2013年4月26日金曜日

「<力>──この空恐ろしいもの」(真島一郎)について。科学では説明不能の潜在能力。

 4月20日(土)に開催された研究会(「ISC・21」4月神戸例会・世話人竹谷和之)で,ゲスト・スピーカーの真島一郎さん(東京外国語大学教授)が,じつに内容の濃いお話を理路整然と展開してくださり,聴くものを魅了してくださいました。そのお話の中核になる概念をひとことで言ってしまえば<力>。わたしたちがなにげなく用いている<力>とはいったいどういうものなのか,という深い問いを立て,さまざまな視点からの分析・考察を展開し,まことに示唆に富む,いくつかの問題を提起してくださいました。

 もちろん,ここで言っている<力>は物理的な力学の話でも,経済学でいう予測や計算の可能な経済力でもありません。そういう近代的なアカデミズムの合理的思考の枠組みには収まり切らない<力>,あるいは,近代合理主義的な制度や組織からこぼれ落ちてしまう,予測不可能な,しかし厳然として人の生の源泉に渦巻いている<力>のことです。この<力>こそ,文明化社会がないがしろにしてきた,人間の根源に宿る動物性にも似たバイタリティです。この<力>こそ,ある意味では無限の可能性を感じさせると同時に,人間の理性を超えでていく「空恐ろしい」ものでもあると真島さんは位置づけます。

 こうした真島さんの発想の根底には,わたしたちの知っているかぎりでは,アフリカ・コートジボアールのダン族の「霊力・呪力を競うすもう」があります。力士たちは,呪術師やサポーターたちから送られる霊力や呪力を全身で受け止め,それをすもうの<力>に変え,みずからの名誉のために闘います。そのとき,わたしたちのような(真島さんもふくめて)文明化社会に生まれ育った人間にはみえない,さまざまな<力>が,すもうを取っているその場には乱れとんでいるのだそうです。その<力>が,ダン族の人びとにはみんな見えている。その<力>を目の当たりにしながら,持参の呪具をふりかざし,声をからして,みんなが応援をする。当然のことながら,力士たちはそれらの<力>を全身で受け止めながら,相手力士と名誉をかけて闘います。そうして,勝利を収めた力士は,そのときの感動をはたしてどのように語るでしょうか,と真島さんはわたしたちに問いかけてきます。

 プロ野球のヒーロー・インタヴューや,オリンピックの金メダル獲得直後のインタヴューなどでは,選手たちは異口同音に「応援してくださったみなさんのおかげです」という。あらかじめ,メディアのインタヴューの応答の仕方をマニュアルとおりにしている選手が圧倒的に多い。しかし,なかには,こころの底からそう感じ,そう信じて「応援してくださったみなさんに支えられてこの結果があります」と心情を吐露する選手も少なくありません。このときの選手の心情と,ダン族の力士の心情とはほとんど変わらないのではないか,と真島さんは指摘されます。

 トップ・アスリートたちがときおり経験する「異次元」世界のパフォーマンスと,ダン族の力士たちの呪力に身をゆだねていく非日常の世界でのパフォーマンスとは,ほとんど違いはないのではないか,というわけです。そこではたらいている<力>は「空恐ろしい」ものでもある,と真島さんは力説なさいます。わたしも,まったく,同感です。

 こうして真島さんは,この「空恐ろしい」<力>とはなにか,ということをいくつもの事例を引き合いに出しながら多面的・多層的に説明をしてくださいました。そのうちのひとつが,わたしには強烈な印象となって残っていますのでご紹介したいと思います。それは以下のようなお話です。

 IMFや世界銀行などが,アフリカ諸国で生きている人びとの年収を計算してみると,とてもではないけれども生きてはいけない程度の年収でしかないのに,立派に生活している人びとがいる。どうしてこういうことが可能なのか,と大きな議論を呼んでいるそうです。そして,これを「賃金の謎」と呼ぶそうです。つまり,こんにちの経済学の計算によれば,生活が成り立たないはずなのに,生きている人たちが厳然として存在する。つまり,カネなどなくても生きていくことは可能だということです。その生きる<力>はいったいどこからくるのか,というわけです。

 その謎解きのひとつの例として,真島さんがダン族の社会で暮らしていたときの経験談をしてくださいました。食べ物がなくなって空腹に耐えられなくなると,真島さんは日本の「石焼き芋」の歌を歌って歩くことにしていた,といいます。すると,かならず村のだれかが現れて,真島さんに食べ物を与えてくれた,というのです。もちろん,「石焼き芋」の歌をダン族の人たちが知っているわけはありません。あらかじめ,真島さんが「腹が減っても食べ物がないときの歌」として村の人たちに教えてあったのだそうです。ですから,この歌を歌えば「マジマが困っている」と受け止め,みんなが救いの手を差し伸べてくれた,という次第です。

 この話を聞きながら,沖縄では「催合」に入っていればおカネが一銭もなくなっても,だれかが助けてくれる,という話を思い浮かべていました。つまり,賃金以外のところで機能する<力>が,資本主義経済が世界を支配する以前には立派に存在していた,ということです。それがマルセル・モースのいう「贈与経済」のシステムです。当然のことながら,真島さんもマルセル・モースの『贈与論』に触れて,ものを与える義務がある,ものを受け取る義務がある,この贈与交換の「義務」とはなにか,というお話になりました。そして,この「贈与経済」のシステムのなかにこそ計算不可能な<力>がはたらいている,というところまでわかりやすく説明をしてくださいました。

 ここからさらに,伊藤ルイさんの話に及びます。伊藤ルイさんは,大杉栄と伊藤野枝の娘として誕生しますが,この両親の呪縛から逃れるために必死の努力をし,みずからの生きる道を模索していきます。しかし,気がつけば,自分もまた両親と同じような社会運動に身を投じていた,といいます。この伊藤ルイさんが,ある日,バス停で並んで待っていたら,老婆が現れて「どなたさまも,おはようございます」と挨拶をする。よく観察していると,この老婆はバス停にくると毎回,だれかれかまわず「どなたさまも,おはようございます」と挨拶をしている。この挨拶の仕方に感動した伊藤ルイさんは,この老婆と親しくなっていきます。

 この老婆に感動する「心性」,あるいは「眼」は,伊藤ルイさんが忌避しようとした大杉栄と伊藤野枝の「まなざし」とまったく同じものだ,と真島さんは指摘します。一見,矛盾するようですが,アナーキズムの考え方のなかには,この老婆の発する「どなたさまも,おはようございます」という挨拶とが同居しているのだ,と真島さんは主張されます。そして,「人間の生の源泉に触れる経験」という表現を大杉栄は何回もくり返しているとのことです。このフレーズは,わたしが,多くの人びとがスポーツに魅了されていく原動力はいったいなにか,ということを説明するときに用いてきたものと同じです。

 ですから,こういうお話を真島さんから聞かせていただいて,わたしはびっくりしてしまいました。わたしの考えていることが,まさか,大杉栄のアナーキズムの考え方に通底しているとは,夢にも思っていなかったからです。ここのあたりのところは,また,機会をあらためて真島さんとお話ができればなぁ,と夢見ているところです。

 ちょっと,長くなりすぎていますので,今日のブログはこのあたりで終わりにしたいと思います。
 もちろん,また,テーマを変えて,真島さんのお話「<力>──この空恐ろしいもの」のつづきを,このブログでも取り上げてみたいと思っています。

 取り急ぎ,今日のところは,ここまで。

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