2015年2月13日金曜日

人間は自然存在(Naturwesen)であると同時に文化的存在(Kulturwesen)です。すなわち,絶対矛盾的存在。

 
 この稿は,いま,少しずつではありますが,書きついでいるシリーズ「スポーツ学」とはなにか,を始める前の書きかけのものでした。もう棄ててしまおうとおもっていましたが,なんだか棄てきれず,残しておいたものです。しかし,いま,読み返してみますと,これはこれで面白かろうとおもいましたので,少し手を加えて,公開することにしました。

 その稿は,つぎのような書き出しではじまっています。

 まことに唐突ですが,かねてから構想中の「スポーツ学」の骨格について,そろそろ世に問うてみたいと考えるようになりました。そこで,まずは,「スポーツ学事始め」の先鞭をつける意味で,「スポーツ学宣言」のためのラフ・スケッチをしてみようと思い立ちました。まだまだ,ほんとうに荒っぽくて,素朴なラフ・スケッチにすぎません。が,まずは,どんなものになるのか,その全体像を明らかにしてみたい,という程度のものです。ご一読の上,忌憚のないご意見や感想などをお聞かせいただければ幸いです。以上が前置き。

 「スポーツ学とはなにか」

 人間は自然存在(Naturwesen)です。と同時に,人間は文化的存在(Kulturwesen)でもあります。ということは,人間は自然存在でありつつ文化的存在である,という相矛盾した存在であるということです。つまり,絶対的矛盾を内に秘めた存在である,というわけです。

 別の言い方をすれば,人間は本能的で情動的な動物であると同時に,情緒的で理性的で知的な生を営む生き物でもある,ということです。もっと言ってしまえば,動物であると同時に人間であるという,股裂き状態,あるいは宙づり状態を生きる生き物である,ということです。

 わたしたちが生きることの困難,悩み,苦しみ,矛盾,苦悩をはじめとする苦難や,折にふれて泣いたり笑ったりする喜怒哀楽の感情が表出する源泉はここにあります。

 この厳然たる事実を確認したところで,まずは,結論のもっとも重要なところをさきどりしておけば以下のようになります。

 スポーツは,動物的な闘争本能を,人間的なルールによって止揚し,成立する文化です。つまり,動物性と人間性という人間存在の根源的な矛盾をそのまま引き受け,理性的なルールによってバランスをとり,コントロールすることによって初めて成立する,文化の一つの様式です。ですから,人間が内包するあらゆる能力を全開にしつつ,止揚することが要求される,人間存在のすべての要素が動員されるきわめて重要な文化なのです。したがって,スポーツに精通するということは,心技体の総合的な能力を錬磨し,そのレベルを高めると同時に,ひとりの人間としての完成をめざすことになります。スポーツ学はその道を極めるための根幹となる学問領域なのです。

 このことを確認した上で,さらに,思考を深めていってみたいとおもいます。

 人間は,自然の中にあって,その中で生を営む生き物です。つまり,海や川や山や平野の中にあって,それらが生みだす恵みをいただくことによって,わたしたちは生きているのです。つまり,きれいな水や空気に守られ,植物や動物のいのちをいただくことによって,わたしたちは生きているのです。ですから,こうした自然環境や動植物のいのちを無駄にしてはなりません。そのことに気づくところから,おのずからなる「もったいない」というこころが芽生えてきます。

 これが自然存在である人間のありのままの姿です。わたしたちは,まず,この事実をしっかりと銘記しておきましょう。

 この自然存在であると同時に文化的存在である人間にとって,スポーツとはなにかと問う学問,それが「スポーツ学」(Sportology)です。この学問は,これまでにはなかったまったく新しい視座に立つ学問です。日本中,いや,世界中を探してみてもどこにも存在しない画期的な学問です。そのなによりの根拠は,Sportology という英語そのものもわたしの発案になる和製英語です。この英語を日本から発信しようというわけです。

 では,なぜ,いま,「スポーツ学」なのでしょうか。それは,21世紀という時代や社会や世界が要請しているからです。なかでも,「9・11」と「3・11」は現代という時代のかかえる諸矛盾をまるごと映し出す象徴的なできごとでした。このできごとを契機にして,わたしたちは好むと好まざるとにかかわらず,ありとあらゆるものの見方や考え方を根源から問い直す必要に迫られることになりました。〔この点については,のちほど,もっと詳しく説明をする予定です〕。その結果,スポーツの世界もまた例外ではありませんでした。そうして,熟慮に熟慮を重ねた末に到達した結論が「スポーツ学」という発想でした。

 その意味でも,「スポーツ学」は日本から世界に向けて発信する,まったく新しい学問である,といっていいでしょう。その新しい学問を立ち上げる現場にいま,わたしたちは立ち会っているのです。世界の最先端に立つ新たな学「スポーツ学」の構築に向けて。ですから,この新しい学をどのような方向に導いていくのか,その内容をいかに構築するのか,ということについては関連するあらゆる分野の専門家の叡知を結集することが必要です。

 その具体的な作業はこれからです。そのためには多くの人たちの情熱的な協力が不可欠です。

 そのためには,まずは,議論のための「たたき台」が必要です。そこで,以下には,そのたたき台となる「スポーツ学」の具体的な骨格について提案してみたいと思います。

 「スポーツ学」は三つの柱を想定しています。
 一つは,スポーツ実践学。
 二つ目は,スポーツ科学。
 そして,三つ目は,スポーツ文化学。
 この三つです。

 まず最初のスポーツ実践学から,順に,いま考えていることを,ごくかんたんに触れておきますと以下のようになります。

 スポーツ学の目玉は「スポーツ実践学」です。基本的には,スポーツ科学とスポーツ文化学とを車の両輪とし,具体的なスポーツ実践の学の構築をめざします。ここには,大きく分けて三つの分野があると考えています。一つは生涯スポーツ,二つには競技スポーツ,三つには学校体育です。これらの分野には,すでに多くの「実践」の叡知が蓄積されています。しかし,初心者からベテランに至る「実践」のノウハウは,個人的な名人芸であったり,ある特定のグループのトップ・シークレットであったりして,そのスタンダードを共有するところには達していません。そのスタンダードを共有し,さらにブラッシュ・アップしていくこと,それがスポーツ実践学のめざすところです。

 二つ目のスポーツ科学については,すでに,多くの実績を積んできており,しかも公開され,共有されてきています。ですので,それらのもつ可能性と限界を見極めつつ,いかなる専門領域がこんごも有効かどうかを検討し直して,再構築していくことになろうかとおもいます。そこにこそ多くの議論と叡知が求められることになるでしょう。

 三つ目のスポーツ文化学の中核になる学問は,スポーツの思想・哲学とスポーツの歴史です。つまり,哲学と歴史を中核に据えないスポーツ文化学は,ゆくさき不明の迷い舟となってしまいます。この二つは「スポーツ学」の根幹をなすと言っても過言ではありません。このスポーツ文化学のなかで,きわめて重要だと考えている学は「スポーツ人間学」です。まずは,人間とはなにかを問い,そして,スポーツをする人間とはなにかを考える領域です。この「スポーツ人間学」に,さらにどのような学を加え,スポーツ文化学の全体を構想するかは,これからの議論に委ねたいと思います。

 さて,最後にもう一度,スポーツ実践学にもどって,この稿のまとめをしておきたいとおもいます。

 スポーツを実践するのは,生身の生き物,すなわち自然存在である人間であると同時に,社会的なルールやマナーを身につけた文化的存在である人間でもあります。最初に書きましたように,この絶対的矛盾を内に秘めた人間がスポーツを実践すること,このことの意味はどこにあるのかということを明らかにしておきたいとおもいます。

 長くなっていますので,手短に結論部分だけを書いておきますと以下のとおりです。

 西田幾多郎のいう「絶対矛盾的自己同一」を実現すること,この一点にあります。人間の内なる動物性と,後天的に身につけることになる人間性とを「自己同一」させること。大相撲の世界では「心・技・体」ということがよく言われます。スポーツ実践においても同じです。日々の練習をとおして「技能」を高めていくこと,そのことによって「心」と「体」とが一つに結びつくことになります。トップ・アスリートとは,この理想を体現することができた人,と言っていいでしょう。このことは,生涯スポーツや学校体育についても同様です。

 これらの各論については,また,稿をあらためて論じてみたいとおもいます。それは,いま,展開していますシリーズ「スポーツ学」とはなにか,のなかで試みてみたいとおもいます。その一部は,すでに,論じておきましたので参照していただければ幸いです。
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