2010年12月28日火曜日

太田光著『マボロシの鳥』(新潮社)を読む。

 いよいよ師走の大詰めだというのに,呑気に小説を読んでいる・・・・といえばまことにのどかで聞こえはいい。が,じつは,ストレスがたまりすぎてしまって,どこかで欲求不満を昇華させないことには大爆発を起こすか,病気になってしまいそうな状態なのだ。こういうときのわたしの処方箋は,買い込んである小説のなかから適当な本をとりだしてきて読むこと。この方法は長い間の習慣になっている。ストレスのたまる日常とは次元の違う別世界に遊ぶことができるから。言ってしまえば,現実逃避。ときには,こういうこともやむなし,とする。
 そこで,すでに買い込んである小説本の中から太田光著『マボロシの鳥』(新潮社)をとりだしてきて,読みはじめる。もう少し精確にいえば,未読の小説本の中から,どれにしようかな,と眺めていると,ほぼ間違いなく小説の方が「手を挙げて」くる。そして「俺を読んでくれ」という声がこころなしか聞こえてくる。そういうときは,迷わずその本に手を伸ばす。そして,そういう本の選び方はほぼ間違いなく「当たり」である。つまり,そのときの気分をなんらかの形で和らげてくれる。なんともはや,不思議ではある。が,なにかが,そこにはある,とわたしは以前からおもっている。
 太田光に言わせれば「繋がっている」というだろう。この『マボロシの鳥』という短編集に収められた小説に共通しているひとつのキー・ワードは「繋がり」である。宇宙に存在するすべてのものが「繋がっている」と太田光は考えている。そして,その「繋がり」について,手を代え品を代えしながら,さまざまな場面設定をした短編をとおして,解きあかそうとしている。
 わたしの,こうした買い込んである本の中から読みたい本を選定する方法は,本屋さんで,なにか面白い小説はないかなぁ,とおもって書棚を眺めているときも同じだ。あまたある本のなかから,なぜか,ある一冊が「読んでくれ」とわたしに呼びかけてくる(ような気がする)。そういうときは迷わず購入することにしている。そして,そのほとんどは「当たり」である。もちろん,「はずれ」も少なくない。でも,こういう本の買い方はいまもつづいている。
 な~んだ,そんな本の買い方をし,そんな本の読み方をしているのか,と笑われそうだ。笑われても仕方がない,とおもっている。いや,笑う人は笑えばいい,とおもっている。たぶん,理性的で教養のある近代合理主義者は,笑う,だろうとおもう。でも,わたしはひるむことなく,この方法で本を買うし,本を読むことにしてきたし,これからもそうするだろう。ある確信をもって。
 よくよく考えてみてほしい。わたしの人生だって,ほんとうのところはなにもわからないまま,ある種の「ひらめき」によって,あまたある選択肢のなかから「あるなにか」を選びながら生きてきたら,こんにちの姿になっていた。そのときの「ひらめき」は,わたしの印象では,いつも向こうからの「呼びかけ」があったようにおもう。そして,わたしは,ただ,その「呼びかけ」に素直に応答してきただけのような気がする。職業にしても,結婚にしても・・・・・。
 いま書いているこのブログですら,書きながら,書かされている。なにかひとつのことを書きはじめると,かならず,向こうから「ひらめき」がやってくる。その「ひらめき」に導かれるようにして,この文章を書いている。この「ひらめき」を「萌(もえ)の襲(かさね)」と表現したのは詩人の吉増剛造だ。この人もまた,わたしは「書かされている」と言っている(講演で聞いたし,著書のなかでも書いている)。詩人だから,とくに,そういう感覚が鋭いのだろうとおもう。でも,詩人でなくとも,大なり小なり,みんな,なんらかの「萌の襲」に依拠しながら生きている,とわたしはおもう。
 もちろん,このブログを書きはじめたそのきっかけは,太田光の『マボロシの鳥』を読んだ感想文でも書こうとおもったことだ。しかし,書きはじめてみたら,いきなり「萌の襲」が連続して起きて,気がついたら,いま,こんなことを書いている。さて,これからどうしようか・・・と考える。しかし,ここで考えすぎてしまってはいけない。ちょっとだけ考えて,つぎなる「萌の襲」を待つ。
 これはまったくのわたしの想像にすぎないが,太田光も,「萌の襲」に導かれるようにしてこの小説を書いたに違いない,とおもう。だから,書かされた,に違いない。わたしの推測では,たぶん,太田光は,この短編集を書きながら(あるいは,書かされながら),いつもドキドキしながら,目の前に現れる文章を眺めていただろうとおもう。自分の文章であって自分の文章ではない,その文章に驚きながら・・・・。そのドキドキ感が,それを読むわたしにも伝わってくる。こうした作家が小説を書く行為からはじまって,それを読む人のなかで起きる「萌の襲」までふくめて,太田光は「繋がり」と呼ぶ。しかも,ここに人間の生きる「希望」が託されているのではないか,とこれはこの作品を読んだわたしの受け止め方。
 
 太田光という人は恐るべき読書家である。そのことが,この小説を読んでいてもよくわかる。たけしという人も同じだ。たけしは,この本の帯に,つぎのようなコピーを寄せている。「どうせ爆笑小説とか言うコントだろう。えっ,マジ小説?おいらより先に直木賞とったら許さないからね。コノヤロー!!」と。いかにもたけしらしいコピーだ。たぶん,たけしは,お笑いタレントで,俺よりたくさんの本を読んでいる奴はいない,と確信していただろう。しかし,この太田光の小説を実際に手にとって読んだら,驚愕するだろうとおもう。
 太田光は,たんなる読書家ではない。その読書の傾向は,きわめて哲学寄りであり,自然科学寄りである。つまり,この二つの極をきちんと視野に入れて読書をし,みずからの生き方を考えようとしている。その姿勢の一端が,短編小説となって噴出した,ということだろう。わたしは感心しながらこの小説を読みはじめた。そして,すぐに直感したことは,太田光はジョルジュ・バタイユの本まで,本気で読んでいる,ということだ。そして,そのかなりの部分を自分のものにしている。その片鱗が小説のなかに遍在している。わたしは何回も何回も「なるほど,なるほど」とひとりごとをいいながら夢中になって読んでいた。なぜなら,バタイユ的思考の展開とおもわれる部分にくると,作者とわたしとの波長がぴったりと合ってしまうからだ。だから,わたしはじつに心地よくこの短編集を読ませてもらった。
 そればかりではない。どの短編とは言わないで伏せておくが,その短編の最後のところまできたところで,わたしは号泣してしまった。最初は,必死で感情を抑え込んだ嗚咽だった。が,だんだんとその嗚咽が膨張してきて,ついにはそれが破裂してしまい,とうとう号泣してしまった。わたしのこころの奥底にしまってあった「琴線」に触れてしまったのだ。もう,とどまるところを知らず,泣きたいだけ泣くことにした。こんなことは,かつて,あっただろうか。泣くという行為がこんなに快感であったとは・・・・。泣き終わったあとの,あの爽快感はなんなのだろう・・・としみじみ考えてしまった。よし,これからも,チャンスがあったら,思いっきり泣くことにしよう。
 鷺沼の事務所はそのためにあるようなものだ。言ってみれば,わたしの「隠れ家」。わたしという「特殊個」が,なにものにも抑圧されることなく,全開する場。ひとりごとを言おうが,鼻唄を歌おうが,おならをしようが,まったく自由気まま。わたしの思考はこの場をえて,ようやく全開状態に入ろうとしているかにみえる。わたしは,わがままを言って個人事務所をもって,ほんとうによかったとおもう。なぜなら,ほんとうの自分自身と向き合うことができるから。太田光も,たぶん,かれの「隠れ家」があって,そこで,この小説を書いたのだろうなぁ,と勝手な想像までしている。
 作家の角田光代さんが,やはり,この本の帯にコピーを寄せている。
 「びっくりした。太田光という人は,本気で信じているのだ。私たちのあるべき世界は,もっとうつくしくてまっとうなはずだと。そのことに私は本当に胸を打たれる」と。
 わたしもまた,角田光代さんと,まったく同感である。
 この世のあらゆるものが「繋がって」いることをみんなが確信できるようになれば,この世界はなんと美しいことか。そういう太田光の理想とする世界を取り戻すためには,人間としての「原点」に立ち返らなくてはならない,と。しかし,そこに到達するためには,あまりにも醜い現実と対面しつつ,その超克の方法を探らなくてはならない。その道は遠く,険しい。でも,歩まねばならぬ。
 太田光に脱帽である。単なる芸人ではない。恐るべし,だ。

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