集中講義を受講する予定の神戸市外国語大学の学生さんのために,もちいるテクスト『宗教の理論』について,どのように対応したらいいかというわたしからの提案をしておきたい。
まず,授業で主として取り上げ,読解を試みたい部分は,第一部 基本的資料のみである。すなわち,Ⅰ.動物性(P.21),Ⅱ.人間性と俗なる世界の形成(P.34),Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則(P.55)から最後のP.81までの,わずか60ページである。少なくとも,この60ページだけは,くり返しくり返し読み込んでおいてほしい。これだけはノルマとして,全員が取り組んでおいてほしい。
ちなみに,その内容を示す小見出しを挙げておくと,以下のとおりである。
Ⅰ.動物性
1.食べる動物と食べられる動物の内在性
2.動物の依存と独立
3.動物性の詩的な虚偽
4.動物は世界の内に水の中に水があるように存在している
Ⅱ.人間性と俗なる世界の形成
1.物=客体の定置,道具
2.内在的な諸要素を物=客体の面の上へ定置すること
3.事物を主体として定置すること
4.最高存在
5.聖なるもの
6.精霊たちと神々
7.事物たちの世界の定置および身体を事物として位置づけること
8.食べられる動物,屍体,事物
9.労働する人間と道具
Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則
1.供犠が応じている必然性,供犠の原理
2.神的世界の非現実性
3.死と供犠の通常行われる連合
4.供犠という消費
5.個体,不安,供犠
6.祝祭
7.祝祭の限界づけ,祝祭が有用なものであるとする解釈および集団の定置
8.戦争──暴力が外部へと奔騰するという幻想
9.戦争の奔騰を人間-商品の連鎖へと還元すること
10.人身供犠
以上。
一見したところ,スポーツとはなんの関係もないように思われるかもしれない。しかし,わたしの現段階での仮説では,このバタイユが提示してくれた「動物性」⇒「人間性」⇒「供犠・祝祭」というプロセスを抜きにしてスポーツ(あるいは,スポーツ的なるもの)の起源は考えられない。しかも,ここまで問題意識を掘り下げて「スポーツの起源」を問いかけた人・研究者を,管見ながら,いまだ聞いたことがない。その意味で,今回の集中講義は,わたし自身にとっての初の試みであり,大冒険なのである。だから,いまからドキドキしている。
スポーツとはなにか,スポーツ文化とはなにか,この問いに対してもっとも根源的な応答をする方法があるとしたら,いまのところこのバタイユの提示した『宗教の理論』を手がかりにするのが,もっとも説得力があるとわたしは考える。これ以上の方法があるとしたら,教えてほしいものだ。それほどの起爆剤を秘めたテクストが,この『宗教の理論』なのである。そのつもりで,学生さんも,ある覚悟をもって参加してほしい。なぜなら,集中講義が終わったときには,世界中のだれにも負けない「スポーツ起源論」を展開できるいっぱしの論者になっていることも夢ではない。それは,わたしが保証する。
もちろん,そのためには相当の事前の準備をしてきてほしい。断るまでもなく,いま提示した,たった60ページのテクストの内容は生易しいものではない。間違いなく悪戦苦闘することと思う。それを助けてくれるのが,訳者の湯浅博雄さんの手になる「意識の経験・宗教性・エコノミー」──解題に代えて(P.183~241),である。この文章は,じつにわかりやすく,しかも説得力がある。これを読むと,なんとなくバタイユがわかったような気がしてくるから不思議だ。だから,バタイユの本文の60ページと,訳者・湯浅さんの解説(60ページ)とを合わせ読むことをお薦めする。そうすれば,ほぼ,間違いなく,わたしが意図していることの全体像がみえてくるはずである。
さらに,「文庫版あとがき」(P.242~258)のなかに,前期に読んだマルセル・モースの『贈与論』との関連についても,湯浅さんが懇切丁寧に触れてくれているので,われわれにとってはとても助かる。また,バタイユ自身も,参照文献としてマルセル・モースの二つの著書について触れている(P.158.)。『贈与論』を通過して『宗教の理論』に到達することが,きわめて自然な流れであるということが,ここからも理解できる。われわれは王道を歩いている,と言っていいだろう。
では,以後,しばらくはテクストの読解に取り組むことにしよう。
このブログにも,そして,これから書く読解のためのブログにも,末尾にある「リアクション」(おもしろい)にチェックを入れたり,コメントを入れてくれるとありがたい。ここからすでに授業ははじまっているつもりで・・・・。
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