2010年12月24日金曜日

「海女」,自然と向き合って生きている人びとの素顔。

 神戸市外国語大学の集中講義(3日間・15コマ)も無事に終わり,ほっと一息。その翌日(23日)には「ISC・21」12月神戸例会が行われ,こちらは久しぶりに盛り上がり,充実した時間を過ごすことができた。そして,今日(24日)の午後,帰宅した。かなりの強行軍ではあったが,帰りの新幹線の中でぐっすりと眠ることができたので,帰宅したらスッキリ。いつものペースにもどることができた。嬉しいかぎりである。
 この4日間のことで報告したいことはたくさんある。が,まずは,23日(木)に開催された「ISC・21」12月神戸例会のことを書いておきたいと思う。それは久しぶりに刺激的な内容だったから。そして,参加者みんなが大満足したであろうから。なかでも,このわたしが一番,大満足したから。なぜなら,三日間,必死で取り組んだ集中講義の抽象的な議論の具体的な事例が,詳細に紹介されたからである。
 プレゼンテーターは山本茂紀・山本和子の両先生(愛知大学)。テーマは「海女の衰退を潜水科学,ジェンダーの視点より実証的に研究し,再生の道を提案する」(科学研究費対象研究)のなかの第4報。今回の主眼は,「海女の体力と健康調査」「ジェンダーの視点より見た海女とその仕事」「海女再生への道」の三つの柱。しかし,海女のことも,潜水科学やダイビングのことなどについてもほとんど予備知識のないわれわれの仲間に向けて,第1報:「海女の潜水道具」,第2報:「海女と海女小屋」,第3報:「海女さんの仕事」の内容を紹介してくれただけでなく,海女さんをとりまく日常生活や年中行事や祭祀儀礼に至るまで,きわめて広い視野にわたって調査してこられたことがら(未発表)を,懇切丁寧に,詳細に紹介してくださった。この研究にこめる山本先生ご夫妻の情熱が,お二人の巧みな話術とともに,ひしひしとわれわれのからだに伝わってくる。まるで,海女さんにかんするすべて,という高級料理(鮑アラカルト?)を腹一杯ご馳走になった気分だ。参加者全員が,いつもとは次元の違う集中力で聞き入っている。わたしにとっても至福のひとときだった。
 その理由は,さきに書いたとおりだ。が,この点について,もう少し踏み込んでおこう。
 集中講義でとりあげたテクストは,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』(湯浅博雄訳,ちくま学芸文庫)。その中の第一部 基本資料(Ⅰ.動物性,Ⅱ.人間性と俗なる世界の形成,Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則)。ここには,原初の人間が「動物性の世界」から「人間性の世界」に<横滑り>するときに起きたことはどういうことだったのか,ということを丹念に分析したいわゆる「バタイユ仮説」が提示されている。この「基本資料」をスポーツ文化論的に読み解くと,どういう世界が新たにみえてくるのか,というのが集中講義のメイン・テーマ。その詳細の一部は,これまでのブログで公開してあるとおり。
 その要点を,もう一度,概説しておくと以下のとおり。動物性の世界からはみだしてしまい,動物性の世界にもどれなくなってしまった人間が,それに代えて新たに構築した俗なる世界(人間性の世界)とはどのようなものであったのか,ヒトが人間になるとはどういうことを意味しているのか,人間性の世界が立ち現れるとき,「聖なるもの」や「スポーツ的なるもの」がどのようにして出現することになったのか,人間性の世界とは「聖なるもの」への,つまり失った動物性の世界への回帰願望の表出としてとらえることができるのではなかろうか,だから,「聖なるもの」と「スポーツ的なるもの」はワンセットで展開したのではなかったか,などなど。にもかかわらず,とりわけ,近代以後の人間性の世界は,近代科学の急速な進展の結果,加速度的に動物性の世界から乖離し,人間性をも否定する方向に走りつづけているのではないだろうか,というのがわたしの近年の思考の原点となる仮説である。
 これらのことがらについての各論はすでに書いたブログにゆずることにしよう。そして,こうした思考を深めていたわたしの頭脳が,山本先生ご夫妻のプレゼンテーションにもっとも強く反応したことがらについて,以下に触れておきたいとおもう。
 それは,海女さんの存在は世俗のわれわれとはまったく別の存在ではないか,という印象である。しかも,海女さんの存在様式は,かつての人間がみんな共有していたものであったはずだ。にもかかわらず,その多くをどこかに置き忘れてきてしまったのではないか。それが今日のわたしたちの姿ではないか。そんなことを,まず,最初におもった。
 たとえば,海女小屋の入り口には注連縄がかかっている。ということは,海女さんがこの小屋に入るということは,世俗とは異なる聖別された空間に入るということを意味するだろう。そして,その海女小屋の多くはその中に神棚を設置しているという。その神棚に祈りをささげてから,あるいは,神棚のないところでは別のところにある神様に向かって祈りをささげてから海に向かう。さらに,海に入るときには船縁に少しだけ水をかけ,「チッチッ」とねずみの鳴き声のような声を出してイソノミ(あわびを取る道具)で船縁を叩いて,海の神さまにご挨拶をする。
 海女さんの仕事は命懸けである。海の中ではなにが起きても不思議はない。からだに,どんな異変が起きるかはだれも予測はつかない。突発的な事故で,海女さんが命を落すことは少なくない。中でも,過呼吸による失神事故が多いのではないか,と山本先生ご夫妻は推測する。その根拠を潜水科学にもとめながら,さまざまなケースについて類推していく。あるいはまた,耳栓をしてもぐることの弊害についても,潜水科学が明らかにしているという。水中深くもぐるときには,耳栓をしない方がいい。しかし,すでに2000年にわたる長い歴史をもつ海女さんたちの世界では,古くから耳栓をしていた,という(蕗の茎を煮詰めて,成型した耳栓が紹介された)。それが原因で,耳の遠くなる海女が多いのではないか,と山本先生ご夫妻は考える。たとえば,水圧の関係で,耳栓がかえって鼓膜を痛める原因になるのだ,と。それこそ,鼓膜を圧迫し,ついには鼓膜を突き破って水が流れ込むようなことが起これば命取りとなりかねない。あるいは,そこまでいかなくとも三半規管が狂ってしまって,水中でのバランス感覚を失い,溺れ死ぬことも起こる。
 いずれにしても,海女さんの仕事は命懸けである。
 だからこそ,むかしから海女さんたちは神に祈りながら,仕事に励んできた。海から上がるときも,海岸でコンコンと叩いて,海の神様にご挨拶をする。そして,海女小屋にもどって,もう一度,今日の無事を神棚に祈り,感謝する。
 これ以外にも,集落のあちこちに祈る場所があって,そこを通りがかるときには必ずご挨拶をするのが慣習行動になっている,という。あるいは,家のまわりのあちこちにも,ほんのちょっとした食べ物を供える,という。これは,バリ島などにも見られるアニミズム的なコスモロジーと共通しているようにおもう。いわゆる,自分たちの身のまわりに存在する自然物には「精霊」が宿るというコスモロジーである。この「精霊」とうまく折り合いをつけておかないと,この「精霊」たちにいじわるされることもある,と人びとは考える。だから,身のまわりのありとあらゆる自然存在と同調し,過誤を起こさないことが最優先される。バタイユ的に言えば,「内在性」の世界に限りなく近い感覚を海女さんたちはからだ(五感)をとおして感じ取っているのではないか,とおもわれる。つまり,海という大自然と溶け合っている身体,あるいは,陸にあっても,空気のように(あるいは,風のように),大自然と共振・共鳴し合っているのではないか,とそんなことを考えさせてくれる。
 毎日,海という大自然と向き合い,かつ,そこを職場とし,つねに死と背中合わせで仕事をする海女さんたちにとって,あらゆる自然物とうまく折り合いをつけておくことが肝要であろう。だから,海女さんたちが,ことあるごとに祈り,供物を捧げ,身の安全をはかるのはごく自然のなりゆきというべきであろう。しかも,その仕事は生きたあわびをはじめとする,いわゆる海の幸を,人間の一方的な都合で採集し,その命をいただくことだ。だから,いまでも国崎町でとれたあわびは伊勢神宮に奉納され,神様のお許しをえる神事儀礼が行われている,という。
 ジョルジュ・バタイユの理論仮説に引き寄せて,もう一度,考えてみると以下のようになろうか。
 海女さんたちは,海にいる間は,どっぷりと自然の中に身をおいている。つまり,海という聖なる世界に身をおいている。言いかえれば,「水の中に水があるように存在する」存在様式としてバタイユが提示する「内在性」にかぎりなく近い世界を,海女さんたちは日々体験している。海に逆らうことはできない。だから,海といかに同調し,同類と化すか,ここが大きな課題なのであろう。あるいは,そんなことは当然のこととして,もはや,なにも意識していないかもしれない。それほどに海女さんたちの身体と海とは一体化しているに違いない。禅の世界でいえば,石と一体化する境地,竹林の中の一本の竹と一体化する身体,自他の区別のない世界,明鏡止水の世界,つまりは「悟りの境地」ということになろうか。そういう世界に海女さんたちは生きているように見受けられる。その世界は,世俗の真っ只中を生きるわたしたちとはまるで別世界なのだ。そして,海から上がったときは世俗の世界を生きる。言ってしまえば,海女さんたちの現実の生活は,聖なる世界と世俗の世界の二つの世界を往来している,ということになろうか。だから,自分を超越する存在に対する畏敬の念が,つまり,自然に対する畏敬の念が,そして,神々に対する畏敬の念が,世俗にどっぷりと浸かっているわたしたちよりもはるかに強い。そして,じつに清らかな世界に生きているようにおもわれる。
 このことと,つぎの話は無縁ではない,とわたしは考える。山本先生ご夫妻のお話では,海女さんたちは,ほんとうにいい人たちだ,という。とても思いやりがあり,賢くてやさしく親切で,嘘をつかない。そして,いつでもこころの底から歓待してくれる,と。
 たとえば,時間を間違えて,食事時に尋ねたりすると必ず食事をしていけと強く誘われるという。一緒にご飯を食べるということの,ほんとうの意味(これについては,また,別の稿で書いてみたい)が無意識の中に位置づいている。人間が生きることの基本がからだの中にしみこんでいる。だから,それがごく当たり前のこととして表出する。共に生きるということの基本が共に食べるということだ。伊勢神宮で行われる神様との「共食」儀礼(「直会」もその一種)は,その典型的なものだ。なぜなら,「食べる」という営みは他者の命を「いただく」ということだ。そのためには神様のお許しをえなくてはならない。これが原初の人間の考えたことだ。わたしたちが,いまでも,日常的に「いただきます」と食事の前に唱えるのは,この儀礼の残像である。競争社会にどっぷりと浸っているわたしたちが,とうのむかしに忘れてしまった感覚である。

 三重県鳥羽市の石鏡(いじか)町,国崎(くざき)町,相差(おうさつ)町の三つの町に住む海女さんたちの実態について,何年にもわたって丹念に調査をつづけ,すべての海女さんたちと仲良しとなり,絶大なる信頼を受けている山本先生ご夫妻のお話には,だから,とてつもなく深い情愛が籠もっている。だからこそ,聞く者はみんなこころを打たれる。フィールド・ワークとはかくあらねばならぬ,というお手本のようなものだ。
 今回は,5時間をかけての(途中休憩を入れて)「大」プレゼンテーションであったが,それでも時間は足りなかった。それほどに情報量が多いのである。今回は,とりあえずの導入のお話として位置づけさせていただき,次回からできるだけ小さなテーマを立てて,一つひとつ詳細なお話を聞かせてもらうことにしよう,とおもう。いまから楽しみである。

 山本先生・和子先生,ありがとうございました。こころからお礼を申しあげます。そして,これに懲りずに,これからもどうぞよろしくお願いいたします。

1 件のコメント:

925 さんのコメント...

研究会神戸例会の山本両先生のプレゼンテーションを興味深く聞かせていただき、「海女さんの身体」の在り方に刺激をいただきました。ブログにもあるように、海女さんの身体は文字通り「水の中に水があるように存在する」ものそのものですね。「聖なる世界と世俗の世界の二つの世界を往来する」・・・本当にその通りだと思います。「ひと呼吸」だけの「生」を携えて水に身をゆだねる身体の在り方は、あまりにも潔く、そして神々しくもあります。大自然と一体化する身体とはこういうものなのかと改めて感じさせていただきました。