2010年12月8日水曜日

バタイユの説く「動物性」「内在性」について。

 「動物は世界の内に水の中に水があるように存在している」とバタイユは喝破している。みごとな表現としかいいようがない。これほどみごとに「動物性」とか,「内在性」とかを簡潔に表現する方法をわたしは知らない。
 動物は世界の内に存在するとき,「水の中に水がある」ように存在する,という。「水の中に水がある」とは,いうまでもなく,水と水との区別のつかないところ,つまり,「自他」が一体化したところ,ということだ。動物は,自己と世界の区別がない,自己と世界とは一体化している,ということになる。では,同じ動物である人間の場合はどうか。人間は「水の中に水がある」ようには存在できない。なぜか。気づいたときには,すでに,「自己」があって,そこからつねに「他者」である世界を眺めているからだ。ほんとうのところは,他者(世界)がさきにあって,その存在に気づいたところから「自己」が立ち現れる。だから,自他がどうしても区別されてしまうのだ。
 したがって,人間が「自他」を一体化するには相当の修練を必要とする。理念や宗教的な教義としては「自他」が一体化することを理解できるので,ある一定のプログラムにしたがって修練を積めば,ある程度までは「水の中に水がある」ような存在に接近することはできる。しかし,完全に一体化するには,禅でいえば,『十牛図』の「牛に乗る」境地に到達しなくてはならない。キリスト教のイエズス会でいえば,『霊操』(イグナチオ・デ・ロヨラ)の最終段階を通過しなければならない。という具合に,特別のプログラムを消化して,ゴールに到達することが不可欠となる。なぜ,このようなやっかいなことが生じてしまったのか。
 人間が,動物のままであれば,つまり,100%の動物性を維持していれば,なんの苦労もなく,あるがままの姿で「水の中に水がある」ように存在することができる。しかし,人間は,動物でありながら,そのもっとも重要な「動物性」(あるいは,「内在性」)をどこかに置き忘れてきてしまった,ということだ。いや,置き忘れてきたのではなく,動物性から意識的に「離脱」し,人間性へと「移動」することによって,「内在性」を失ってしまったのだ。もっと言ってしまえば,意図的・計画的に「内在性」を拒否したのだ。いつ,いかなる理由で?このことをまずしっかりと頭に入れておこう。

 そこで,もう一度,振り出しにもどって,本題である「動物性」とはなにか,「内在性」を生きるとはどういうことなのか,という点について考えてみることにしよう。
 バタイユはつぎのように定義している。
 「動物性は直接=無媒介=即時性であり,あるいは内在性である。」(P.21.)
 「動物的世界は,内在性と直接=無媒介=即時性の世界であると私は言うことができた。」(P.30)
 二つとも同じことを言っているのであるが,後者の方がわかりやすいだろう。バタイユにしても,試行錯誤的に,動物性や動物的世界をどのように表現したらいいか,必死にさぐっていることがテクストをしっかり読み込んでいくとわかる。思想・哲学は生きものだから,つねに,進化しながら変化・変容していくものだ,だから,あわてて断定する必要はない,とバタイユは言い切る(緒言,P.13.
)。だから,われわれもそれにあやかって,「動物性」とはどういうものであるのか,「動物的世界」とはどういう世界のことを言うのか,素描的に(スケッチ風に),さまざまに描いてみることが許されている。なぜなら,だれも,厳密には「動物性」や「内在性」を断定することはできないし,「動物的世界」を断定することは不可能だからだ。あくまでも,推定であり,素描でしかない。それが,どれだけ説得力をもつかどうか,ということだけが意味をもつのだから。
 これで勇気百倍。ここからは,自由自在に,「動物性」や「内在性」について想像力をふくらませながら,自分で納得のできるイメージを構築することだ。あとは,若くて,柔軟性に富んだ学生さんたちの頭脳を期待することにしよう。
 ただし,バタイユは,「動物性」や「内在性」を考えるための重要ないくつかのポイントを提示しているので,それだけはきちんと抑えておくことにしよう。
 Ⅰ.動物性(P.21),の冒頭にあげられている小見出しは,いささかわたしたちを驚かせるものだ。それは,
 1.食べる動物と食べられる動物の内在性,というものである。
 バタイユはつぎのように言う。「動物がその環界に対して内在性としてあることは,ある明確な情況の内に与えられており」と述べ,「その情況とは,ある動物が他の動物を食べるときに与えられている」という。そして,「ある動物がなにか他の動物を食べるときに与えられるのは,いつでも食べる動物の同類である。この意味で私は,内在性と言うのである。」と。
 この言い回しをそのまま受け止めるのは難しいかもしれない。なぜなら,人間が他の動物を食べるときに,その動物の「同類」であるとは考えないからだ。しかし,動物は「食べる動物の同類」と思っている,とバタイユは考える。つまり,食べられる動物は自己でもあるのだ。タコが空腹に耐えきれなくなると自分の足(手?)を食べるという。この延長線上に,食べる他の動物がある,と考えればわかりやすいかもしれない。人間でいえば,野イチゴや桑の実をみつけると,無意識のうちに手が伸びていって,いつのまにか食べていることがある。これが,比較的「同類」に近い感覚かもしれない。しかし,人間は,厳密にいえば,明らかに野イチゴや桑の実を「食べられるもの」として対象化(オブジェ)し,それは自分のためになるもの,つまり,事物(ショーズ)として認識している。だから,厳密には「同類」とは考えていないけれども,なんの抵抗もなく無意識のうちに食べている感覚は,それに近いと言っていいだろう。
 この動物が他の動物を食べるときに与えられている「同類」という感覚(自分の延長上にあるもの)が,内在性の根拠である,とバタイユは主張するのである。しかし,人間には,目の前で生きている動物を「同類」として食べるという感覚はない。さきほどの例のように,植物なら,比較的「同類」という感覚に近いかもしれない。この「同類」という感覚を,人間は,いつ,どこで,どのようにして失ってしまったのか,ここを考えるのが,この集中講義の最大の目的である。そして,このとき,広義の「宗教」(的なるもの)が立ち現れるのであり,そのことと表裏一体となって「スポーツ」(的なるもの)が姿を現す,というのがわたしの仮説である。
 もう一度,繰り返しておくが,原初の人間が,「内在性」から離脱し,動物性から人間性へと<横滑り>するとき,なにが起きたのか,ここに問題意識を集中していくことにしよう。
 とりあえず,今回はここまで。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

『宗教の理論』の「食べる動物と食べられる動物の内在性」を読むと、最初から「??」のパンチを受けました。ブログにもあるように、人間が他の動物を食べるときにその動物の「同類」であるとは考えません。ただ、この「えっ??」こそ『宗教の理論』を読む上ですごく大事なんだろうと思います。この「??」が自分の「人間性」に揺さぶりをかけ、固まった自分の思考を〈横滑り〉できるように準備してくれるような予感・・・。「同類」を食べる「動物性」という考え・・・これは食人俗(カニバリズム)に対する我々現代人の偏見も説明してくれそうです。