2015年2月23日月曜日

「今(いま)の世(よ)に因果(いんが)を知(し)らず業報(ごっぽう)を明(あき)らめず」。『修証義』第4節。

 まずは,第4節の全文を引いておきましょう。

 今(いま)の世(よ)に因果(いんが)を知(し)らず業報(ごっぽう)を明(あき)らめず,三世(さんぜ)を知(し)らず,善悪(ぜんあく)を弁(わき)まえざる邪見(じゃけん)の〇侶(ともがら)には群(ぐん)すべからず,大凡(おおよそ)因果(いんが)の道理(どうり)歴然(れきねん)として私(わたくし)なし,造悪(ぞうあく)の者(もの)は堕(お)ち,修善(しゅぜん)の者(もの)は〇(のぼ)る,毫〇(ごうり)も〇(たが)わざるなり,若(も)し因果(いんが)亡(ぼう)じて虚(むな)しからんが如(ごと)きは,諸仏(しょぶつ)の出世(しゅっせ)あるべからず,祖師(そし)の西来(せいらい)あるべからず。


 第4節も,それほどむつかしいことは言っていません。ふつうに読んでそのまま理解が可能だとおもいます。ただ,仏教用語の特殊な用法がありますので,そのことばの意味だけはしっかり抑えておきましょう。

 この節では,「業報」(ごっぽう)ということばをきちんと抑えておけば,あとは大丈夫でしょう。「業報」とは「業の報い」という意味です。「業」(ごう)という読み方は仏教用語とてしの読みです。ふつうには「業」(ぎょう)と読みます。

 わたしたちがふつうに「業」(ぎょう)ということばから連想する意味は,事業,業績,業務,といった仕事をさしています。しかし,仏教用語としての「業」(ごう)は,「なすこと(もの)」「なす力」「作用」「行為」「祭祀」などを意味します。ですから,「業報」(ごっぽう)とは「行為によってもたらされた結果としての報い」,と考えればいいとおもいます。

 もっとも,『修証義』の解説本などを読んでみますと,人によってはこの「業報」について詳細な解説を加えています。興味のある方はぜひ,そちらの文献にあたってみてください。ややこしい議論はさておき,ごくかんたんに説明をしておけば,この「業報」こそが仏教思想の中心をなす概念の一つと考えられている,ということです。

 わたしたちに馴染みのことばで言えば「因果応報」ということです。すなわち,善い行為には善い結果が,悪い行為には悪い結果が伴われるというのが因果応報の摂理(「善因善果,悪因悪果)である,というわけです。ですから,いまを,清く,正しく生き,善行を積むこと,そうすれば必ずよりよい生を受けて,ふたたび,現世にもどってこられる,とする輪廻転生の考え方と結びつくことになります。

 それでは,最後にわたしの読解文を提示してみたいとおもいます。

 いま,この世を生きている間は,因果応報の摂理を理解することもできない,過去・現在・未来の存在も知らない,善悪も弁えられない,よこしまなこころしかもたない人間と友だちになってはいけません。まずはなにをおいても,因果応報の摂理こそが私利私欲をはなれた立派な教えである,と理解することです。悪をなす者は地獄に堕ちていきますよ,善を修める者は浄土の世界に近づいていくことができますよ,この教えに嘘偽りはありません。もし,因果応報という摂理が間違っていたとしたら,諸仏はこの世に現れなかったでしょうし,祖師もこの世にやってはこなかったでしょう。
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