今福龍太は「耳」の人に違いない,だとしたら,わたしは「眼」に頼っている,とこの本を読みはじめての第一感。これまで「透視する」ということばを多用する今福さんのイメージが強かったので,見えないものまでも「みる」眼の人だと思い込んでいた。しかし,「目は聴き,耳は見る」(トリン・T・ミンハ)という表紙の帯のコピーをみて,なるほど,今福さんは「耳で見る」人だったのだ,と納得。目で風の音を聴き,耳で不可視の獣の駆け抜けていくのを見る。
それにしても,書店に並ぶ前に新著を読みはじめることの愉悦,最高の至福,ましてや好きな著者の本なれば。
冒頭の論考「元素的な沈黙」の書き出しを読みはじめて,いきなり衝撃を受けた。この論考の発想の原点はこういうことだったのか,と。つまり,今福さんがこのテーマ(薄墨色の文法)で書くことの,きわめてプリミティーブな発想(あるいは契機)を,わかりやすく書いてくれているからだ。
『図書』に連載されていることを途中で知り,そこから読みはじめてはいた。しかし,この導入部分の「発想」の原点を知らなかった。だから,今福さんはまたまた不思議な世界に分け入り,マニアックな文章を書きはじめたなぁ,という程度の印象だった。が,それはわたしの怠慢による認識不足だった。やはり,「連載」にとりかかる以上は,それ相応の,新たな発想の根拠があるはずで,そこを確認しないまま読んでいた自分を恥じるしかない。
その冒頭には,つぎのようにある。
「メキシコの平原を乾いた風が渡っている。あたりの斜面一帯を覆う茅(かや)に似た植物の穂先を荒々しく揺り動かしながら,不可視の獣が躍るように通りすぎてゆく。火山性の砂礫の上に腰をかけた私は,風の存在を草原のうねりとしてだけ感じながら,大気に描かれた透明で無定形な運動の絵柄を想像してみる。耳には吹きすぎる風の甲高い叫びのような音が響いている。土か,茅野原か,それとも風自身の声なのか? どこにも言葉はない。人間の言葉が消失し,魔術的な呪文がとりはらわれた明朗な世界。おおらかでありながら,自然物のみによって堅固に構築された,曖昧さのない世界。見えない風の踊り場・・・・。音によって充満する沈黙を聴くために私はいつもここにやってくる。」
このわずかな冒頭の行数のなかに,この本のモチーフが凝縮されている。これですべてだといってもいいほどの奥行きのある文章。読めば読むほどにその背後にあるものが,つまり,このあとに展開する数々の物語がわたしの脳裏を駆けめぐる。
メキシコのインディオとの接触によって「沈黙」の世界が開かれ,そこに無限の可能性を感じ取り,その可能性を開く主役が人間のことばではなく自然の「風」。この風をインディオはエカトル ecatl と呼ぶ。精確には,エ・エカトルと発音し,「・」のところで「喉を閉じて一瞬のちにふたたび開く無音にちかい破裂音のなかに,風のすべての形態が隠されている」という。そして,その「・」の声門のふるわせ方によって,微風も,大風も,竜巻のような突風も,みごとに区別し,表現することができるのだという。「彼らの言葉は,いわば反言語によって裏打ちされている」と。
風の音とそれを表す言葉とがそのまま重なり合っているような,ことばの「始原」に立ち会いながら,若き今福龍太は,ヨーロッパ近代の合理主義的思考から離脱し,ことばよりも「沈黙」を大事にするインディオの世界に深く入りこんでいく。そこで出会ったのがル・クレジオ。かれもまた,インディオの「沈黙」の世界にどっぷりとひたり込んで,ひっそりと「生活」していた。
それから23年後に再会した二人は,「奄美群島の聖なる樹々と珊瑚洞窟の世界」へと向う。そこで交わされる会話は,そのままインディオの「沈黙」の世界のそれとなっていく。そして,息詰まるような沈黙を破るようにして発せられる,ごくごく短い会話。単語の提示。それでいて肝胆相照らしあう,深いふかいこころの「触れ合い」。
もう,うっとりするしかない,それでいてドキドキしつづける,今福さんとル・クレジオとの「奄美群島」でのこころの交流。なるほど,「奄美自由大学」を主宰することの根拠がここにあったか,とわたしなりの納得。
たとえば,ル・クレジオのような,今福龍太にとって忘れがたい,しかも,生き方も文体までも変えたというほどの影響を与えた人物を取り上げながら,沈黙と言葉の境界領域の世界,あるいは,始原の言葉の立ち現れる世界へと読者を誘っていく。
巻末には,<薄墨色の文法>探究の先駆者たち,という見出しでわたしたちにも何人かは馴染みのある人名とかんたんな解説がなされている。名前だけ挙げておくと以下のとおり。
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー,ゲイリー・スナイダー,J.M.G.ル・クレジオ,ファン・ルルフォ,ネサワルコヨトル,アルフレッド・アルテアーガ,クロード・レヴィ=ストロース,ミゲル・リオ・ブランコ,トリン・T・ミンハ,宮澤賢治,ゲーテ,エドゥアール・グリッサン,オクタビオ・パス,ジョン・ケージ,フェデリコ・ガルシア=ロルカ,ジルベルト・フレイレ,ヴィニシウス・ジ・モライス,パブロ・ネルーダ,ヴィレム・フルッサーの以上19名。
一章ずつ,丁寧に読んでいきたい,と思う。
一気に読める本ではないのだから。
それにしても,書店に並ぶ前に新著を読みはじめることの愉悦,最高の至福,ましてや好きな著者の本なれば。
冒頭の論考「元素的な沈黙」の書き出しを読みはじめて,いきなり衝撃を受けた。この論考の発想の原点はこういうことだったのか,と。つまり,今福さんがこのテーマ(薄墨色の文法)で書くことの,きわめてプリミティーブな発想(あるいは契機)を,わかりやすく書いてくれているからだ。
『図書』に連載されていることを途中で知り,そこから読みはじめてはいた。しかし,この導入部分の「発想」の原点を知らなかった。だから,今福さんはまたまた不思議な世界に分け入り,マニアックな文章を書きはじめたなぁ,という程度の印象だった。が,それはわたしの怠慢による認識不足だった。やはり,「連載」にとりかかる以上は,それ相応の,新たな発想の根拠があるはずで,そこを確認しないまま読んでいた自分を恥じるしかない。
その冒頭には,つぎのようにある。
「メキシコの平原を乾いた風が渡っている。あたりの斜面一帯を覆う茅(かや)に似た植物の穂先を荒々しく揺り動かしながら,不可視の獣が躍るように通りすぎてゆく。火山性の砂礫の上に腰をかけた私は,風の存在を草原のうねりとしてだけ感じながら,大気に描かれた透明で無定形な運動の絵柄を想像してみる。耳には吹きすぎる風の甲高い叫びのような音が響いている。土か,茅野原か,それとも風自身の声なのか? どこにも言葉はない。人間の言葉が消失し,魔術的な呪文がとりはらわれた明朗な世界。おおらかでありながら,自然物のみによって堅固に構築された,曖昧さのない世界。見えない風の踊り場・・・・。音によって充満する沈黙を聴くために私はいつもここにやってくる。」
このわずかな冒頭の行数のなかに,この本のモチーフが凝縮されている。これですべてだといってもいいほどの奥行きのある文章。読めば読むほどにその背後にあるものが,つまり,このあとに展開する数々の物語がわたしの脳裏を駆けめぐる。
メキシコのインディオとの接触によって「沈黙」の世界が開かれ,そこに無限の可能性を感じ取り,その可能性を開く主役が人間のことばではなく自然の「風」。この風をインディオはエカトル ecatl と呼ぶ。精確には,エ・エカトルと発音し,「・」のところで「喉を閉じて一瞬のちにふたたび開く無音にちかい破裂音のなかに,風のすべての形態が隠されている」という。そして,その「・」の声門のふるわせ方によって,微風も,大風も,竜巻のような突風も,みごとに区別し,表現することができるのだという。「彼らの言葉は,いわば反言語によって裏打ちされている」と。
風の音とそれを表す言葉とがそのまま重なり合っているような,ことばの「始原」に立ち会いながら,若き今福龍太は,ヨーロッパ近代の合理主義的思考から離脱し,ことばよりも「沈黙」を大事にするインディオの世界に深く入りこんでいく。そこで出会ったのがル・クレジオ。かれもまた,インディオの「沈黙」の世界にどっぷりとひたり込んで,ひっそりと「生活」していた。
それから23年後に再会した二人は,「奄美群島の聖なる樹々と珊瑚洞窟の世界」へと向う。そこで交わされる会話は,そのままインディオの「沈黙」の世界のそれとなっていく。そして,息詰まるような沈黙を破るようにして発せられる,ごくごく短い会話。単語の提示。それでいて肝胆相照らしあう,深いふかいこころの「触れ合い」。
もう,うっとりするしかない,それでいてドキドキしつづける,今福さんとル・クレジオとの「奄美群島」でのこころの交流。なるほど,「奄美自由大学」を主宰することの根拠がここにあったか,とわたしなりの納得。
たとえば,ル・クレジオのような,今福龍太にとって忘れがたい,しかも,生き方も文体までも変えたというほどの影響を与えた人物を取り上げながら,沈黙と言葉の境界領域の世界,あるいは,始原の言葉の立ち現れる世界へと読者を誘っていく。
巻末には,<薄墨色の文法>探究の先駆者たち,という見出しでわたしたちにも何人かは馴染みのある人名とかんたんな解説がなされている。名前だけ挙げておくと以下のとおり。
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー,ゲイリー・スナイダー,J.M.G.ル・クレジオ,ファン・ルルフォ,ネサワルコヨトル,アルフレッド・アルテアーガ,クロード・レヴィ=ストロース,ミゲル・リオ・ブランコ,トリン・T・ミンハ,宮澤賢治,ゲーテ,エドゥアール・グリッサン,オクタビオ・パス,ジョン・ケージ,フェデリコ・ガルシア=ロルカ,ジルベルト・フレイレ,ヴィニシウス・ジ・モライス,パブロ・ネルーダ,ヴィレム・フルッサーの以上19名。
一章ずつ,丁寧に読んでいきたい,と思う。
一気に読める本ではないのだから。
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