2015年2月26日木曜日

「力を用いず,意識を用いよ」・李自力老師語録・その55。

 久しぶりの「李自力老師語録」です。このところ李老師がけたたましく忙しい日程を過ごしておられ,わたしたちの稽古に顔を出すことがめっきり少なくなっていました。そこへ,ひょっこりと李老師のお弟子さんである劉志老師が遊びにきてくださいました。まあ,言ってみれば,李老師の師範代
というところ。

 したがって,今日の語録「力を用いず,意識を用いよ」は劉志老師のことばです。子どものころから李老師に師事し,日本への留学も李老師のあとを追ってのものでした。そして,博士号取得も李老師と同じ道を歩みました。博士論文の骨子は「太極拳と道家思想」です。つまり,文武両道をみごとに成立させているという点でも,李自力老師と同じです。

 ですから,劉志老師のことばは李自力老師のことばと受け止めても,なんのさしつかえもないものだ,とわたしは確信しています。ので,このシリーズに加えておきたいとおもいます。

 その劉志老師が,わたしたちの稽古をみていての「ひとこと」(これはわたしの求めに応じたもの),それが表題の「力を用いず,意識を用いよ」というものでした。

 結論から言ってしまえば,もっと,からだの力を抜きなさい,そして,意識をのびやかに広げていきなさい,ということだと受け止めました。

 からだの力を抜く,このことばの平易さとは裏腹に,実際に実行するとなると,こんなにむつかしい身体技法はありません。からだの力が抜けるということは,太極拳に熟達して,余分な筋肉を使うことなく,必要な筋肉を最小必要限度だけ動かすことができるようになること,と同義です。もっと言ってしまえば,筋肉を作動させているということすら忘れてしまうこと,つまり,なにも考えることなくからだが動くということ。

 日本の芸能の世界では,たとえば,地唄舞などでは「筋肉を動かすのではなく,骨を動かせ」というそうです。つまり,動きの究極は「骨が動く」ということ。筋肉を作動させることなく,「骨を動かす」ということ。その境地こそが「骨(こつ)をおぼえる」「骨をつかむ」ということなのだ,と。

 「力を用いず,意識を用いよ」とは,つまるところ「骨をつかめ」,と同義。力(筋肉)ではなく,意識を用いて,からだを動かせ,というわけです。

 別の言い方をすれば,たぶん,「気を用いよ」。そして,そのヴァリエーションが「気を向ける」「気をやる」「気が立つ」「気づく」「気づかう」「気を入れる」「気を籠める」「気を立てる」「気に入る」・・・ということなのでしょう。

 こんな奥の深いことばをさらりと言ってのける劉志老師も只者ではありません。さすがに,李自力老師の薫陶を受けた名人のことばだと感心してしまいます。そんな劉志老師が,ふらりと遊びにきてくださる・・・・,ありがたいことです。

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