2004年の12月に,まったく突然のようにして,わたしは親友を失った。それはまさに青天の霹靂であった。体調をくずして入院したという電話を,半信半疑で,現実とは無関係の遠いところで起きていることのように,ぼんやりとした意識で聞いていた。かれのことだから,ちょっとからだを休めてやれば,すぐに復調するに違いない,と信じて疑わなかったからだ。しかし,神様はいじわるだった。強引に,しかも,短時間に,かれを別の世界に連れて行ってしまった。わたしは虚を突かれたように茫然自失し,思わず天を仰いだ。
仏教でいうと,昨日(11日)はかれの7回忌だった。しかし,強い信念をもって無信仰・無宗教を主張していたかれの意を受けて,いわゆる法事ということはしないで,「故人を偲ぶ会」が未亡人によって開催された。ごく近い親族に加えて,わたし一人が友人代表ということで声をかけていただいた。墓もいらない,と主張していた故人ではあったが,ご遺族のはからいで本家の墓に入れてもらった。それは狭山湖畔霊園にある。
昨日は,幸いなことに快晴・無風。春の陽気を感じさせるやわらかな日差しを浴びながら霊園に立つ。参加者全員が順番にお線香をあげ,合掌した。わたしは順番を待つ間,こころのなかで「般若心経」を何回も何回も繰り返し唱えていた。このわたしの無声の読経を故人はどんな顔をして聞いているのだろうなぁ,と思いながら。「お前は坊主の息子だから,まあ,しょうがないか」とあきらめ顔でつぶやいていたかもしれない。
かれと,こころの奥深くで「じか」に触れ合った瞬間が,何回かあった。それらはいずれも学生時代の4年間でのことであった。それも山歩きをとおしてだった。かれはスポーツ万能だったが,とりわけ,強靱な足腰のバネと気の遠くなるような忍耐力をもっていた。そして,もう一つ,山の中を歩き回るために必要な動物的な感覚にもめぐまれていた。それは恐るべき直感力だった。だから,かれはいつも山のリーダーだった。
かれを筆頭に結成した山仲間のグループ名は「ルンペン・クラブ」。みんな貧乏学生だったので,金がない。だから,最小必要限の山の装備をして山に向かった。登山帽すら,まともなものは買えなかったので,使い捨てられていたフェルト製の帽子をさがしてきて,それをお湯で煮立てて変形させ,自分流に「ルンペン・ハット」をデザインしてかぶった。世界にたった一つしかないオリジナル作品だといって本人たちは得意満面だった。服装もまともな登山スタイルの者はひとりもいなかった。全部,着古して廃棄寸前の衣服に,自分で手を加えて着用していた。こちらも半分は手作りだった。だから,全員揃うとみごとな「ルンペン」になっていた。唯一,登山靴だけは貯金をして,手作りの特注品を依頼した。登山は靴が命と知った。
冬山にも行きたかったが,装備をととのえる金がない。だから,「ルンペン・クラブ」の活動はすべて夏山縦走に主眼がおかれていた。ずいぶん,あちこちの山に出かけたが,われわれにとっては最高の遊びだった。なぜなら,都会で本気で遊ぼうとおもったら,金がかかって仕方がない。しかし,登山は,交通費と食料費だけが実費で,あとは金がかからない。しかも,こころもからだも丸抱えで,体力のすべてを投入し,みずからの肉体の限界への挑戦である。エネルギーのあり余っていた若者を完全燃焼させるには,これ以上の方法はない。場合によっては生きるか死ぬかという瀬戸際にまで追い込まれることもある。大自然の山懐に抱かれながら,動物的感覚を研ぎ澄ませ,五感のすべてを全開にし,ときには第六感をも動員して,山と一体化していく。遠い人類の祖先の世界に思いを馳せながら・・・・。そして,できることなら原初の人間のところまで到達したいという願望を,密かにこころの片隅に抱きながら・・・・・。
かれとわたしとの最大の想い出は,南アルプス全山縦走である。静岡県の大井川鉄道を終点(千頭)までたどり,そこからはダム工事を横目に睨みながら全部,徒歩。南アルプス最南端の「光岳」をとっかかりに,最後は山梨県の「鳳凰三山」を経て甲府市に至る,全日程14日間。前半の塩見岳の手前までは,総勢6名で行ったのに,なぜか,ここまでたどりついたところで4名が下山。残ったのは,かれとわたしの2名だけ。ここからの7日間が,かれとわたしとの「じか」に触れ合う体験のはじまりだった。このときの体験は,なんびととも分かち合えない,わたしたち二人だけの固有のものだった。そして,このときの体験をことばで表現することも,ほとんど不可能な,こころの奥深くでの交信・共振であった。その世界は,言ってみれば,いま読み込みをすすめているバタイユの『宗教の理論』の世界にも通底するものだった。つまり,内在性を二人で生きていたような体験だった。山を吹く風の音や沢の音やガレ場を転げ落ちていく石ころの音や,あるいはまた,姿のみえない動物たちのあちこちから聞こえてくる鳴き声,そして,かれの息づかいや足音,それにつづくわたしの息づかいと足音,息づかいはお互いに次第に荒くなってくる。それらをなんとも心地よく聞きながしながら,山という大自然のなかに溶け込んでいく。環境世界とわたしとの境目が次第に希薄になっていく。それは疲労による効果であったのかもしれない。意識も次第に遠のいていく。そして,いつのまにか無意識の世界に入り込み,ただひたすら歩くという行為に専念し,やがて陶酔と化す。あと一歩でフロー状態に。
いま考えてみれば,バタイユのいう動物性へと限りなく接近し,内在性を生きる疑似体験とでもいうべき世界に身を投げ出しながら,たった二人だけの時空間を共有したことになる。この体験こそが,二人を分かちがたい関係性へと繋ぎ止めることになる。世にいう「親友」。この関係はその後もゆるぎなくつづいていく。この体験を語るには,ふつうの言語では不可能だ。バタイユに言わせれば,「詩的な虚偽」が必要だ。あるいは,<横滑り>。
あれからもう半世紀がすぎている。驚くべきことだ。だが,つい,昨日のことのように鮮明に,山での記憶は甦ってくる。狭山湖畔霊園の親友の眠る墓地に立ち,真っ青な空と,時間が止まってしまったかとおもわれるほどの無風状態に身をあずけていると,またまた,あのときの自然との一体感や内在性へと,かぎりなく接近していくような錯覚を起こす。いつのまにか,7年前にこの世を去った親友が,すぐそこにいるような,あるいは,わたしの身辺に遍在しているような,そんな感覚に浸っている自分に気づく。このとき,たぶん,かれと交信できていたに違いない,とわたしは確信する。他人がなんといおうと,わたしはそうおもう。
親友の7回忌。とてもいい一日が過ごせた。かれも安らかな風になって,もう一つの次元の違う世界を,自由自在に駆け回っているに違いない。そう,こころから信じたい。合掌。
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