2013年4月3日水曜日

「型にとらわれないで,もっと自由に演じなさい」(李自力老師語録・その29.)

 ある日の稽古が終わったあとで,李老師がとても興味ぶかいお話をしてくださいました。結論から言いますと,「型にとらわれないで,もっと自由に演じなさい」という内容のお話でした。以前から,この趣旨のお話を何回もなさるのですが,頭では理解したつもりでも,なかなか実行はできません。とくに,わたしなどは教えていただいたことをそのとおりに再現しなくてはいけないと考えてしまい,結果的には,動きがガチガチで,とても窮屈な太極拳を演ずることになってしまいます。李老師は,もっと力を抜いて自由に・・・と仰います。

 しかし,わたしの「ガチガチな太極拳」と,李老師が仰る「もっと力を抜いて自由に」という太極拳の間には,とてつもなく深い溝があるようです。それは,まったく次元が違う話だということが,最近になって徐々にわたしの中で納得できるようになってきました。李老師は,その溝を埋めるべく,つぎのようなお話をしてくださいました。

 李老師のところに,ある団体の指導者Aさんと,そのお弟子さんであるBさんが二人で訪ねてきて,教えを乞うたことがありました。で,早速,Bさんの表演を見せてもらいました。とても上手で,一つひとつの動作はほとんど問題はないのに,どこか表演そのものが死んでしまっています。そこで,李老師は,Aさんにいつものように稽古をしながら指導をしてみてください,と頼みました。すると,これまた,じつに丁寧に,細かな動作一つひとつに注意を与えて,みごとな指導ぶりを見せてくれました。Bさんも,少しでも注意されなくてすむように,と正確な動作をしようと必死です。しかし,太極拳にとって一番大事なことが欠けていることを見抜いた李老師は,つぎのような指示をしたそうです。

 Aさんの指摘は一つひとつみんな的確で,正しい。しかし,みんな間違っています。なぜなら,Bさんはすでに基本の型とは異なるBさん特有の動きをしはじめています。この動きをAさんは直そうとしていたのです。つまり,型にはめ込もうとしていたのです。しかし,李老師は,このBさん特有の動きをそのまま演じなさい,と命じます。すると,とたんにBさんの動きが生き生きとしてきました。しかし,基本の動きとしてはかなり逸脱しています。でも,これでいいのです,と李老師。この方が,とてもいい感じの太極拳です,と。(この話には後日談があって,Bさんは,つぎの試合のときに李老師に言われたとおりに基本の型をあまり意識しないで,ありのまま自由に演じて,みごと優勝したそうです。)

 つまり,太極拳を演ずる人が,基本の型にとらわれてしまって,気持ちよく動く心地よさを感じていないとしたら,それは「太極拳ではない」と李老師は仰います。大事なのは,太極拳を演じているときに感ずる「心地よさ」なのだ,と。その「心地よさ」を感じとりながら太極拳を演ずるとき,その「心地よさ」が見る人のこころにも伝わってきます。そこが太極拳を演ずるときのもっとも大事なポイントであり,ツボだというわけです。そこを忘れてしまって,ただ,基本の型どおりに演ずるだけでは,人を感動させることはできません,と李老師は仰います。

 ちょうど,こんなことを考えていたら,『哲学のヒント』(藤田正勝著,岩波新書,2013年2月刊)のなかにある,つぎのような文章に出会いました。

 芸道でも武道でも,初心者は当然,そういう「形」をまねるというところから入っていきます。修行ということを考えたとき,それは重要な意味をもっています。しかし「形」をまねることに終始すれば,それから離れ,自由になることはできません。むしろそれに縛られます。そのことを柳は「型に滞る」,と表現したのです(P.180.)。

 ここにでてくる柳とは,あの民藝運動を展開した柳宗悦のことです。『柳宗悦 茶道論集』を引き合いに出しながら,藤田正勝は「形」と「型」の違いを説明しています。そして,さらに,つぎのように締めくくっています。

 「形」から入りながら,しかしそれが自分のものとなり,自由にふるまえるようになったとき,「形」が「型」になると言えるでしょうか。これは逆に言えば,自然なものが自然なものになるためには,多くの修練が必要であるということです。そういう修練をへて,「ものの精髄」にまで達することを,柳は「型を活かしきる」という言葉で表現したように思います(P.180.)。

 李自力老師もまた,このことをわたしたちに伝えたかったのだろうと,いまにして納得です。太極拳の奥義や精髄をことばで表現することは,ほとんど不可能に近いことだとわたしは考えています。そのことを一番よくわかっていらっしゃるのが李老師でしょう。でも,それをなんとかして伝えたい,それがさきに紹介したような事例を用いての李老師の説明なのでしょう。求められるのは,それを聞き取るわたしたちのレシーバーの感度の良さ,ということになるのでしょう。

 「型に滞る」ことなく,「型を活かしきる」ところにまで到達すること,それを李老師は「型にとらわれないで,もっと自由に演じなさい」とわたしたちに説いてくださったのだと思います。

 太極拳の道を極めるということは,藤田正勝さんに言わしめれば,まさに「哲学する」こと以外のなにものでもありません。それが「生きた哲学」なのだ,と。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私も李さんのファンです!必ず拝見してます。いつもありがとうございます。今月の7日に中野区区民体育館で李さんの表演があります、先生がおっしゃっている表演をみられるのがたのしみです!李さんは口がずが少ないので先生の李語録は参考になります、これからもよろしくお願いします!