2010年12月15日水曜日

5.聖なるもの。

 この節には,バタイユの美しい文章が登場する。ここまで読み進んできて,ようやく,バタイユ的世界のアウトラインがみえてきたからかもしれない。余分なコメントをもちだすよりもさきに,まずは,その美しい文章を読むことにしよう。 
 「あらゆる点から判断して,原始人たちはわれわれよりもずっと,動物に近く存在していたと考えられる。彼らはたぶん動物を自分自身から区別はしていたが,その区別に関してある疑いを,恐怖とノスタルジーの混じり合ったある疑惑を持たないわけにはいかなかったのである。われわれが動物のものとみなしている連続性の感情が,それだけで原始人たちの精神を占めているというのではもはやなかった(そもそも判明に区切られた物=客体たちの定置とはそのことの否定であった)。そうではなくて彼らの精神は,事物たちの世界に対して連続性が提起した対立から,ある新しい意味を引き出していたのである。連続性とは動物にとっては他のなにものとも区別されない物であって,動物においては即自的にも対自的にも唯一可能な存在の様態なのであるが,人間においてはその連続性は,俗なる道具の貧困さ(非連続な物=客体の貧困さ)に対し,聖なる世界のあらゆる魅惑を対比させたのである。」(P.45.)
 これほどみごとに動物性の世界と人間性の世界を描き分けてくれると,もはや,いかなるコメントも不要である。そのものずばりである。そこで,あえて,スポーツ文化論的読解にとって重要だとおもわれるところを指摘するとすれば,「恐怖とノスタルジーの混じり合ったある疑惑」と「聖なる世界のあらゆる魅惑」の二点であろうか。
 前者は,動物性から離脱することに対する原始人の感情を意味している。つまり,ひとつは,動物性から離脱することの「恐怖」の感情であり,ほんとうに動物性から離脱してしまっていいのだろうか,という素朴な疑問から発する「恐怖」の感情である。そして,もうひとつは,動物性の世界への「ノスタルジー」の感情である。
 後者は,個々バラバラに存在する世俗的な道具や物=客体(オブジェ)の貧困さに比較して,連続性(内在性)の世界は「聖なる世界のあらゆる魅惑」に満ち満ちてみえたのであろう。ことここにいたって,原初の人間は,はたと困惑することになる。そして,人間はさらに<横滑り>を重ねていくことになる。
 「聖なるものという感情はもはや明らかに,連続性のせいでそこではなにものも判明に区切られていない濃霧の内に消失していた動物の感情ではありえないのである。まず泰一に言えることは,濃霧の世界においては絶えず混同が生じていたのは真実であるとしても,こうした濃霧は一つの明晰な世界に,ある不透明で見通せない総体を対比させるということである。この総体は,明晰であるものの極限に判明に区切られて現れる。それは少なくとも外部からは,明晰であるものと区別されるのである。」(P.45~46.)
 このようにして,「聖なるものという感情」は人間に固有の感情であることを,バタイユは浮き彫りにしていく。動物は連続性のもとに埋没し,濃霧につつまれ,「不透明で見通せない総体」の中に身をゆだねている。この濃霧の総体と明晰であるものとが区別される極限に人間は立つことになる。その極限の間(あわい)から,人間の聖なる感情が立ち現れることになる。
 「また他方で動物はなんら眼につくような抗議もすることなしに,自分を埋没させる内在性を受け入れていたのに対し,人間は聖なるものという感情の中で,ある種の無力な怖れを味わうのである。この怖れ=嫌悪〔horreur〕は両義的である。聖なるものが魅惑し,惹きつけること,ある比類のない価値を持っていることは疑問の余地がない。しかしそれと同時にその聖なるものは,この明晰かつ俗の世界にとって,つまり人間がその特権的な領域をそこに据えるこの俗なる世界にとっては,眩暈を生じさせるほど危険なものとして現れるのである。」
 わたしは,このバタイユの文章に陶然としてしまう。なるほど,このようにして人間にとっての「聖なるもの」は浮かび上がってくるものなのか,と。そして,何回も何回も読み返しているうちに,まことに突拍子もない方向にわたしの思いが馳せる。この「聖なるもの」が発現してくる背景と,わたしの考える「スポーツ的なるもの」が発現してくる背景とが,なんと近い関係にあることか,と。
 なぜなら,わたしの考える「スポーツ的なるもの」は,人間の意識のエッジにぶら下がりつつ,その多くは無意識の領域から立ち現れるからだ。意識と無意識の「境界領域」という言い方をわたしはする。そこが,「スポーツ的なるもの」の発現の「場」ではないか,と。だから,スポーツと「陶酔」が切っても切れない関係にあるのは,こういうことだ。バタイユ的表現を借りれば,動物性と人間性のせめぎ合いの間(あわい)から,「聖なるもの」の感情をともなって立ち現れる,ということになろうか。
 この問題は,書いていくとエンドレスになってしまうので,このつづきは授業の中で展開してみたいとおもう。それまでの宿題にしておこう。
 というところで,この節はここまで。

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