目取真俊の小説は,わたしの虚をついてくる。つまり,沖縄ということを考え,人間ということを考えるときの,わたしの中にある盲点といえばいいだろう,その虚である。もう少しだけ踏み込んでおけば,わたしがこれまで沖縄問題に関して,無関心を装ってきた虚,すなわち,知らぬ勘兵衛を決め込んで平気でこられた,その虚である。言ってしまえば,自分さえよければ他人のことなど知らぬ,という<わたし>という利己的な「人間性」が丸裸にされてしまう,その虚。だから,いやがおうでも,自己中心的な生き方の根源的な醜さが露呈されてしまい,丸裸のままの<わたし>が吹きさらしにされてしまうのである。その瞬間に,さぶいぼが全身を覆うことになる。その意味で,目取真俊の小説は恐るべきである。
第一に,目取真俊という作家の風貌そのものが,ただ者ではない,という一種異様な雰囲気を漂わせてもいる。東京外国語大学で開催されたシンポジウム(西谷修主宰)で,一度だけ,生の姿と,その発言ぶりに接したことがある。サングラスをかけたまま,一歩も引かぬという強い決意を内に秘め,単刀直入に切り込んでくる発言は,まるで,街中のやくざが,敵対するやくざに出会って,覚悟の上で喧嘩を売っているようにも聞こえてくる。なんともはや迫力満点なのである。琉球空手の相当の使い手であるとも聞く。そのせいか,小柄ではあるが,上半身はがっしりしている。それでいて,どこか底抜けのロマンチックな繊細さというか,純朴な童心のようなものも,そこはかとなく伝わってくるから,いやはや不思議な存在ではある。つまり,いろいろの顔が,そのときどきの雰囲気によって表出してくるのだ。その意味ではとてつもない懐の深さを感ずる。
それが如実に現れているのが,本業である小説作品であろう。
ちなみに,いま思い出せる印象的な作品をあげてみると,以下のようだ。
『風音』・・・・異郷の共同体の風葬場でいまだ野ざらしにされている旧日本兵の骨たちの発する「風音」から,さまざまな記憶が掘り起こされていく。その主人公には,特攻兵の所有物と思われる高級万年筆を盗み取った,という羞恥がつきまとう。
『群蝶の木』・・・・「慰安婦」(沖縄の女性きたち)をめぐる悲劇。
『魂込め(まぶいぐみ)』・・・・日本兵に殺された村の娘や男たちの話。そして,その遺体は消されてしまって,どこにも見当たらない。仕方がないので,その周辺の浜辺から珊瑚のかけらを拾い集め,それを骨代わりに。
こんなことを思い浮かべながら書いていたら,突然,平敷兼七さんの写真集『失われしものたち』や大城弘明さんの写真集『地図にない村』などが脳裏をよぎる。俺たちの写真集についても書いてくれとばかりに。
今日は気持ちが千々に乱れて,一点に集中していかない。
どうしてだろう。とても,不思議だ。
どうやら,目取真俊の毒気に当てられて,<わたし>そのものが粉砕されてしまったのかも知れない。こんなこともあっていいのだろう。いな,それどころか,このような経験こそが大事な自己変革の契機なのだから,もって瞑すべし,と言うべきだろう。
残念ながら,今日はここで打ち止め。
また,機会をあらためて,ポイントを絞って再挑戦することにしよう。
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