2015年2月17日火曜日

池澤夏樹訳『古事記』(日本文学全集・01,河出書房新社,2014年11月刊)を読む。

 池澤夏樹=個人編集『日本文学全集』全30巻が河出書房新社創業130周年記念企画として刊行されるという話題は,雑誌や新聞でちょこちょこと眼にしていました。しかし,正直に言ってしまうと,へーえ,池澤夏樹ってそんなに偉いんだ,くらいの認識でしかありませんでした。なぜなら,池澤夏樹という作家の作品はデビュー当初はいくつか読んでいましたが,あまり好きになれないなぁ,という印象でした。そのまま,なんとなく遠ざけていました。

 今回のこの刊行も,書店に行けば目立つところに平積みになっていましたので,ふーん,ピンクかぁ,それにしても厚い本だなぁ,と眺めるだけ。手にとろうとはしませんでした。なぜなら,もう,何人もの手になる「現代語訳」がでていて,そのほとんどを買って読んでいたからです。ですから,いまさら『古事記』の新訳かぁ,といささか辟易としていました。

 
なのに,あるとき,なぜ,こんなに分厚いのだろう?とおもったのが間違いのはじまりでした。つい,わたしの右手が伸びていき,本を開いてた間から池澤夏樹のマジックにひっかかってしまいました。なんじゃ?この本は?あちこちのページをめくりながら,そのままほぼ1時間ほど立ち読み。あらかた読んでしまったも同然。なのに,まっすぐカウンターへ。

 結論から入りましょう。とんでもない本です。このひとことでつきています。池澤夏樹が好き勝手に『古事記』を切り刻んでしまい,まったく別物のというか,まったく違う雰囲気の物語に仕上げてしまっているのです。少なくとも,わたしにはそんな印象をつよく与えました。なぜなら,これまで読んできたどの「現代語訳」ともまったく異なる「仕掛け」がしてあって,そのせいか,まったく新しい物語を読んでいるように感じたからです。

 その池澤夏樹マジックの「仕掛け」をここで一つひとつ解説するのも不粋な話ですので,割愛。ただ一点だけ,わたしが「あっ」と納得したことについてだけ,触れておきたいとおもいます。

 池澤夏樹は『古事記』を徹底して「文学」として扱っている,ということです。日本文学全集の第一巻として『古事記』を位置づけたのですから,当然といえばあまりに当然のはなしです。しかし,わたしがこれまで読んできた「現代語訳」は,みんな日本古代史の謎解きに迫ろうとする,いわゆる正攻法。もっと言ってしまえば,アカデミックな姿勢を貫いていました。もっとも,なかには「ふざけた」現代語訳もありましたが・・・。それは別として,みんな本居宣長の呪縛のなかでの「芸」の見せ合いをしている,そんな印象でした。

 しかし,池澤夏樹はそんな呪縛から解き放たれた,別次元の世界に,つまりは「文学」の世界に,この『古事記』を投げ出して,その上で「鑑賞」しようと試みたのです。ですから,いわゆる逐語訳のようなことはいっさいせず,大意を思い切った手法でアレンジし,「翻訳」(池澤夏樹によれば,翻訳とは「熟読」することだ,といいます)しています。それだけでは理解不能とおもわれる人名,地名などについては脚注で,これもごくかんたんに説明するだけです。

 『古事記』の世界にある程度,通暁している読者であれば,脚注を無視して,本文だけを追っていくことをお薦めします。しかも,だれだれの娘を妻として生んだ子ども,だれだれ・・・,以上3名,というようなところも軽く流して,物語らしいところだけをしっかり読むと,まったく新しい古事記ワールドの世界が開けてきます。少なくとも,わたしにはそうでした。

 しかも,その結果,日本古代は,かなりのちの時代まで「混沌」としており,たくまざる権力闘争が繰り広げられたのだ,と確信するにいたりました。「万世一系」の天皇家などというでっちあげ(藤原不比等,など)をしなければならないほど,カオスの世界であった,ということもより明白になりました。とりわけ,推古から持統までの,あの時代はいったいなんだったのか,と。

 これからも,ちょっとした時間があったら,面白い物語の部分だけでも拾い読みして,楽しんでみようとおもいます。

 というところで,池澤夏樹の『古事記』のご紹介まで。

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