2015年2月24日火曜日

「飛鳥」のフィールド・ワークからもどりました。

 2月22日(土)「ISC・21」2月神戸例会(『遊ぶロシア』合評会),23日(日)・24日(月)奈良・飛鳥のフィールド・ワークからもどってきました。合評会については,いずれ書くことにして,今回は奈良・飛鳥のフィールド・ワークについて,短い報告をしておきたいとおもいます。

 奈良に住んでいたころから数えれば,飛鳥へは何回もでかけていてその回数もわからないほどです。つまり,知り尽くしていたはずです。しかし,『日本書紀』などによく登場する大事な場所はほとんど素通りで,実際にその場所に立つということはしてきませんでした。その典型が,たとえば「甘樫の丘」であり,「川原寺跡」でしょう。いつも,車の中から「甘樫の丘」だねぇとか,「川原寺跡」だねぇとか言いながら車窓から眺めて通過。

 ですので,今回はできるだけ「歩く」「その場に立つ」「空気を吸う」「肌で感じる」「自分の眼でじかに確認する」をテーマにしました。もう一つのテーマは,「推古-皇極/斉明-持統」という飛鳥に宮を営んだ女帝時代の実像に迫る,というものでした。この戦略は大成功で,飛鳥のイメージががらりと変わってしまいました。やはり,「歩く」「その場に立つ」,つまり,からだをとおして記憶を刻み込む,このことの重要さが文字どおり身にしみてよくわかりました。

 詳しくは,一つずつテーマを掲げて,フィールド・ワーク報告を書いてみたいとおもっていますので,今回は,総論的な感想・印象を書いておきたいとおもいます。

 たとえば,「甘樫の丘」の展望台に立って,おもったこと。
 飛鳥は眼下にあって,その全貌は手にとるように見えています。この盆地の中央は飛鳥川が流れ,その両岸に名所・旧跡がひしめいています。そして,どの宮跡も寺も神社も,全部,上から見下ろす,そういうロケーションであるということ。そして,北をみれば,大和三山もすぐそこにあり,奈良平野が一望のもとにあります。シンボリックな三輪山と二上山が左右に控え,その間に矢田丘陵,登美が丘,生駒山系,青垣,春日山系,若草山,などがくっきりとみえています。

 22日(日)は,比較的眺望にめぐまれた天気だったので,北は京都まで見えていました。もっと,天気がよければ,遠く六甲山がみえる,と地元の老婦人が教えてくれました。西側には葛城山,金剛山が大きく聳え,その裾野にひろがる丘陵地帯が長々と伸びています。まさに,一大パノラマをこころゆくまで堪能することができます。

ここが蘇我一族の拠点であったということの地政学的な意義は計り知れない,と驚愕してしまいました。蘇我稲目,馬子,蝦夷,入鹿の4代にわたる一族が,この甘樫の丘に居を構え,飛鳥を足下に見下ろしていた,この事実。推古朝の豊浦宮は甘樫の丘の麓(裾野)に接して位置し,皇極/斉明も持統の宮も飛鳥の盆地の中です。まるで箱庭を上から見下ろしているようなものです。

 天皇といえどもその宮(居宅)は平地です。その宮を蘇我一族は上から見下ろしているのです。これは,どうみても,飛鳥時代の実質的な権力者は蘇我一族以外にはありえない,とはっきりわかります。蘇我一族の権力に裏づけられた栄耀栄華が眼に浮かびます。

 その蘇我一族の権力をひっくり返した「中大兄と鎌足」とは,いったい何者なのか。この二人の出自を初手から考え直す必要がある,ということも甘樫の丘に立っていて思い浮かんだことでした。この二人に関する『日本書紀』の記述を,根っから疑ってかからねばならない,と。

 と同時に,推古-皇極/斉明-持統の女帝時代に,いったい,なにが起きていたのか。少なくとも,この時代に,日本という国家の骨格が決まったと考えるときに,やはり見過ごすことはできません。なにか,空恐ろしい「真実」が隠されているのではないか,と。その「真実」を糊塗するために『日本書紀』にはいくつもの策が弄されているのではないか,と。

 とまあ,こんな具合です。眼からうろこでした。ということで,今日のところは総論。これから各論に挑んでみたいとおもいます。
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