2010年12月18日土曜日

キッズのチア・リーディングを見る。

 今日(18日),鷺沼の事務所に向う途中,キッズのチアリーディングのパフォーマンスに偶然,出会った。いつもの溝ノ口駅に向って歩いていたら,駅前の丸井のところに人だかりがある。近づいていってみると,これからキッズのチアリーディングのパフォーマンスがはじまるところだった。思わず足が止まってしまった。
 小学生3年生くらいから6年生くらいの可愛い女の子たちが,およそ20人くらい。いくつかのチームに分かれているらしく,また,演技内容によってメンバー構成も入れ替わったりして,さまざまな集団が演技をみせてくれた。チア・リーダーの存在は,アメリカで初めてすぐ近くでみる機会があって,それ以後,わたしの意識のなかに,かなり不思議なものとして残っている。
 今日,出会ったキッズのチアリーディングは,とてもよく訓練されていて,動きの切れもいいし,リズム感も抜群でみていて楽しかった。お年寄りから親子連れまで,さまざまな人たちが足をとめて,「ウォー」と声をあげて感動している。満面の笑顔ではじける動きをみせるチアの女の子たちも,ほんとうに嬉しそうにみえた。が,途中で,おやっとおもうことがあった。
 彼女たちは,とても薄着で,寒くて震えているのである。だから,演技が終わると,みんな一様に暗い顔になってしまう。その落差の大きさに気づいたとき,あれっ?と思った。そして,つぎの出番を待つ間,彼女たちは震えながら待っている。箱根駅伝などの選手たちが,バトンを受けとる寸前まで羽織っているダウンのロング・コートがあるではないか。ああいうものを,出番を待っている間くらい着せてあげればいいのに・・・,とひとりごと。
 こうして,何組かの演技がつぎつぎに繰り広げられていったのであるが,満面の笑顔はステージに立った瞬間からで,終わって控えになると暗い顔。見ているうちにだんだんと可哀相になってくる。そして,こんどは逆に,よくもまあここまで訓練されたものだなぁ,と妙なことを考えはじめてしまう。女の子たちは,大好きで楽しいから,このチームに入って練習をつづけているのだろうが,この子たちにどこまで自主性が認められているのだろうか,などと勝手なことを思い浮かべてしまう。その指導者たちとおぼしき女性たち(わたしの眼で確認できた人は3人)はみんなロング・コートを着ていた。指導者の配慮の欠落もさることながら,女の子たちが自主的に「寒い」と訴えることをしないでいることの不自然さの方にわたしの関心は向かう。ひょっとしたら,体育会的な上下関係があって,まるで,奴隷のような訓練を受けているのではなかろうか・・・などと。
 こんなことを考えながら眺めていたら,こちらのこころだけでなく,からだまでが寒くなってきた。
 しかし,そこに,もう一つの面白い光景が眼に飛び込んできた。
 まだ,よちよち歩きの小さな女の子が,お母さんの手を振り切って,ステージの真ん前に近づいていって,見よう見まねでチアをはじめたのだ。もちろん,歩くことさえ覚束ないくらいだから,チアの動きにはなっていない。チアの女の子たちがジャンプすると,その小さな女の子は足をバタハタとさせ,チアの女の子たちが素早くからだを回転させると,その小さな女の子はよたよたとかなりの時間をかけて一回転する。母親はあわてて,手をつないで引き戻す。しばらくすると,また,その小さな女の子は母親の手を振り切って,同じことを繰り返している。別に迷惑をかけているわけでもないし,危険であるわけでもない。だから,好きなようにさせてあげればいいのに・・・とわたしは遠くから眺めていた。しかし,母親は止めに入る。そのたびに,その小さな女の子は地団駄を踏んで怒っている。そのうちに,母親もあきらめたのか,そのまま,しばらく傍観をはじめた。もう,その小さな女の子は,夢中になって,チアのまねごとをしている。眼をらんらんと輝かせて・・・・。

 で,ここまで眺めていたら,突然,バタイユの『宗教の理論』が頭をかすめた。あっ,チアの女の子たちは「事物」ではないか。そして,その小さな女の子は,チアの女の子たとを「同類」だと思っているのではないか,と。チアの女の子たちは,教えられたことをそのまま,まるで,ロボットのように,全員が同じリズムで同じ動きをしている。そして,それを喜びである,ということを実証するために満面の笑顔を「つくって」いる。ほんとうのところは寒くて仕方がない。笑顔など「つくって」いる場合ではないのかもしれない。しかし,満面の笑顔をくずそうともしない。寒くて震えている控えでの姿との,そのあまりのギャップの大きさが不自然だ。
 それに引き換え,その小さな女の子は母親の制止を振り切って,ステージの真ん前に立ち,よたよたとしながらも夢中になって同じふりをしているつもりになっている。チアの女の子たちと「同類」になったつもりで。つまり,彼女の気持ちの上では,チアの女の子たちとなんの違和感もなく,一体化しているつもりなのであろう。まさに,自他の区別のない,内在性のなかに溶け込んでいるようにみえる。そこには計算も打算もない,ただ,ひたすら,まねごとに熱中しているだけである。それ以外のなんの目的もない。ただ,ひたすら「消尽」されるのみ。この小さな女の子は,まだまだ,動物性を存分に引きずっている。そして,このリズミカルな動きに反応して,無心に同一化をめざしている。
 これはどうみても,事物たる人間性の世界と,同類と一体化しようとする動物性の世界が,いま,わたしの目の前で展開している・・・・と。生まれたばかりの赤ちゃんは,おそらく,まだ,動物性の世界にどっぴりと浸っているはずだ。その赤ちゃんが,眼がしっかりとみえるようになり,はいはいをはじめ,やがては立ち上がって歩きはじめるにしたがって,次第に動物性の世界から人間性の世界へと移行していく。
 教育は(親も学校も社会も),もって生まれた子どもの動物性をいかに排除・隠蔽するかということに全力をあげる。つまり,人間性の世界に適応できるように「しつけ」ようとする。こうして,りっぱな「事物」に仕立て上げていく。チアの女の子たちは,特別のプログラムをとおして,他の女の子たちよりも特異な事物に仕立てあげられていく。その,みごとな「事物性」に触れて,もっとも標準的な事物と化してしまった大人たちが感動している。しかし,その中にひとりの小さな女の子が紛れ込んでくると,事物が支配している時空間に,突然,純粋無垢な動物性の世界が切り開かれていく。しかし,鈍麻してしまった事物たる母親をそれを制止しようとする。その他の大人たちも(わたしもふくめて),その制止を制止しようとはしない。事物だらけのその場で,動物性をいっぱいかかえこんだままの小さな女の子だけが異彩を放っている。
 やがて,チアリーディングのパフォマンスは終わり,集団がくずれた。わたしは,少し離れたところに立ち,その後の彼女たちの様子をさぐっていた。案の定,彼女たちは三列横隊に並び,直立不動の姿勢で,指導者のお話を聞いている。なにか,確認のことばが指導者から発せられると「ハーイ」という,これ以上の声はでません,というほどの大きな声で返事をしている。しかも,女の子たちは寒くて震えているのである。にもかかわらず,延々と,そのお話はつづいている。可哀そうに,と思いつつなにもできない自分を歯痒く思いながら,きびすを返すことにした。
 なにか見てはいけないものを見てしまったあとのような,後味の悪さを残したまま,電車に乗る。あの見物集団のなかには親もいたはずだろうに・・・・,などと思いながら。

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