2010年12月9日木曜日

動物性から人間性への<横滑り>ということについて。

 テクストのP.25に,3.動物性の詩的な虚偽,というちょっと風変わりな見出しではじまる文章がある。しかも,この文章には,この本文にも匹敵するほどの長い注がついている。その両方を読んでみて,はじめてバタイユが言わんとすることの真意が伝わってくる。
 最初に,ごく簡単に,バタイユがここで言おうとしたことを,わたしなりに解釈したことを述べておくことにしよう。
 わたしたち人間は,動物の世界から抜けだして,人間の世界を構築した。だから,人間はいまも動物と多くのものを共有しているはずなのに,この「動物の生」をほとんど忘れてしまっている。だから,もし,どうしてもこの「動物の生」について語らなくてはならないとしたら,それは「詩的」な言語で語るしかない,とバタイユは説く。なぜなら,「動物の生」を語るということは,人間にとっては,閉ざされた動物の世界に向けて,想像力を最大限に駆使し,しかも,それを説明するための論理を飛躍させることを余儀なくさせられるからだ。だから,人間性の側から動物性について語ることは「詩的な虚偽」になってしまう,というのである。
 このことを,バタイユは「動物性から人間性への<横滑り>」という言い方をする。<横滑り>ということは,そこには主体性が認められないということなのだろう。つまり,人間は気がついたら動物の世界からはみだしてしまっていた,ということなのだろう。そして,このことが,バタイユが考える『宗教の理論』のキー概念になっているようだ。断るまでもなく,バタイユがいう「宗教」とは,いわゆる宗派宗教のことではなく,人間を超越するものの存在を認め,そこに湧きおこる畏敬の念や祈りのこころを意味している。そういう意味での「宗教」が誕生するきっかけとなったものが,この<横滑り>ではなかったか,とバタイユは考えているようにおもう。
 したがって,人間性の側から動物性を語るということは,この<横滑り>をどのように説明するか,ということになろう。だとしたら,人間は,もう一度,動物性へと<横滑り>をする必要がある。しかし,それは不可能だ。では,どうすればいいのか。それには詩的な言語が必要なのだ,とバタイユは説く。つまり,詩的言語は<横滑り>以外のなにものでもないからだ,とバタイユはその経緯について丁寧に説明している。そして,詩的言語によって説明されることがらであるので,それは厳密には「詩的な虚偽」に等しいともいう。つまり,想像力の世界である,と。
 で,問題は,この<横滑り>をしたときに,いったい,なにが起きたのか。つまり,動物から原初の人間が誕生するときになにが起きたのか,ということである。このことは,すでに,このブログのなかでもくり返し取り上げてきたとおりである。おさらいの意味で,もう一度,整理しておこう。
 動物はみずからをとりまく環境世界の中に内在したまま生きている。つまり,「水の中に水があるように」存在し,そのままを生きている。つまり,環境世界の中に完全に溶け込んで生きている,というわけだ。しかし,原初の人間が,その内在性(動物性)から抜け出ることになった直接の引き金は動物的「欲望」であったことは,A.コジェーヴからの引用文の説明のところで書いたとおりである。言ってしまえば,この動物的「欲望」が<横滑り>をはじめるための必要条件であった,というわけである。しかし,それだけでは十分条件にはなりえない,とコジェーヴは書いている。そして,そこに,バタイユは着目する。
 さて,この「詩的な虚偽」にも等しい<横滑り>を通過した人間には,動物とは異なる「意識」が芽生えてくる。この意識が人間を人間たらしめる原動力となる。しかし,もともとが確固たる根拠をもたない「詩的な虚偽」である<横滑り>を経験し,そこを通過することによって,人間はさまざまな「不安」を抱くことになる。
 その発端となるものが,物体・対象(オブジェ)や事物(ショーズ)の出現であった。これらのオブジェやショーズの出現に際しては,環境世界の中に溶け込むようにして存在しているものに対して,ある「超越」が必要であった。つまり,環境世界の中にあって「特別のもの」という意識が人間の側に生ずることが不可欠となる。そうして出現した「特別のもの」,すなわち,人間を「超越」する存在という意識の中から,畏敬の念が生ずることになる。事物崇拝の原初の感情の芽生えである。
 と同時に,人間は,これらのオブジェやショーズを,人間にとって役に立つものとして,利用・活用するようになる。つまり,「有用性」の考え方が生まれる。そうして,こんどは人間がこれらのオブジェやショーズを「超越」することになる。「超越」されつつ「超越」するという,この二つの「超越」が,原初の人間の感情を複雑にする。
 こういう含みを込めて,バタイユは,動物性から人間性への<横滑り>という表現の仕方をしている。つまり,これが<横滑り>という詩的な虚偽の内実なのだ,と。人間は好きこのんで動物の世界から抜け出して,人間になったのではない,と。気がついたら,人間になっていたのだ,と。そうしたら,二つの「超越」に直面しなければならなくなってしまった,と。だから,これは<横滑り>なのだ,と。逆戻りのできない<横滑り>なのだ,と。




 

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