ことここにいたって,バタイユは「食べられる動物」について驚くべき見解を提示している。
人間は,当然のようにして,動物を事物として扱う。人間は,動物を同類とはみなさなくなったのである。そのため,人間はみずからの内なる動物性に向き合うことになると,それを自分の欠陥だとみなし,あわててそれを隠そうとする。そこには「一片の虚偽」が隠されている,とバタイユは指摘する。つまり,一匹の動物はそれ自身として生きているのであり,それ以外のなにものでもない。にもかかわらず,人間はその一匹の動物を事物と化してしまう。そのためには,なんらかの「抑圧・隠蔽」の力が加えられることになる。そして,つぎのように述べる。
「(動物が)一つの事物とされるためには,死んでいるか,あるいは家畜化していなければならない。だから食べられる動物が一つの物=客体として定置されることができるのは,それが殺されて食べられるという条件が充たされる場合だけなのである。さらにはそれは,炙り焼き,網焼き,煮ものといった形において初めて十分に事物となるのである。」
ここには,「物=客体」(オブジェ)と「事物」(ショーズ)という二つの概念の違いがみごとに提示されている。そして,二段構えの「抑圧・隠蔽」の力が加わっていることが,これらの概念をとおして明らかになってくる。その意味でも,「物=客体」と「事物」というバタイユが提示する概念装置はきわめて重要な役割を果たしていることになる。
この文章につづけて,つぎのような見解をバタイユは提示する。
「そもそも肉を調理するためにあれこれ手間をかけるのは,本質的には美食の追求という意味を持つのではない。それ以前に問題となっているのは次のような事実,すなわち人間はなにものであれそれを一個の物(オブジェ)に変えてからでなければなにも食べない,という事実なのである。」
こんにちのわたしたちの常識を一転させる,驚くべき言説である。調理とは,単なる美食の追求のための営みではなく,まさに,一匹の動物を「事物」にするための「儀礼」であった,とバタイユはいうのだ。そうしないことには,人間は動物を食べるということはできない。人間は人間になってしまったために,動物が動物を食べるのと同じ方法では食べられなくなってしまった,というわけである。逆にいえば,それこそが「人間になる」ということの「一片の虚偽」の内実だった,ということでもあろう。
他方では,「人間を切り裂き,焼き,食べるということは,忌まわしくぞっとすることである」とも述べている。そして,「人間を一個の事物にすることは──炙り焼き,煮込みシチュー・・・にすることは,つねにかわらず罪なのである」とも。解剖学の研究ですら,つい最近まで言語道断なことである,と考えられてきた,とも。
そして,その理由を以下のように説明している。
「そもそも身体に対する人間の態度は,驚くほど複雑な様相をみせている。人間が動物の身体を持つこと,そしてそのせいで一つの事物のように存在することは,人間が霊=精神である限り,その惨めさであり,苦悩である。が,しかし一つの霊=精神の基体であることは人間の身体の栄光でもあるのである。そして,身体-事物には精神がきわめて緊密に結びつけられているので,その身体はいつも絶え間なく霊的なものに憑きまとわれており,ぎりぎりの極限において以外はけっして事物ではないのである。」
と,述べた上で,人間の屍体のもつ意味について述べる。ここでの指摘も,わたしたちの今日的な解釈とはまったく次元を異にする。たとえば,以下のとおりである。
「人間の屍体は動物の身体が事物の状態へと還元される過程が完了したことを示しているのであり,したがってつまり生きている動物が事物の状態まで完全に還元され尽くしたことを啓示しているのである。原則としてそれは厳密に従属した要素であり,それ自体としてはなんら重要性を持たない。布地,鉄,あるいは加工された木材と同じ性質の有用性なのである。」
人間が死ぬということの内実は,こんにちのわたしたちが考えていることとはずいぶんとかけ離れている。原初の人間が立ち現れるときの,いわゆる移行期の人間のイメージする「死」は,動物的身体への回帰的な意味がこめられている。そして,事物となった身体は,もはや「有用性」以外のなにものでもない,というバタイユの指摘に,またまた,驚かされることになる。となれば,こんにちの臓器移植の考え方も,原初の人間の発想の延長線上にぴたりとはまってしまうことになる。「有用性」の限界については,別のテクストで,バタイユは詳細に議論を展開している。この問題については,また,別のテーマで述べてみたいとおもう。
こうして,「人間性と俗なる世界の形成」の実態が浮き彫りとなってくる。
この節は,ここまで。
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