2010年12月13日月曜日

Ⅱ.人間性と俗なる世界の形成,について。

 バタイユのテクスト『宗教の理論』のⅠ.動物性,を終わりにして,Ⅱ.人間性と俗なる世界の形成,に入っていくことにしよう。ここは1.から9.まで小見出しのついた節からなっている。で,まずは,各論に入る前に全体像について概観しておきたいとおもう。
 Ⅰ.動物性,では徹底して動物的世界である「内在性」の実態を明らかにすることにバタイユの言説は集中していた。しかし,それでもなお,バタイユは,内在性(動物性)は,こんにちの人間の側からすれば完全に「閉じられた」世界であり,そこに分け入っていく方法はなにもない,と嘆息している。そこで,かれの用いた方法は「詩的な虚偽」という方法であり,動物性から人間性への<横滑り>という現象を,傍証をもちいて推量するという苦肉の策であった。こうして,なんびとたりとも分け入ることのできない「内在性」(「動物性」)の世界を,自他の区別のない「連続性」の内に生きる世界として,ある程度のイメージを構築してくれた。
 それを前提にして,Ⅱ.人間性と俗なる世界の形成,では動物性の聖なる世界からいかにして<横滑り>して人間性の世界,つまり,俗なる世界に移行していったのか,ということに焦点を当てる。バタイユの思考は,つねに,動物性の世界と人間性の世界とを自在に往来しながら,この両者の「中間領域」で,いったいなにが起きたのか,どのようにして聖なる世界から俗なる世界へと移行をはたしていくのか,を明らかにしている。もう少し言っておけば,動物性を生きていた時代のなにを失い,人間性としてなにを新たに獲得していったのか,と問いかける。そして,そのプロセスを経て,新たに登場してくるものが,「超越」であり,「最高存在」であり,「聖なるもの」であり,「精霊」であり,「神々」である,と。つまり,原初の人間は,動物性から離脱するにつれて,それを補完するかのように「宗教的なるもの」(あるいは「宗教的感情」)を求めていく。それは,ある種,必然でもあるのだが,厳密にいえば,「大いなるボタンのかけ違い」でもあった。言ってしまえば,動物性と人間性の間(はざま)で揺れ動く「生」の表出の方法が,さまざまに模索されていくことになるのだが,そのときに「聖なるもの」と「俗なるもの」の激しいせめぎ合いが起きる。ここからさきのバタイユの論考は,Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則,で明らかにされることになる。
 以上が,おおまかなⅡ.人間性と俗なる世界の形成,の概要である。その細部については,稿を建て直して,考察を深めていきたいとおもう。
 この稿は,とりあえず,ここまでとする。

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