2010年12月16日木曜日

6.精霊たちと神々。

 前の節(5.聖なるもの)で取り上げられた,動物性と人間性の間(はざま)で立ち現れる「聖なるもの」が,それにつづく今日の節(6.精霊たちと神々)にいたって,ついに「精霊」となり,「神々」となるプロセスが明らかになる。この原初の神々をどのように理解するかということが,Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則,を読み解く上で不可欠となる。そして,さらには,この供犠や祝祭空間で繰り広げられるさまざまなパフォーマンスの意味を考える上でも不可欠となる。ということは,スポーツ文化の原初の姿を想定する上でも不可欠である,ということになる。
 したがって,この節は慎重に考察をすすめる必要があろう。
 「聖なるもの」が立ち現れるときの「多様な存在」たちの間の関係は,「同等な場合もあり,また優劣の異なる場合もあるけれども,やがてついには精霊たちが構成するある階層制度(ヒエラルキー)へと帰着することになる」とバタイユは説く。ここで突然,「精霊たち」ということばが登場して,読み手のわたしたちはいささかとまどいを感ずるが,それを意識してか,すぐにバタイユは精霊についてつぎのように補足説明をしている。
 「人間たちや<最高存在>はむろんのこと,原始的な表象においては,さまざまな動物,植物,大気現象・・・なども精霊(エスプリ)である。このような位置づけのうちには,ある横滑りが生じている。つまり,<最高存在>とはある意味で一つの純粋な精霊である。同様に死者の霊(エスプリ)は,生きている人間の霊=精神(エスプリ)のように明確な物質的現実に依存することはない。そしてまた動物の精霊,あるいは植物の精霊,等々と,個体としての一匹の動物,一本の植物との間の絆はきわめて漠然としている。」
 これで「精霊」のイメージがかなり明確になってくる。つまり,「原始的な表象」にあっては,そこに存在するものはすべて「精霊」なのである。しかし,そこには「ある横滑り」が生じている,と。すなわち,<最高存在>の精霊,人間の死者の霊と生きている人間の霊=精神,動物や植物と個体としての一匹の動物や一本の植物,などの間には自ずからなる「ヒエラルキー」を構成することになる,と。こうして「しだいしだいに一方には人間の霊=精神(エスプリ)がそうであるような身体=肉体に依存する精霊たちを置き,他方には<最高存在>や,動物,死者などの独立した精霊たちを据えるという根本的区別の上に立脚するようになっていく。」
 こうして,まずは,精霊の存在様式を大きく二つに分類している。一つは,生きている身体=肉体に依存する精霊たちであり,二つには,現実には存在しない死者たちの精霊である。そのうち,後者の独立した精霊たちは「ある神話的な世界を形成する傾向」をもつことになる。ここが「神々」が立ち現れてくる原点というわけである。
 「<最高存在>は神々のうちの至高者であり,天空の神であるので,一般的に言って他の神々よりも強力であるが,しかし同じ性質の神にしか過ぎないのである。」
 こうして神々の間にも,あるヒエラルキーが生まれてくるが,それでもなお,もともとの「神性」としては,みんな同じ性質にすぎない,とバタイユは指摘している。この点はおおいに注目しておきたいところである。なぜなら,のちに考察することになるが,神々に捧げる「祝祭空間」とそこで繰り広げられる「パフォーマンス」との関係を考える上で重要な意味をもつとおもわれるからである。なぜ,そうなるのか,これは授業までの宿題としておこう。
 そして,最後に,バタイユはつぎのように述べて,この節を締めくくる。
 「神々とは単に,現実的な基層を持たない神話的な精霊たちのことである。死をまぬがれない身体=肉体という現実に服従していないような精霊は,神であり,純粋に神的(聖なるもの)なのである。人間はそれ自身霊=精神(エスプリ)である限りは,神的(聖なるもの)であるけれども,彼は至高権を持ってそうなのではない。なぜなら彼は現実的に実在するものだからである。」
 みごとなまとめである。素直に納得である。ただひとことだけコメントしておくとすれば,フランス語の「エスプリ」ということばが,バタイユの思考を展開していく上できわめて有効に機能しているということだ。このあたりのことを日本語だけで説明するとしたら,日本語のもつ語感の貧弱さからして,きわめて困難な論理展開になってしまうだろう,ということだ。このフランス語と日本語の表現の差異がどこからくるのか,ということもスポーツ文化論を考える上ではきわめて重要な課題の一つなのである。なぜか? これも宿題としておこう。
 この節は,ここまで。

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