2010年12月13日月曜日

1.物=客体の定置,道具

 ここからは,一つずつ節をとりあげて,各論に入りたいとおもう。そして,そこで述べられていることがらのうち,われわれのディスカッションの糸口となりそうなところに焦点を当ててみたい。
 まずは,物=客体(オブジェ)とはなにか。それを定置するとはどういうことなのか。その典型例としての道具とはいかなる性質のものなのか。この3点が問題となろうか。
 最初の,物=客体(オブジェ)という用語については,すでに,Ⅰ.動物性,のなかでもくり返しでてきていたので,ことばとしてはなじんでいることとおもう。しかし,物=客体(オブジェ)という言い方は,日本語としてはほとんど用いられることがないので,とまどう人も少なくないだろう。彫刻の世界などでは,物=客体ではなく,オブジェというフランス語がそのまま用いられていて,「オブジェ・Ⅰ」とか,「オブジェ・Ⅱ」などという具合に彫刻にネーミングがなされているのは周知のとおりであろう。彫刻作品に具体的な名前はつけられないが,抽象的な形態のどこかにふつうではないなにかを感じたり,作家の創作意図の具象以前の原イメージのようなものを表すときに,この「オブジェ」ということばが用いられているようにおもう。ということは,たんなる物であり,客体にすぎないのだけれども,その作家にとってはどこかふつうではないなにかを感じ取っている,どこにでも転がっている物のようであってどこか違うなにかをメッセージとして発信している,そういう物=客体をオブジェと表記しているようだ。
 ここを手がかりにして考えてみるとわかりやすいのではないか,とわたしは考える。動物性の世界にあっては(つまり,内在性の世界),バタイユがくり返し述べているように,自他の区別のない連続性の中に生きている,つまり,「水の中に水があるように」存在している。この世界では,物=客体(オブジェ)というものは存在しない。みんな同類であって,ひとつながりになって存在しており,対立する関係はどこにもないからである。
 そういう内在性の世界にあって,ある日,原初の人間が物=客体(オブジェ)の存在に気づく。この事態こそは「啓示」というにふさわしいだろう。こうして,物=客体(オブジェ)の存在がはじまる。しかし,バタイユは,ここでいきなり「道具」を引き合いに出して説明をはじめる。それほどに,この部分,つまり,最初に物=客体(オブジェ)の存在に気づく,その契機をどのように説明するかという問題は微妙なのである。だから,バタイユは,たぶん,意図的に省略している(もちろん,バタイユは個人的には仮説をもっているはず。でも,それを書きはじめたら膨大なぺージ数を必要とするだろう)。そして,道具から直接入っていく。
 バタイユにとっては,道具こそ,物=客体(オブジェ)の典型的なものなのである。つまり,動物には与えられていなくて,人間にのみ与えられているものが道具だ,というわけである。だから,バタイユは,まずは,道具から議論をはじめる。
 「意識はそれを(道具を)物=客体として,判明に区切られていない連続性における中断として定置していく。練り上げられた道具は,非-自己の生まれつつある形態である。」(P.33.)
 この引用をよく読めば,「定置する」ということの意味は理解できるだろう。別の言い方をすれば,「原初の人間は,動物性の連続性を中断するものとして道具を意識し,それを内在性から分け隔てられるものという意味での物=客体(オブジェ)として,あらたな存在として位置づける」ということもできよう。こうして,道具は,さらに練り上げられていくにしたがって,人間とは別の存在として,固有の形態として形成されていく。このようにして道具が出現することによって,それが人間によって工夫され,改善されたものであるにもかかわらず,人間は,他者としての道具の存在を意識するようになる。その結果として,人間はそれに対立する「自己」というものを意識するようになる。ここで,記憶にとどめておいてほしいことは,自己の存在にさきがけて他者が存在する,ということだ。こうして,オブジェが人間の身のまわりにふえていくにつれ,人間はますます「自己」というものを強く意識せざるをえなくなってくる。
 「その道具を作るために経過した時間が直接にその道具の有用性を位置づけ,ある目的を目ざしてそれを使用する者への従属を,さらにはその目的への従属を措定する。それと同時にそうした時間は,目的と手段との明確な区別を定めるのであるが,道具が出現することによって定義された面そのものの上にその区別を位置づけるのである。こうして不幸なことに,目的は手段の面の上に与えられ,つまりは有用性の面の上に与えられる。」(P.36.)
 「有用性」というバタイユの思考を展開する上できわめて重要な役割をはたす概念装置が,このような地平から立ち上がることを,ここでは注目しておきたい。こうして,目的が手段に乗っ取られてしまうのである。このあとのバタイユの論考はきわめて魅力的である。
 「長い棒切れは地面を掘り返すが,その目的は植物の生長を保証するためである。その植物が栽培され,生長するのは,食べられるためである。植物が食料として食べられるのは,それを栽培する人間の生命を維持するためである・・・・。こうした無限に続く送り返しという不条理さをよく考慮することによってのみ,真の目的=究極という不条理さ,つまりなにものにも役に立つはずのないほんとうの目的=究極というそれに勝るとも劣らぬ不条理さが,もっともなものとして首肯されるのである。」(P.36~37.)
 こうして,なにかの役に立つという有用性が次第に大きな力をもつことになり,人間性への道が切り開かれていくことになる。それに対して,動物性の世界にあっては,すなわち「諸々の存在たちがそこでは判明に区切られずに消失しているような世界のみが,なんの必要性もない余剰であり,なにものにも役に立たず,なすべきことはなにもなく,なにも意味しないのである。」(P.37.)
 こうして,動物性と人間性との根源的な違いが明確にされていく。しかも,ここに,こんにちの経済原則の原点,すなわち,「有用性」という考え方の原点を確認しておくことは,これからの議論を展開していく上できわめて重要な意味をもつだろう。

 

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