2015年2月25日水曜日

「甘樫丘」は「阿毎ケ氏の丘」(あまがしのおか)。蘇我氏の姓は「阿毎」(柴田晴廣)。

 前回のブログで飛鳥をフィールド・ワークしてきた総論的な話を書きました。そこに,甘樫丘の展望台に立ったときの感想を書きました。すなわち,甘樫丘は蘇我氏の拠点であったこと,しかも,飛鳥を一望のもとに見下ろすことのできるロケーションであること,天皇の宮をも上から見下ろすポジションにあること,だから,飛鳥時代の蘇我一族は最高の権力者であったに違いない,と。

 すると,すぐに,柴田晴廣さんから「乙巳の乱までは蘇我一族が大王家」であり,中国の『隋書』には,蘇我氏のことを「姓は阿毎(あま)」であると記述されている,だから,蘇我氏が拠点としていた「甘樫丘」は「阿毎ケ氏の丘」を意味している,というご指摘がありました。そして,詳しくは「拙著『牛窪考・補遺』(改訂版)(電子版)を参照せよ,と。

 簡潔で,あまりにみごとな説明に思わず唸ってしまいました。

 そこで,柴田さんから送られてきていたファイルをあわてて開いて読んでみました。わたしの不勉強をさらけ出すようで恥ずかしいばかりですが,そこには「よくぞ,ここまで調べ上げたものだ」と驚くばかりの記述が延々と書きつらねられていました。まあ,いつものことながら,柴田さんの隠されたもうひとつの日本史の謎解きに寄せる情熱に,一種のめまいすら覚えながら『牛窪考・補遺』(改訂版)を読みふけることになりました。その仮説と論考の展開は,驚くことばかり。

 だからといって,この柴田説をまるのみにしてしまったら,わたしの謎解きはなくなってしまいます。それでは面白くないので,柴田説に寄り掛かりながらも,ここはあえて初心者の素朴な疑問を書きつらねてみたいとおもいます。

 まずは,『隋書』に記述されている「姓はアマ(アメ),名はタシリヒコ,号はオオキミ」という情報は,いったい,だれが伝えたものなのでしょうか。『日本書紀』によれば,小野妹子が第2回目と第3回目の遣隋使として派遣されています(第1回目の記述はなし)。単純に考えれば,小野妹子が伝えたということになります。小野妹子と同時代の代表的な人物といえば推古朝の聖徳太子であり,蘇我氏でいえば馬子です。

 だとしたら,聖徳太子・馬子の認識では,大王(おおきみ)であった蘇我氏の姓は「アマ(アメ)」という点で一致していた,ということになります。この「アマ(アメ)」に相当する文字は,『隋書』の「阿毎」だけではなく,「天」「海人」「海部」「海」,などが思い浮かびます。

 ですから,柴田さんは「大海人」は蘇我氏の血を引く人物と推定し(『牛窪考・補遺』改訂版),むしろ,中大兄の方こそ出自不明としています。この二人が兄弟ではないことは,すでに多くの人が指摘しているとおりです。だとしたら,だれが,なんのためにこの二人を兄弟とし,皇極・斉明の息子としたのでしょうか。そして,皇極・斉明とは,いったい,なにものなのでしょうか。

 このあたりに「万世一系」の天皇家を合理化するための諸矛盾が凝縮されているようにおもえてなりません。たぶん,柴田さんの書かれた『穂国幻史考』をきちんと読めば,すでに解読済みのことなのでしょう。あとで,確認しておきたいとおもいます。

 それにしても「甘樫丘」を「阿毎ケ氏の丘」と読み解くことによって,柴田さんは,めくるめくような日本史の隠された系譜を明らかにしていきます。阿毎ケ氏を蘇我氏と読み解くことによって,歴史の表舞台から消されてしまった蘇我氏の末裔が「海部」(あまべ)となり,「余部」(あまべ)となっていった可能性を探っていきます。当然のことながら,野見宿禰や菅原道真との関係,橘家との関係,そして,河童・兵主部(ひょうすべ)との関係にまで触手を伸ばしていきます。

 こうなってきますと,もう一度,甘樫丘の展望台に立って,蘇我氏から河童までのはてしない夢物語を追ってみたいとおもいます。気がつけば,柴田さんの謎解きの術中にはまりはじめてしまったようです。

 さてはて,そんな謎解きのための時間が与えられているのだろうか,といよいよ残された時間をカウントしなければならなくなってきました(笑い)。
 
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