2015年2月20日金曜日

『<遊ぶ>ロシア』(ルイーズ・マクレイノルズ著,高橋一彦ほか訳,法政大学出版局,2014年10月刊)を読む。

 『<遊ぶ>ロシア──帝政末期の余暇と商業文化』,ルイーズ・マクレイノルズ著,高橋一彦・田中良英・巽由樹子・青島陽子訳,法政大学出版局,2014年10月刊。6,800円。500ページに手のとどく大部。ハードカバーのしっかりした本です。

 
まずは,手っとり早く,表紙帯のキャッチ・コピーを引いておきましょう。

 「劇場,スポーツ,観光旅行,ナイトライフ,映画・・・・・
 アスリートが映画スターに,給仕はレストランの支配人からエンターテイナーの世界を仕切る帝王へ。
 健康ブームがスポーツ熱を煽り,淑女たちはリングサイトでレスラーに嬌声を挙げる・・・・。
 戦争と革命ではなく,様々に<遊ぶ>ロシアを<余暇>を通して描写する。」

 これを読むだけで,この本の内容の概要はつかむことができます。まずは「スポーツ」ということばに惹かれ,早速,該当ページを探す。第三章 モダンライフとしてのスポーツ(P.95~144.),という魅力的なタイトルがついています。なかの小見出しも,「帝室馬場の民主化」「スポーツとしての狩猟」「運動の教授と体育教育」「ヨットと自転車──移動とスポーツ」「サッカー──チームと工場」「ロシアの女性アスリート」「ロシアのオリンピック選手──スポーツ・ナショナリズムの国際化」,とあります。これは面白そうだとばかりに,そそっかしいわたしは,なにも考えないで,いきなり,この第三章から読み始めました。

 しかし,どうしても,いろいろのところで引っかかってしまって,すんなりと読み進めることができません。わずかばかりのロシアのスポーツに関する知識しかありませんが,それでも,こんなはずではない,こんな叙述でいいのだろうか,と疑問ばかりが湧いてきます。ロシアの歴史研究の仕方もも叙述の仕方もずいぶんと変わったものだなぁ,と不思議におもいながら・・・。これでは,もはや,西側の歴史叙述とどこも違わないではないか,と。さらに読み進んだところで,はっ,と気づきました。ひょっとして,この著者は西側の人?

 あわてて確認しましたら,アメリカ生まれのアメリカ育ちの研究者。2006年からはノース・カロライナ大学で教鞭をとっている,とのこと。

 わたしたちの世代のロシアの歴史研究・叙述といえば,まず,なによりもマルキシズムに則った唯物史観に身を固めた,ごりごりの文章で書かれたものというのが定番になっていました。もっとも,わたしの場合には,ロシア語が読めなかったものですから,当時の東ドイツの文献をとおして,ロシアのスポーツ事情を探っていました。

 たとえば,Enzyklopaedie der Koerperkultur (直訳すれば,肉体文化の百科事典)という当時の東ドイツから出版された,もっとも信頼のおけるといわれた文献がありました。ですから,この文献をとおして,あちこちページをめくりながら,想像をたくましくしていました。とりわけ,この事典の冒頭に,いきなり「史的唯物論」についての,まるで一枚岩のような文章が掲載されていて,ここを読まないことにはさきへは進めさせない,というような印象を与えていました。つまり,ここを理解しないことには,このさきの叙述は理解できませんよ,というわけです。ですから,難解なドイツ語(しかも史的唯物論についての内容も馴染んでいませんので,ほとんど理解不能)を必死になって読んだ記憶があります。

 ここを通過しておくと,あとは,どの項目も同じパターンの繰り返しでしたので,比較的読みやすくなってきました。つまり,史的唯物論の立場から「スポーツ」を語るのはこのパターンしかない,ということがはっきりしてきたからです。

 ですから,「帝政末期の余暇」とくれば,ああ,あのパターンの叙述が展開される,とわたしの頭は勝手に予測を立ててしまっていたというわけです。その頭で,いきなり,読み始めましたので,どうにもひっかかってしまって,前に進みません。変だ,こんなはずではないのに・・・?というわけです。若いころに叩き込まれた情報の刷り込みは深く,いまも鮮明に残ったままです。ですから,その頭を切り換えるには,手間がかかりました。

 アメリカの研究者が,ロシア帝政末期の余暇を語っているのだ,と考えればなんのことはありません。しかし,同時に,また,別の疑問も湧いてきます。歴史を叙述するということはどういうことなのか,と。つまり,時代や社会が変わると歴史叙述の方法も変化する,そういう「歴史」とはいったいなんなのか,と。米ソの冷戦時代の歴史叙述は,お互いに真っ向から対立していました。まさに,「右」と「左」ほどの違いでした。そういう時代が終わり,新しい世界情勢に変化するとともに歴史叙述の方法も変化してきます。そして,いまは,「9・11」以後を生きるわたしたちにとって歴史叙述とはなにか,が問われるようになってきました。日本でいえば,「3・11」以後の歴史叙述は明らかに変わらざるをえませんでした。そして,いまや,「破局」を生きる時代の歴史とはなにか,が問われています。

 そんな視点から,このテクストを読んでみますと,おやおやとおもうことがたくさんでてきます。こんどの土曜日(21日)には,神戸市外大の竹谷和之さんのセットした研究会で,このテクストの訳者2名の参加を得て,合評会が行われます。その場で,訳者お二人のご意見などうかがいながら,楽しい議論ができれば,とおもっています。もちろん,その中核になる議論は,著者のルイーズ・マクレイノルズの歴史観とわたしたちのそれとのすり合わせになろうかとおもいます。楽しみです。

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