的で,美しい,感動的な結末のシーンが待っている。このシーンにキム・ギドク監督は渾身のアイディアを注ぎ込んだに違いない。この映画の最大のクライマックスであり,同時に,セックスのクライマックスでもある。わたしは「度胆を抜かれ」た。こんな映画の描写の仕方があったのか,と。リアリズムをはるかに超える抽象的な表象の力。無限に広がる想像の世界。それは,無限であり,無間であり,夢幻でもある。
あまりの感動に驚いて,映画を見終わってから,あわててキム・ギドク監督とはいかなる人物かと調べてみたら,さらにびっくり。知らなかったのはわたしだけで,もう,つとに世界的に知られた著名な映画監督であった。その経歴をみると,2004年に『サマリア』でベルリン国際映画祭監督賞と『うつせみ』でヴェネチア国際映画祭監督賞の二つを,同時に受賞し,衝撃的なデビューをはたした,とある。以後,一作ごとに話題を呼んでいる,という。
それにしても,たいへんな映画を見てしまったものだ。この映画『弓』は,日本では2006年9月に公開された,という。そして,やはり,たいへんな話題になった,という。知らぬはわたしばかりなり,でいささか恥ずかしい。でも,遅ればせながら,キム・ギドクという監督を知ることができた。これは幸運なことだ。それも,「弓」という,スポーツ史的な単純な興味が動機だったのだから。「弓」は人間の究極の「愛」を描くための小道具でもあったのだ。
しばらくは,キム・ギドク監督作品の追っかけをすることになりそうだ。
たった90分でこれだけの感動を呼び起こす映画とは,凄いものである。
韓国の弓が日本のものと違って,桁違いに遠い距離の的を射る強力なものであることは,韓国の祭りを取材したときに見て知ってはいた。が,その弓に反響鼓をとりつけると立派な楽器に変身し(韓国二胡),じつに繊細な音楽を奏ではじめるではないか。それを予告編でちらりと見せられ,これは見なくてはいけない,と直観した。弓の弦が,いわゆる弦楽器の原型である,ということは知識として知ってはいた。しかし,実際の弓をそのまま楽器にして演奏するものは見たことがなかった。だから,びっくり仰天した。えーっ,韓国では弓を楽器としても使うのだ,と。
ただ,それだけの動機でこの映画を見るはめになった。韓国映画を見るのも初めてなら,キム・ギドク監督という名前を見るのも初めて。なんの予備知識もなくこの映画『弓』を見ることになった。それが,かえってよかったのだろうと,いまにして思う。まっさらの,白紙状態で,キム・ギドク監督映画を見るという僥倖に浴することができたのだから。
しかし,弓は武器や楽器となるだけではなかった。弓占いという占いの道具でもあった,ということをこの映画は教えてくれる。つまり,弓は三つの機能をもつものとして,いまも生きているということを。もっとも,考えてみれば,日本の平安時代の弓は天空にうごめく「邪気」を払うために射る「僻邪の弓」というものがあった。鏑矢はその残滓である。だから,弓占いというものがあっても不思議ではない。いまも祭礼の一部として行われる流鏑馬はその一種と考えてよいだろう。
こんなことを予測しながら,この映画を鑑賞することになった。たしかに,この映画では,弓は武器であり,楽器であり,占いの道具として大活躍するのだが,それだけでは終わらなかった。最後の最後のラスト・シーンでは,結婚初夜の性行為のシンボルとして「矢」が大きな役割をはたすことになる。この弓を縦横に活用しながら,人間の究極の「愛」を描き出そうという,キム・ギドク監督の意表をつく着想に度胆を抜かれてしまう。
ストーリーはじつに単純。ネタばらしをしてもこの映画の価値は少しも下がることはないだろう。海上に浮ぶボロ船で暮らす老人と少女。老人は釣り客をボートで運んできて,この船の上で釣りをさせ,生活を支えている。少女は7歳のときに,この老人に拾われて,この船の上で育てられる。少女が17歳になったら結婚することを生きがいにして,老人はかいがいしく少女の面倒をみる。盥に湯をはって少女の背中を洗い,夜は二段ベッドの上から手を延ばして少女の腕をさすり,手を握って眠りにつく。
少女と老人はじつに平和な日々を送り,幸せそのもの。しかし,17歳の誕生日が近づき,結婚式のために必要な道具や晴れ着を購入し,老人が着々とその準備がととのえていくときに,青年が釣り客として現れる。少女は恋に落ちる。こうして,老人と少女の間に致命的な亀裂が入る。ここから,この映画は急展開をはじめ,驚くべき「究極の愛」の数々が描かれていく。青年は少女を救い出すためにからだを張る。老人は青年を亡き者にしようとして弓を引く。とその前に少女が立ちはだかる。老人があきらめて青年と少女をおとなしく見送るとみせて,ボートのともづなに首をかけたまま船室にもぐり,自死をはかる。ボートが船から離れないことに気づいた少女が,あわててともづなを斧で断ち切り,船に引き返す。老人は瀕死の状態で横たわっている。このとき少女は老人の命懸けの深い深い「愛」に気づく。そして,少女は老人を盥に入れてからだを洗い,結婚式を挙げる。そして老人は大満足で少女と二人ボートに乗って旅にでる。老人はボートを泊めて,初めての床をととのえる。花嫁を下着ひとつにして横たえ,老人は弓で音楽を奏でる。その間に花嫁は深い愛を感じながら眠りに落ちる。それを見届けるようにして,老人は身を翻して海に跳ぶ。漂流をはじめたボートは,なぜか,青年が待っている船にたどりつく。小躍りして喜ぶ青年。しかし,ここからさきは筆舌に尽くしがたい幻想的で,美しい,感動的な結末のシーンが待っている。このシーンにキム・ギドク監督は渾身のアイディアを注ぎ込んだに違いない。この映画の最大のクライマックスであり,同時に,セックスのクライマックスでもある。わたしは「度胆を抜かれ」た。こんな映画の描写の仕方があったのか,と。リアリズムをはるかに超える抽象的な表象の力。無限に広がる想像の世界。それは,無限であり,無間であり,夢幻でもある。
あまりの感動に驚いて,映画を見終わってから,あわててキム・ギドク監督とはいかなる人物かと調べてみたら,さらにびっくり。知らなかったのはわたしだけで,もう,つとに世界的に知られた著名な映画監督であった。その経歴をみると,2004年に『サマリア』でベルリン国際映画祭監督賞と『うつせみ』でヴェネチア国際映画祭監督賞の二つを,同時に受賞し,衝撃的なデビューをはたした,とある。以後,一作ごとに話題を呼んでいる,という。
それにしても,たいへんな映画を見てしまったものだ。この映画『弓』は,日本では2006年9月に公開された,という。そして,やはり,たいへんな話題になった,という。知らぬはわたしばかりなり,でいささか恥ずかしい。でも,遅ればせながら,キム・ギドクという監督を知ることができた。これは幸運なことだ。それも,「弓」という,スポーツ史的な単純な興味が動機だったのだから。「弓」は人間の究極の「愛」を描くための小道具でもあったのだ。
しばらくは,キム・ギドク監督作品の追っかけをすることになりそうだ。
たった90分でこれだけの感動を呼び起こす映画とは,凄いものである。
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