「就活」なることばが,しばらく前から新聞紙上に目立つようになった。いまの世の中はそんなものか・・・と遠くから眺めていた。ところが,急に,「わがこと」として対面することになった。
20日から,神戸市外国語大学で集中講義に取り組んでいる。その受講生の主体は学部の3年生である。その3年生が「就活」のために授業を休ませてくれ,というのである。まるまる一日,休めば,それだけですでに3分の1の欠席となる(集中講義は3日間で15コマの授業を行う)。その上,残りの2日間のうち,午前だけとか,午後だけを休ませてくれ,という。となると,15コマのうち半分近くを欠席することになる。ルールどおりであれば,単位の認定はできなくなる。
だとすれば,「補講」をすることになるのであろうか。「補講」とは,原則として担当教員の都合で15コマの授業をすることができなかった場合の緊急措置として行われるものだ,と承知している。あるいは,学校行事のために,授業回数が不足した場合の措置として。だから,学生さんの「就活」のために「補講」をしなくてはならない,という理由はどこにもない。
となると,「特別指導」なる手当てをして,欠席分を補充して,単位認定ということにでもなるのであろうか。
しかし,こんなことよりも大事なことがある。わたしのここでの集中講義は一種のゼミナールである。テクストも予習用のスクリプトも,あらかじめ提示してあって,学生さんたちは順番にプレゼンテーションを行い,みんなで議論をしていく。わたしは,担当者として,ゼミナールの導入のレクチュアをしながら,少しずつ議論を深めていくべくサポートしていく。そうして,議論の成果を一つひとつみんなで共有しながら,ゼミナールの議論を盛り上げていくことを目指す。最終的には,このゼミナールはこういうものであったのか,ということをみんなで了解できるところまで努力を積み重ねていく。これがうまくいくと,学生さんのみならず,担当者であるわたしも,思いもよらない新たな知の地平を切り開くことができる。
ところが,「就活」なるものによって,この授業計画は,ズタズタに寸断されてしまう。ちなみに,受講している3年生7名のうち,全部出席できる学生さんはたった2名だけである。こうなると議論の蓄積はほとんど不能である。となると,ゼミナールの本来の目的はどこかにすっ飛んでしまう。その場かぎりの議論をして,済ませてしまうしか方法がない。なんとも,やるせない。もったいない話ではある。
いったい,企業は大学教育というものをどのように考えているのだろうか。3年生の後期の授業をズタズタにしてしまうことの意味を考えているのだろうか。自分のところにいい人材を早めに確保してしまえば,それでいいと考えているのだろうか。大学教育の4年間のうち,2年半しか授業を受けていない学生さんを「刈り取ろう」ということの意味を,少しでも考えたことがあるのだろうか。残りの1年半で,学生さんはいかようにも変化することを考慮に入れているのだろうか。極論してしまえば,企業は大学教育というものになんの期待もしていないのだろうか。
こんな疑念ばかりが脳裏をかすめていく。
「就活」からもどってきました,という黒いスーツで身を固めた学生さんたちに罪はない。むしろ,可哀相に・・・・と思う。なぜなら,世俗のことなど忘れて,学生という特権を思い切り生かした自由な時空間での学生生活を堪能することもできない情況に身をさらされているのだから。そして,残りの1年半の学生生活こそ,人間的にも,もっとも飛躍できる時期なのだから。それをもズタズタにされてしまうのだから。将来の職種すらまだ定かではない3年生の段階から,浮足立ってしまって,地に足がつかない生活に追われなくてはならないのだから。
こうして学生さんたちは,早くも,そして,ますます「事物」(ショーズ)と化していくのである。こんなことを野放しにしておいていいのだろうか。新聞などの報道によれば,来年からはもう少し遅くする方向で検討中だとか。当然だ。
大学教育を企業が破壊している実態をもっともっと世間に訴えていくべきだ。大学も企業も,双方ともになんの得にもならないのだから。それどころか,学生さんが最大の被害者だ。もっともっと青春を謳歌させてやらなければ,ほんとうのいい人材は育たない。このことに社会全体が気づかなくなってしまったら,世も末である。
人間の「事物化」現象に少しでも歯止めをかける努力をしていかなくては・・・・。
そして,一人ひとりの人間としても,「事物化」に抵抗する生き方を模索しなくては・・・・。
さて,今日が集中講義の最終日だ。気を取り直して,頑張ることにしよう。
1 件のコメント:
とても魅力的な記事でした。
また遊びにきます。
ありがとうございます。
コメントを投稿