2010年12月16日木曜日

7.事物たちの世界の定置および身体を事物として位置づけること。

 この節をとおして,読み取らなくてはならない重要なポイントは,なにゆえに身体が事物として位置づけられることになるのか,というロジックであろう。
 わたしたちの思考も,かなりのレベルでバタイユに接近できるようになってきているので,もはやその解説のために多言を要することもないかもしれない。しかし,確認の意味で以下の点だけは明らかにしておくことにしよう。
 原初の人間が,動物性から離脱し人間性へと移行しつつある段階にあっては,「人間たちが活動する世界はまだ根本的な様式では,主体から発しての連続性としてある」とバタイユは明言する。つまり,過渡期の人間は,基本的にはまだまだ動物性の世界にどっぷりと浸かっていた,というのである。このことをしっかりと念頭に置いておけば,あとのことはそれほどの問題となることもなく読み取ることができるとおもう。
 この段階で,すでに原初の人間たちは「聖なるもの」(「神的なるもの」)を意識しはじめ,やがて「神々の世界」を構築する。そうなると,神々の世界である非現実的世界と,自分たちの生きている現実的世界とを区別するようになる。
 「こうして神聖かつ神話的な世界の対面に,俗なる世界の,つまり事物たちや身体=肉体たちの世界の現実が定置されることになるのである。」
 さて,ここからがバタイユの独壇場となる。
 「連続性という枠の内においては,全てが霊的(スピリチュエル)なものであって,霊=精神と身体との対立はないのである。しかし神話的な精霊(エスプリ)たちの世界を定置すること,およびその世界が至高な価値を受けとるようになることは,当然のなりゆきとして,死をまぬがれない身体を霊=精神の対極として定義づけることに結びついている。霊=精神(エスプリ)と肉=身体(コール)の相違は,連続性と(つまり内在性と)物=客体との違いではけっしてないのである。」
 こうして,身体が事物として位置づけられることになる。換言すれば,原初の人間たちが,神々の世界を構築したその結果として,「死をまぬがれない身体(コール)」と「霊=精神(エスプリ)」とを対極的に定義づけることになった,と。言ってしまえば,「霊=精神(エスプリ)」を神々の世界に連結したまま,「身体(コール)」だけを事物として位置づけることになった。こうして,人間は神々の世界と世俗の世界の二つの世界に引き裂かれ,宙づりにされることになる。同時に,心身二元論の端緒がこのようにしてスタートしたことも注目しておくことにしよう。
 となると,心身一元論とはなにか,という根源的な問いが頭をもたげてくる。神々の世界を否定し,もちろん,事物としての身体を否定し,物=客体としての身体をも否定し,さらには,霊=精神をも否定し,連続性,内在性,動物性のもとに回帰していくことを意味しているのであろうか。つまり,心身二元論とはまったく逆のベクトルをもつものとして。ついでに,極論しておけば,禅的世界に限りなく近い世界がすぐそこに見え隠れしている。
 この議論はともかくとして,バタイユはつぎのように述べて,この節を閉じている。
 「現実的世界は,神的な世界が誕生した後の残滓としてとどまるものである。つまり現実の動物や植物は彼らの霊的な真実から切り離されて,ゆっくりとではあるが道具の空虚な客体性と結びつくようになり,死をまぬがれない人間の身体は少しずつ,事物たちが形成している総体に同化していくのである。」
 「人間的な現実とは,それが霊=精神でありうる度合にちょうど応じて神聖なものであるけれども,それが現実的である程度にまさしく応じて俗なるものなのである。諸々の動物,植物,道具そして加工されたり,取り扱われたりする他の事物たちは,それらを取り扱う身体とともに一つの現実的世界を形成する。その現実的世界はさまざまな神的力に服従し,それら諸力に横切られてはいるけれども,失墜した世界である。」
 バタイユが,最後に投げつけた文章「失墜した世界である」が,すでに,このあとに控えている「Ⅲ.供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則」のための,予告的な言説として注目しておきたい。つまり,バタイユは,人間的世界は,動物的世界に比べたら「失墜した世界である」というのである。もうひとことだけ述べておけば,供犠とは,この「失墜した世界」からの救済のための儀礼なのである。世俗の世界に「失墜してしまった」事物たちをもう一度,「聖なる世界」へ,そして,「内在性の世界」へと送り返すための儀礼なのである。
 ということで,この節はここまで。

 

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