2015年2月7日土曜日

「スポーツ学」とはなにか。その10.スポーツとはなにか。Ⅱ.スポーツは「贈与」である。

 このシリーズ,少し休んでしまいましたが,再開したいとおもいます。これからも,とびとびになるかも知れませんが・・・・。

 マルセル・モースの名著である『贈与論』は,わたしの考える「スポーツとはなにか」という問いに対して,じつに多くのヒントを提供してくれるとてもありがたいテクストです。現代社会で用いられている「贈与」ということばはどこかうさんくさい匂いがしますが,マルセル・モースの言う「贈与」はそれとはまるで別世界の用語です。

 かんたんに触れておけば,近代経済学(資本主義経済)が確立する以前の,前近代までの経済の根本原理は「贈与」にあった,ということを人類学的手法を用いて明らかにしたもの,それがマルセル・モースの『贈与論』です。この『贈与論』のなかで展開されている一つの重要な概念に「ポトラッチ」という前近代社会の習俗があります。

 たとえば,ポリネシアの島々では,島から島へと「贈与」が行われていた時代があります。それは,ある島で冨(財産)が蓄積されると,その冨をあまり豊かではないとおもわれる島にプレゼント(贈与)します。それを受けとった島は,そのプレゼントにさらに冨を加えて,また,別のあまり豊かではないとおもわれる島にプレゼントします。こうして,つぎからつぎへとプレゼントを繰り返しているうちに,とてつもなく大きな冨となって,もとの島にもどってきます。すると,この冨をみんなのみている前で惜しみなく海に棄ててしまったり,火を放って燃やしてしまいます。そうして,一旦,冨をゼロにしてしまいます。こうした「贈与」行為を「ポトラッチ」と呼びます。

 こうした「ポトラッチ」は,個人のレベルでも行われます。たとえば,ある島の中で,ある特定個人が必要以上に冨を蓄積した場合,この冨を近所の困っている人にプレゼントして,自分はゼロからスタートし直します。このプレゼントを受けとった人は,この冨に少しでも上乗せをして,これをまた別の困っている人にプレゼントします。こうして,巡り巡ってふたたび最初にプレゼントした人のところにもどってきます。すると,そのとき自分が所有していた冨と併せて,みんなのみている前で海に棄ててしまったり,火を点けて燃やしてしまいます。そして,一旦,ゼロの状態にもどします。

 あるいは,一年一度,必要以上に冨がたまってしまった人は,その冨をみんなに分け与えてしまい,ゼロにもどして,再スタートを切るということも行われていたことが知られています。

 こうした個人のレベルでの「ポトラッチ」は,「男らしさ」の証とされ,人びとの信頼をえることになり,みずからの住み心地をよくするための文化装置だったのではないか,と考えられています。島から島への「ポトラッチ」は,一種の平和外交と考えられ,敵愾心はありませんよ,戦争をする冨はもっていませんよ,という証として行われたのではないか,と考えられています。

 こうした,個人,または,集団がもっている冨を「贈与」する行為は,貧富の格差の解消を目指すと同時に,つねに身の潔白を証明する行為として考えることもできます。言ってみれば,無償の「消尽」と同じような意味をもっていたのではないか,と。つまり,冨を溜め込まないで,公衆の面前で「消尽」する,そして,ゼロにして再スタートを切る,これが「みんな仲良く暮らしていく」ための智恵の所産だったのではないか,という次第です。

 このもっとも典型的な文化装置のひとつが「祝祭」(日本で行われてきた「お祭り」)です。年に一度,蓄積された冨を「消尽」することを,集落全員で言祝ぐための文化装置,というわけです。こんにちでも,お祭りの「寄付」をけちると,その家の屋敷の中で,神輿が暴れたり,獅子舞いが暴れたりして,それなりの見せしめが行われることはよく知られているとおりです。

 さて,前置きが長くなってしまいましたが,この「ポトラッチ」という「贈与」の話をひととびにスポーツにつなげてみたいとおもいます。

 たとえば,古代ギリシアで行われていたオリンピアの祭典競技(古代オリンピック競技)で繰り広げられた「祝祭」は,まさに,この「ポトラッチ」の精神,すなわち「消尽」が重要な役割をはたしていたと考えていいでしょう。それぞれのポリスを代表して出場する選手たちは,それぞれにゼウスの神殿の前で生贄の牛を捧げ,祈ります。そして,殺した牛の血を祭壇に塗り,肉は焼いてみんなで分け合い,共食します。その上で,選手たちは,それぞれの競技で全力を出し切り,全エネルギーを「消尽」します。そうすることによって,ゼウス神の神判を受けるわけです。古代ギリシアの人びとは,勝敗は神の意思によって決まると信じていました。ですから,競技は人間(ポリス市民)から神への「贈与」として行われていた,と考えることができます。

 これが近代オリンピック競技になりますと,すっかり様変わりをしたかにみえますが,その骨格の部分はほとんど変わってはいません。たとえば,ゼウス神が,別の「神さま」に変わっただけの話です。選手たちはそれぞれの信仰のレベルで「神さま」に祈っています。いわゆる必勝祈願です。あるいは,古来からの神さまの代わりに,「科学」や「経済」という新しい「神さま」に祈りをささげています。つまり,新しい「神話」(「科学神話」,「経済原則」,「自由競争」,など)の世界に,こんにちのアスリートたちの身体はからめ捕られ,もはや,そこから抜け出すことは不可能になってさえいます。それは,日々のトレーニングからしてそうです。

 近代のスポーツ競技は,こうした新しい神々への「贈与」ではないか,とわたしは考えています。つまり,自己を超越するものへの「贈与」というわけです。

 このあたりのことも書きはじめますと,際限がありませんので,ここではこの程度にとどめおきたいとおもいます。しかし,もう一点だけ触れておきたい重要なことが,「スポーツ贈与論」としては不可欠ですので,その点については書いておかなければならないとおもいます。

 が,すでに,長くなっていますので,この稿はここで一旦,カットして,この稿の「つづき」として書いてみたいとおもいます。
 ということで,今日のところはここまで。
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