2015年2月5日木曜日

東京マラソンに「ランニング・ポリス」だって? だったら中止にしたら?

 イスラム国の人質殺害事件後,アベ君の言動がますます過激になってきました。言ってみれば,一種のヒステリー症状です。日本国は,もはや一刻の猶予もない緊急事態に突入です。そして,「報復」に向かってまっしぐらです。これでは「憎しみ」の連鎖は終わりません。ますます「憎悪」を煽り立てるのみです。しかも,この自作自演の「憎悪」をアベ君は最大限に利用して,一気に「戦争のできる国家」へと突き進もうとしています。

 こんどの参院選後には憲法改正を発議すると言っています。いよいよ,来るときがやってきた,というところです。ならば,その前に,わたしたちは憲法改正(正しくは「改悪」)を阻止すべく覚悟を決めて,きちんとした備えをしていかなくてはなりません。

 そんなことを考えていたら,今朝のニュースで,東京マラソンでは「ランニング・ポリス」を配備して,テロに備える,と言う。???・・・・。なぬッ? いったいなにを考えているのだろうか,とあきれはててしまいました。

 一方で「報復」を強調すればするほど,東京マラソンはますますテロの絶好の標的になっていきます。だから,それに備えて「ランニング・ポリス」を配備するという。元箱根駅伝経験者などの警察官を起用する,とか。馬鹿もいい加減にしてほしい。こんなものがなんの役に立つというのか。少し考えてみれば火をみるよりも明らかです。まるで子供騙しです。

 それよりなにより,「ランニング・ポリス」は単なるみせしめ。テレビ映像をとおして,これほど警備をしっかりやってもテロの恐怖は消えません,という走る宣伝マン。だから,集団的自衛権を確保し,憲法改正をやって,正規軍を結成して,本格的な「報復」に取り組む必要があるのだ・・・と。つまり,アベ君の描くシナリオどおりに,世を挙げて動きはじめた,ということ。

 NHKのニュースはアベ君の顔と発言だけをクローズ・アップして,くる日もくる日も垂れ流すのみ。完全な戦前の「大本営発表」と化してしまっている。すでに戦時体制に入っていると言っても過言ではありません。そのためには,東京マラソンというスポーツまで巻き込んで,緊急事態であることを国民の眼に焼き付けておこう,という戦略。その意図が丸見えです。

 はっきり言っておきますが,東京という都市がテロの標的として狙われたら,ひとたまりもありません。防ぎようがないからです。言ってみれば,隙だらけの都市。だからこそ住み心地のいい都市でありえた(欧米の主要都市にくらべて)と,わたしは考えています。ですから,東京マラソンでランニング・コースに多くの警察官が動員されて配備されれば,それ以外のところは,まさに無防備状態になってしまいます。

 そんな危険を犯してまで,東京マラソンをやらなければならない理由はどこにあるのでしょうか。これをわかりやすく説明してほしい。東京マラソンを開催すると,だれが喜ぶのか,だれのふところが暖かくなるのか,だれの主張が正当化されるようになるのか,だれの眼をオキナワやフクシマから塞ぐことになるのか,最後にほくそ笑むのはだれか,・・・・?

 スポーツは平和の祭典だそうです。日本国はもうとっくのむかしに「平和」な国ではなくなっています。後方支援という名のもとで,立派に戦争に参加しています。いくら説明したって,攻撃を受けている相手側からすれば,立派な戦争協力国家(有志軍連合)の一員です。それを事実に反するなどといくら吼えたところで,それは「国内向け」のプロパガンダにすぎません。国際社会や,ましてやイスラム国に通じるロジックではありません。多くの国民は平和惚けした「茹でカエル」ですから,そのことばをそのまま信用してしまいます。こうして,世論を動かし,正規軍をめざしていく言動を正当化しようというわけです。

 「ランニング・ポリス」は茶番です。権力の走る宣伝マンにすぎません。

 ですから,東京マラソンなどは,さっさと中止すればいいのです。それほど事態は風雲急を告げていると事実をありのままに国民に知らせればいいのです。しかし,それはしません。なぜなら,事実を知られることをもっとも恐れているのが権力ですから。ほどほどにみせかけの平和ムードを漂わせつつ,その一方で,ほどほどに危機意識を煽る,これが国民をわけのわからないうちに戦時体制に誘導していくための最良の方法であり,常套手段だからです。

 このままでは,東京五輪2020を返上する条件が,外圧によって,さらに整うことになります。

 いまこそ「憎悪」の連鎖を断ち切り,平和をとりもどすためにはどうしたらいいのか,叡知をしぼる絶好のチャンスです。そちらに舵を切る勇断が,いま,もっとも求められている喫緊の課題ではないでしょうか。政府自民党に猛省をうながすと同時に,わたしたちも理論武装をして,明確な「意思表明」という行動を起こすときがやってきた,とほんきで考えています。

 わたしにとっては,「ランニング・ポリス」がその引き金となりました。

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