今日(16日)は聴講生の第二回目。先週は第一回目ということもあって,ことしの講義計画の全体の見取り図を総ざらいするお話でした。が,いよいよ今日から各論に入りました。N教授の弁舌もしだいに熱を帯びてきました。それにつれて,学生さんたちの聴く姿勢の集中度も高まっていくのが,肌をとおしてつたわってきます。教室の中がひとつになっていくのが伝わってきて,坐って聴いているだけなのに,とても心地よい。まさに,今日の講義の大きなテーマのひとつである「人間がことばというメディアと同化していく」という,そのプロセスを受講生全員が同じ経験を共有しているその快感といえばいいでしょうか。
N教授のこの授業は,二つの学部の学生さんに向けて同時開講されていて,それぞれ異なる講義題目になっているけれども,それぞれに単位を認定することになっています。その講義題目のひとつは「戦争とメディア」です。
そこで,まずは,メディアとはなにか,というところから話をはじめましょう,とN教授。まずは,これから展開していく講義の「足もと」を固めておきましょう,というわけです。こうして,メディアの語源や概念についてひととおりお話があったのちに,そのメディアのなかでもっとも大きな枠割をになっているのが「ことば」である,と。
そして,人間はことばを話すことによって行動を組織していく生きものである,と大きなテーゼを提示。わたしたちはことばをとおして世界というものの輪郭やパースペクティーブを獲得していきます,と。つまり,ことばをとおして人間と世界の関係をつくっていく。たとえば,名前をつける,対象や事物を規定する,つまり,世界を切り取る,という作業をする。こうして,お互いに経験を共有することができるようになっていく。(このあたりのところを,わたしはジョルジュ・バタイユのいう内在性から人間性への<横滑り>という仮説を思い浮かべながら聞いていました。そして,ことばは言霊でもあったはずなのに,どうして魂が抜け落ちていくのだろうか,などとも考えながら。)
ところが,ことばはわれわれの自由にはならない。ことばは自分ではつくれない。生まれたときから聞こえてくるものであって,そのことばを身につけるということは,ことばがからだに刻まれることであり,ことばの回路にからだを合わせていく,つまり,ことばというものは圧倒的受身のもとにあるものだ,というわけです。
こうして,N教授は,認識論や存在論ということばをひとことも用いることなく,人間が世界を認識する仕組みや,人間が世界のなかに存在することの様態について,さまざまな事例をとりあげて説明をしていきます。そうした一つひとつを全部ここで紹介することはできませんので,わたしにとって印象に残った話題の概略だけをとりあげてみたいと思います。
わたしたちはことばによって造形される,つまり,人になる,というところからはじまるN教授のお話はわたしにとっては強烈な印象を残しました。人間はことばをとおしてものを考え,ことばを用いて表現していきます。そのとき,日本語でいう人間と,英語でいう人間は,大枠においては同じ意味であるけれども,厳密にいうと,そこには意外におおきな差異がある,というわけです。たとえば,英語では人間は単数で抽象的に存在するもの(the man,humankind)として考えられています。が,日本語では,人間とは「じんかん」であって,もともとは「世のなか」を意味していて,それは「世間」と同じ意味でした。つまり,複数的存在として考えられていました。「人になる」ということはそういうことなのだ,と。
ということは,ヨーロッパ語で世界を考えることと,日本語で世界を考えることとの間には相当に大きな差異がある,ということになります。しかし,ヨーロッパの世界化のはじまり(15世紀)とともに,様相は一変していきます。言ってみれば,それは「世界史」のはじまりでもあります。その波は日本にも押し寄せてきました。19世紀半ばには西洋化の波に日本が取り込まれていく,あるいは,進んで西洋を取り込もうとしていきます。いわゆる,日本の近代化のはじまりです。
このとき,日本はなにから始めたかといいますと,「ことばの総とりかえ」,すなわち,「翻訳」という作業にとりかかります。幕末・明治にはヨーロッパからいろいろのものが日本に移入されてきます。たとえば,産業に関するもの(兵器,機械,カメラ,など)をはじめ,社会の制度・組織,憲法や法律,技術・知識・学問,などなにからなにまでヨーロッパから移入されてきます。そして,このとき,わたしたちの眼に見えるものはなんとか理解できます。つまり,視覚化できるものは,比較的容易にそれを受け止め,消化・吸収していくことができました。しかし,眼にみえないもの,概念で理解するものは容易ではありませんでした。そこではヨーロッパ語を日本語に「翻訳」するということが不可欠となりました。ですから,日本の西洋化は翻訳からはじまります。
こうして,翻訳とはどういうことなのか,というお話がひとしきりありました(細部は割愛)。その翻訳の最後の総仕上げともいうべき,ヨーロッパの哲学をどのようにして日本に移入したのか,という話になりました。哲学こそヨーロッパの抽象概念で塗り固められた知の体系です。井上哲次郎は,まずは,哲学の日本語の語彙を増やすことから着手します。中江兆民もルソーの『社会契約論』を日本に紹介しますが,翻訳することは不可能(語彙がない)なので,内容を意訳することになります。こうして,哲学の領域ではたいへんな苦労が重ねられていきます。
そうして,ヨーロッパの哲学用語の概念を十分に咀嚼した上で,それらの概念をベースにして哲学を日本語で語った最初の哲学者が西田幾多郎だ,というわけです。その処女作が『善の研究』というわけです。こうして,日本語で哲学するという営みがはじまります。これは画期的なことでした。
しかし,そこには大きな落とし穴が待ち受けていました。ヨーロッパの哲学が日本人の前に解き放たれると,こんどは,自分たちで勝手に理想的な概念を構築して,他者を受け付けない自閉した思想運動が持ちあがってきました。それが,大東亜共栄圏という考え方でした。この思想は,西田幾多郎による哲学の解放と同時に,自閉する哲学をも可能とする鬼子のようなものとして時代の寵児となります。その結果が,第二次世界大戦への突入という,大きな悲劇を生むことになったことは周知のとおりです。
ここから,いよいよ,この授業が佳境に入るな,と期待したとき,無情にも終わりのチャイムが鳴りはじめました。「戦争とメディア」のひとつの論理的帰結が,このさきに待っていたはずです。たぶん,つぎの授業は,このつづきから入ることになるのでしょう。それを楽しみにしたいと思います。
というところで,第二回目のレポートは終わりです。
N教授のこの授業は,二つの学部の学生さんに向けて同時開講されていて,それぞれ異なる講義題目になっているけれども,それぞれに単位を認定することになっています。その講義題目のひとつは「戦争とメディア」です。
そこで,まずは,メディアとはなにか,というところから話をはじめましょう,とN教授。まずは,これから展開していく講義の「足もと」を固めておきましょう,というわけです。こうして,メディアの語源や概念についてひととおりお話があったのちに,そのメディアのなかでもっとも大きな枠割をになっているのが「ことば」である,と。
そして,人間はことばを話すことによって行動を組織していく生きものである,と大きなテーゼを提示。わたしたちはことばをとおして世界というものの輪郭やパースペクティーブを獲得していきます,と。つまり,ことばをとおして人間と世界の関係をつくっていく。たとえば,名前をつける,対象や事物を規定する,つまり,世界を切り取る,という作業をする。こうして,お互いに経験を共有することができるようになっていく。(このあたりのところを,わたしはジョルジュ・バタイユのいう内在性から人間性への<横滑り>という仮説を思い浮かべながら聞いていました。そして,ことばは言霊でもあったはずなのに,どうして魂が抜け落ちていくのだろうか,などとも考えながら。)
ところが,ことばはわれわれの自由にはならない。ことばは自分ではつくれない。生まれたときから聞こえてくるものであって,そのことばを身につけるということは,ことばがからだに刻まれることであり,ことばの回路にからだを合わせていく,つまり,ことばというものは圧倒的受身のもとにあるものだ,というわけです。
こうして,N教授は,認識論や存在論ということばをひとことも用いることなく,人間が世界を認識する仕組みや,人間が世界のなかに存在することの様態について,さまざまな事例をとりあげて説明をしていきます。そうした一つひとつを全部ここで紹介することはできませんので,わたしにとって印象に残った話題の概略だけをとりあげてみたいと思います。
わたしたちはことばによって造形される,つまり,人になる,というところからはじまるN教授のお話はわたしにとっては強烈な印象を残しました。人間はことばをとおしてものを考え,ことばを用いて表現していきます。そのとき,日本語でいう人間と,英語でいう人間は,大枠においては同じ意味であるけれども,厳密にいうと,そこには意外におおきな差異がある,というわけです。たとえば,英語では人間は単数で抽象的に存在するもの(the man,humankind)として考えられています。が,日本語では,人間とは「じんかん」であって,もともとは「世のなか」を意味していて,それは「世間」と同じ意味でした。つまり,複数的存在として考えられていました。「人になる」ということはそういうことなのだ,と。
ということは,ヨーロッパ語で世界を考えることと,日本語で世界を考えることとの間には相当に大きな差異がある,ということになります。しかし,ヨーロッパの世界化のはじまり(15世紀)とともに,様相は一変していきます。言ってみれば,それは「世界史」のはじまりでもあります。その波は日本にも押し寄せてきました。19世紀半ばには西洋化の波に日本が取り込まれていく,あるいは,進んで西洋を取り込もうとしていきます。いわゆる,日本の近代化のはじまりです。
このとき,日本はなにから始めたかといいますと,「ことばの総とりかえ」,すなわち,「翻訳」という作業にとりかかります。幕末・明治にはヨーロッパからいろいろのものが日本に移入されてきます。たとえば,産業に関するもの(兵器,機械,カメラ,など)をはじめ,社会の制度・組織,憲法や法律,技術・知識・学問,などなにからなにまでヨーロッパから移入されてきます。そして,このとき,わたしたちの眼に見えるものはなんとか理解できます。つまり,視覚化できるものは,比較的容易にそれを受け止め,消化・吸収していくことができました。しかし,眼にみえないもの,概念で理解するものは容易ではありませんでした。そこではヨーロッパ語を日本語に「翻訳」するということが不可欠となりました。ですから,日本の西洋化は翻訳からはじまります。
こうして,翻訳とはどういうことなのか,というお話がひとしきりありました(細部は割愛)。その翻訳の最後の総仕上げともいうべき,ヨーロッパの哲学をどのようにして日本に移入したのか,という話になりました。哲学こそヨーロッパの抽象概念で塗り固められた知の体系です。井上哲次郎は,まずは,哲学の日本語の語彙を増やすことから着手します。中江兆民もルソーの『社会契約論』を日本に紹介しますが,翻訳することは不可能(語彙がない)なので,内容を意訳することになります。こうして,哲学の領域ではたいへんな苦労が重ねられていきます。
そうして,ヨーロッパの哲学用語の概念を十分に咀嚼した上で,それらの概念をベースにして哲学を日本語で語った最初の哲学者が西田幾多郎だ,というわけです。その処女作が『善の研究』というわけです。こうして,日本語で哲学するという営みがはじまります。これは画期的なことでした。
しかし,そこには大きな落とし穴が待ち受けていました。ヨーロッパの哲学が日本人の前に解き放たれると,こんどは,自分たちで勝手に理想的な概念を構築して,他者を受け付けない自閉した思想運動が持ちあがってきました。それが,大東亜共栄圏という考え方でした。この思想は,西田幾多郎による哲学の解放と同時に,自閉する哲学をも可能とする鬼子のようなものとして時代の寵児となります。その結果が,第二次世界大戦への突入という,大きな悲劇を生むことになったことは周知のとおりです。
ここから,いよいよ,この授業が佳境に入るな,と期待したとき,無情にも終わりのチャイムが鳴りはじめました。「戦争とメディア」のひとつの論理的帰結が,このさきに待っていたはずです。たぶん,つぎの授業は,このつづきから入ることになるのでしょう。それを楽しみにしたいと思います。
というところで,第二回目のレポートは終わりです。
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